アガパンサス通り
冷たい雨が降った肌寒い夜の次の日。フェルミナ様とニルスが高熱を出しました。
「医者を呼んでください!」
と姉は男爵に頼みました。
「執事に医療の心得があるので見させよう。」
と言って執事に見させた後
「風邪ですね。」
と執事は言いました。
「薬を飲んで、寝ていれば大丈夫だと執事は言っています。ただ、薬代は高価ですからね。代わりに、側妃様が腕につけておられる腕輪を頂きましょうか。」
この頃になると男爵は、物をゆすり取るのに何のためらいも見せないようになって来ました。
私は頭に血が上りました。ティナーリア様がつけている腕輪は純銀製で、ティナーリア様の瞳の色と同じブルーのトルマリンとアクアマリンがついています。薬と引き換えにするには高価過ぎる品なのです。しかし、ティナーリア様は、ためらう事なく男爵に腕輪を渡しました。
「では、王女様の分の薬を持って来ましょう。」
「ニルスの分もください。」
とティナーリア様は言われました。
「でしたら、もっと対価を頂かないと・・。」
私は「ふざけるな!」と叫びそうになりました。しかし、それより早く
「これ、あげます!」
と声がしました。クオレでした。クオレが持っていたのは、クオレの宝物の絵本でした。
「ふん。」
と言って、男爵は絵本を奪い取りました。
「まあ、薬を分けてやろう。」
と言って、男爵は向こうへ行ってしまいました。五歳の子供でも人の苦しみを和らげてあげたいと同情心を見せるのに、物を奪い取る事しか考えない男爵の酷薄さに頭の中が煮えるようでした。
「ありがとうございます、ティナーリア様。ありがとう、クオレ。」
姉の目に涙が光っていました。それは、この屋敷へ来て初めて姉が見せた涙でした。
翌日には二人の熱はかなり下がりました。
でも、それは男爵に渡された薬のおかげというよりも、一晩中濡らしたハンカチを子供達の首や脇に当て続けて看病した姉と母、そしてティナーリア様のおかげだと思います。
翌日、姉は私に言いました。
「子供達ね。食欲も戻って来ているみたい。」
「そうなの。良かったわね。」
「私ね。この前会った女の子の働くパン屋へパンを買いに行こうと思うの。」
「・・姉様。」
「この前もらったパン、子供達もおいしいって、とても喜んでいたでしょう。また食べさせてあげたいの。」
「気持ちはわかるけれど・・お金はあるの?」
「もう少し薪が欲しい」「夜、寒いのでブランケットが欲しい」「天井の雨漏りを修繕して欲しい」そう頼むたびにお金をせびり取られていたのです。それだけでなく
「フェルミナ様の為に、中央の貴族と顔をつなぐのにもたくさんのお金がいる。」
と言われ、持っていた装飾品や時計まで私達は奪い取られていました。
その事に腹は立ちましたが文句は言えませんでした。
「だったら出て行け!」
と言われた時、行く場所が無いからです。それにもっと恐ろしいのは、拘束されてブラウンツヴァイクラントに送り返されてしまう事です。
『国を捨てて逃げた王女とその家臣』
を許す国民はいないでしょう。本国へ連れ戻されれば恐ろしい拷問にかけられて皆処刑されてしまうはずです。
私達はもう詰んでいる。
皆がそう感じ始めていました。それでも、そう思いたくなくて目を背けているだけなのです。
「銀貨を一枚隠していたの。上着の二重ポケットに。」
と姉は言いました。
銀貨一枚といえば、ブラウンツヴァイクラントでは普通の労働者の一日分の賃金です。
「じゃあ言って来るね。裏口からこっそり出るから、私がいない事何とかごまかしておいて。」
「待って、姉様。私も行くわ。」
そして私達は。
裏口のドアをこっそりと開けて外へ出て行きました。
森の中の道を10分くらい歩き続けると、川が見えて来ました。その川に石造りの橋がかかっています。橋を渡った先は左右に道が分かれていて片側に家が並んでいます。
