蝋燭
翌朝、雨はぴたりと止んで、風呂場のガラスに桜の枝の影が揺れとった。
容子はいつもより丁寧に髪を結い、台所でお茶を淹れたあと、ほんのすこし恥ずかしげな顔をして言うた。
「──あのな、昨晩の蝋燭どすけど、詰まってしもたんどすわ。排水んとこ」
男が本を閉じて顔を上げる。
容子は喉を鳴らすように、ひと息。
「冷たいんか、熱いんか……ほんま、ようわからんかったわ」
そう言うた容子は、浴衣の衿を肩から落としながら、そっと微笑んだ。
あの晩、風呂場の明かりは消していて、 ただ手にもった赤い蝋燭の灯だけが、湯気と一緒にふわふわ揺れとった。
「ちょっと垂らしてみてえな」
そう言うたのは、うちからどした。
蝋がひと粒、肌に落ちた瞬間、 声も出んほどの音が、背中から喉にかけて昇ってきて── けど、それが嫌やなかったんよ。 熱が通ったあとに残る“跡”が、まるで「ここにあった」って証みたいでな。
「ちょうど、あのとき書いてもろた落書きの上に落ちたんよ」
「痕、消えてしまったんか?」
「ううん。むしろな、よう見えるようになってしもた。赤い字に、なったみたい」
夜が静まり返って、蝋燭が短くなっていくあいだに、 うちは一度だけ、あんさんの指をつかまえて、こう言うたんどす。
「火の跡って、よう消えへんもんやろ。 ほな、それでええわ。うち、それでええ思うてる」
その朝、掃除しながら容子は言うた。
「排水のとこ、よう詰まってましたわ。真っ赤な小粒が、ころころ残ってて」
指先をすこし見せながら、笑うてな。
「まさか思い出まで、排水口に詰めてしもたわけやないやろけど、うち、よう取っときましたえ」
その思い出は、いまもガラスの小瓶のなか、ひと粒だけ光ってる。
まるで、まだ熱を覚えとるかのように。