亡命
私が大学に行っていた事も姑には気に入らない事なのだったのだろうと思います。
事あるごとに『小賢しい嫁』と言われたものです。逆に、私が知らない事があると、大学に行っていたのに。と馬鹿にされました。
姑は自分が『田舎者』だという事に、ものすごく劣等感を持っていました。貴族に生まれたとはいえ、王宮へ行ったり、中央の社交界に出る事は絶対にありません。だから、『王都の貴族』だった私を尚の事敵視したのだと思います。
我が家は末端の木っ端貴族でしたが、それでもそれなりに王都の社交界のコミュニティーに属していました。我が家に下宿していた下宿人の中には、王宮で働くようになった人が何人かいました。姉のエマの夫は近衞騎士で、その伝手で姉は王女殿下の乳母になりました。そして、母には何故か大貴族の貴婦人のような品格がありました。そんな我が家への妬みを言葉の端々から感じ取ったものです。
私は別に結婚するまで、田舎や田舎の住人に思うところはありませんでした。
でも今は田舎が大嫌いです。豊かな自然。農地や果樹園もですが、何より田舎者の閉塞的な思考回路に吐き気がします。
そして今。亡命して来た隣国で私は姉同様、うんざりしながら田舎暮らしをしているのです。
実家に帰って最初の十日間はとても楽しかったです。
下宿している下宿人も含めて、皆が暖かく迎えてくれました。家政婦のベルダは泣いて喜んでくれました。母と一緒に私の好物をたくさん作ってくれてささやかな『お祝い』をしてくれました。ニルスとクオレともすぐに仲良くなれました。ニルスは木のおもちゃ、クオレは絵本が宝物のようです。
私が家に戻って五日目。兄が『冬の王都』へ旅立って行きました。
私達の家は『夏の王都』にあります。ブラウンツヴァイクラントの冬は厳しく、雪が多いです。寒いのも辛いし、多すぎる雪が人々の行動を制限し流通を止めてしまいます。
その為、国王陛下や大臣や官僚達は、冬の期間を南部にある冬の王都で過ごします。
兄は役人ではなく、大学の理学部農学科発酵学教室の教授の秘書の仕事をしているので、冬の王都へ今まで行った事はありませんでした。
だけど今年は特別です。
実は、発酵学教室の教授の御令嬢は行儀見習いで王宮に上がった時に国王陛下に見そめられて側妃になり、カトライン王女をお産みになったのです。不幸にも御令嬢は、出産の時に命を落とされたそうなのですが、カトライン殿下はすくすくと成長され、今年成人年齢になる15歳になられました。
その為、新年の儀で社交界デビューをされます。教授はそのパーティーに招待され、秘書である兄も同行する事になったのです。
女性好きで有名な国王陛下には30人以上の御子がおられます。寵姫の産んだ男子は、貴族達の間でもたびたび話題になりますが、それ以外の御子が人の話題になる事はありません。その為私もカトライン殿下と、姉が乳母をしているフェルミナ殿下以外の王女の名前はよくわかりません。
そしてその五日後。『義勇軍』が冬の王都を攻撃したというニュースが飛び込んで来ました。
兄達は、もう冬の王都についているはずです。私達家族は皆兄と近衞騎士である姉の夫の事を心配しました。
そして一週間後。冬の王都は陥落し、国王陛下はお気に入りの妃だけを連れて逃亡したというニュースが伝えられました。
私は呆然としました。いくら何でもそんな簡単に王都が陥落するとは思っていませんでした。もし陥落するとしても数ヶ月は持つと思っていました。
王都に置き去りにされた寵姫とその子供達は捕らえられて処刑されたという噂も入って来ました。『寵姫の子供』ではないカトライン殿下とその周囲の人間がどうなったのか、情報が全く入ってきません。
不安で私は眠る事もできなくなりました。
しかし、更に不安になる情報が伝わって来ました。『義勇軍』は夏の王都にも向かって来ているというのです。
夏の王都の人々はパニックになりました。
『義勇軍』とは呼ばれていても、義のかけらも無い反乱軍です。乱暴で残酷で逆らう者は皆殺しにされるという話です。
特に姉のエマは震えあがりました。夏の王都には姉が仕えるフェルミナ王女と母親のティナーリア妃がいます。フェルミナ殿下はまだ五歳で、社交界に出るような年齢ではないし、ティナーリア妃は寵姫ではありません。なので、冬になっても夏の王都で過ごしていたのです。
冬の王都で捕らえられた妃とその子供達は、処刑されたと聞いています。
このままでは、お二人が危険だと姉はひどく動揺していました。
だけど危険なのは私達だって同様です。夏の王都が陥落すればどのような運命を辿る事になるかはわかりません。既に王都からたくさんの王都民が逃げ出しているという話です。
そんなある日の事です。
「お母様、皆で逃げましょう!」
姉が真剣な顔をしてそう言いました。
「王宮の侍従が、逃走先を用意してくれたの。隣国、ヒンガリーラントの男爵領よ。その侍従の姉上が男爵様の乳母をしていたそうで、今も親交があるらしいの。その方達がフェルミナ様とティナーリア様を受け入れてくれるらしいの。私はお二人について行くわ。お母様も、リナもアリゼもベルダも一緒に行きましょう!」
そんなにたくさんついて行って大丈夫?
と思いました。姉だけでなく、フェルミナ様に仕える侍女やメイドは皆ついて行くのでしょう。そんなにたくさん同行して男爵様は迷惑に思われないのでしょうか?
母も冷静な声で言いました。
「隣国ヒンガリーラントは、ブラウンツヴァイクラントにとって歴史的な敵国です。かつて何度も戦争をして、この数十年でも様々な小競り合いがありました。そのヒンガリーラントの貴族家の乳母をブラウンツヴァイクラントの宮廷貴族の親族がしているなどという事があり得るの?その話は本当に信頼できるの?」
「お母様の考え方は古いわ。この十年はずっとヒンガリーラントとの間は平和だったじゃない。大学にだってヒンガリーラントの留学生がたくさん来ているわ。ヒンガリーラントが敵国なんて、そんな考え方は古いわよ。」
「でも、その男爵様は十歳以下なわけではないでしょう?あなたより年上なの、年下なの?あなたが生まれた頃はヒンガリーラントとの関係が冷え切っていたのよ。」
「お母様!今は四の五の言っている場合ではないの。早く逃げないと。命がかかっているのよ!私はフェルミナ様を守りたいの。絶対に死んで欲しくないの!」
姉の気持ちもわかります。けれど姉は冷静さを失っているように感じました。
会った事もない他国の貴族を信じて運命をゆだねるなど、あまりにもリスキーです。
人は善なる存在ではないのです。自分自身のものさしでは測れないほど、底意地の悪い人や残酷な人がいるのです。
ただ、時間が無い、というのも事実でした。反乱軍は迫って来ています。街が包囲されたら逃げ出す事はもうできなくなります。
ゆっくり考えている暇は無い。というのも事実でした。
姉は、もうヒンガリーラントに行くと決めているようでした。私達は一緒に行くのか行かないのか。決断を迫って来ました。
「・・家族は一緒にいた方が良いわ。行きましょう。」
と母は言いました
実家へ戻って来て一ヶ月も経たないうちに、私は家と国を捨てて隣国へ亡命する事になったのです。