私達は道を歩いていた品の良いお婆さんに尋ねてみました。
「すみません。アガパンサス通りはどちらの方にありますか?」
「アガパンサス通りは、ここですよ。ほら。河原にアガパンサスが咲いているでしょう。」
「そうなんですか⁉︎あの、『フォルカーの店』というパン屋はどこにあるのでしょう?」
「こちらの方向に、そうですね。お嬢さん達の足なら五分くらいかしら。歩いて行くとありますよ。」
とお婆さんは川下の方を指差しました。
「茶色い切妻屋根の建物です。看板が出ていますし、とってもいい匂いがするからすぐわかりますよ。」
「ありがとうございます。奥様。」
私達は川下の方向に歩き出しました。
そして三分ほどで『フォルカーの店』に辿り着きました。パンの香りが周囲に広がっていたので確かにすぐに分かりました。
私と姉は中に入りました。
中央のテーブルと左右の棚に、たくさんのパンが並んでいました。お客さんは一人もおらず、カウンターの中で私くらいの年の男性が本を読んでいました。
とても愛想の無い男性でした。
「いらっしゃいませ」とかないのかしら?と思ってしまいます。
姉は、店内をキョロキョロと見回して
「ドライチェリーのパンはありませんか?」
と男性に聞きました。
「店内に無いのなら無いに決まっているだろ。」
ぶっきらぼうにそう言われびっくりしてしまいました。だって、私達。お客さんなんですよ。
「あの・・・。」
「あんた達ブラウンツヴァイクラント人だろ?」
「そうですけど。」
「ヒンガリーラントの金持ってるのか?」
「・・ブラウンツヴァイクラントのお金しか。」
「だったら帰れ。」
「え?」
「使えるのはヒンガリーラントの金だけだ。国が無くなったら、その国の金なんてただのゴミだろうが!ゴミを持ってくんな。」
・・・。
確かに『貨幣の価値』を保証するのは国家です。亡国の貨幣には価値がありません。でも私達の国はまだ無くなったわけではありません。それに私達が持っているのは銀貨です。ブラウンツヴァイクラントの銀貨は混じり物の無い純銀なんです。
だいたい、初対面の人間にこんな言い方しなくても良いではありませんか!
「まあ、ヒンガリーラントの金を持ってたって売る気無いけどな。持っているとしたらどうせ盗んだ金だろ。隣町に出た覆面強盗もブラウンツヴァイクラントの難民が犯人なんじゃないか、ってみんな言ってるもんな。難民はとっとと自分の国に帰れってんだよ。」
「こちらの店のお嬢さんに『是非来てください』と言われたんです!お嬢さんを呼んで来てください!」
と私は叫びました。
「お嬢さん?ミリヤムの事か?はっ。あいつはお嬢さんなんて年じゃねえよ。あいつなら、王都に奉公に行った。行き遅れにうろうろされてても邪魔だからな。」
もしかして、先日会った優しいお嬢さんとこの男は兄妹なのでしょうか?だとしたら、なんてひどい兄なのでしょう!私の兄とは月とスッポン。ダイヤモンドと泥団子です。
「さっさと帰れ!おまえらに売る物なんかない。出て行かないなら役人を呼ぶぞ!」
悔しいけれど出るしかありませんでした。役人を呼ばれたらもっと理不尽な目に遭わされる可能性もあります。
私達がブラウンツヴァイクラントの貴族だという事も、今まで真面目に誠実に生きて来た事も今ここでは何の意味もないのです。
店の外に出て、悔しくて私は歯を食いしばりました。その横で姉は顔を手で覆っていました。
「ヒンガリーラント人なんか大嫌い。」
と姉は呟きました。
顔を覆った姉の指の間からいく筋もいく筋も涙が伝っていました。
鬱回です(−_−;)
ですが次話から、リナ達の運命は上向いて行きます!
次話の題は『来訪者』
『侯爵令嬢レベッカの追想』に出てくる登場人物が登場します!