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第一話 米高すぎでしょ

 よし、今日は親子丼にしよう!

 十八時、俺はルンルンと帰路についていた。小粋なスキップなんかして。


 久々の定時上がりだ。


 俺の名前は(らく)()郁夫(いくお)。ちなみにアラサー、中小通販企業の平サラリーマンだ。

 変わった苗字だろう?

 でも俺は結構気に入っている。楽しい、って漢字が入っていると、人生やなことがあっても楽しく生きていける気がする。


 まあ、名前は置いといて、人生なんて辛いことの連発だ。

 勉強を強いられた高校時代。やっとのことで一浪して大学に入ったものの、やりたいこともなく時は過ぎていく。

 勧誘されるまま入ったサークルも、陽キャの巣くつで居心地が悪かった。他にも新卒で入った会社がブラックだったり、人生うまくはいかないものだ。


 でも不運を嘆いていても始まらない。

 生きていかなければならないのだ。


 そのためには、日常のささいなことに楽しみを見つける他ない。

 例えば、週に一回は、昼飯に牛丼ではなく、うまいランチを食べるとか、金曜は夜なべでゲームをして、翌土曜日は正午まで寝るだとか、そういうちょっとしたものだ。


 ちょっとした贅沢――。

 贅沢と呼ぶにはあまりに些末で、貧相だ。


 でも俺は幸せだ。


 そう思い込まなければ、この世界は生きていくには辛すぎる。辛いことばかりだ。

 どうにもこの世界は、俺にあっていない気がする……。

 そう思い始めて、もう何年が経つだろう。

 高校生の頃には考えていたから、もう十五年近くか……。

 進学に失敗しても、就活に失敗してもライフゴーズオン。人生はどこまでも続いていく。


 やり直しなんてできやしない。

 人生の不平等さなんて、考えるだけ無駄だ。

 だから俺は、楽しいことにだけ目を向けて生きていくのだ。


「親子丼、親子丼~♪」


 俺はハミングしながら、スーパーの卵売り場へと向かう。

 安くてうまい。鶏もも肉じゃなくて、むね肉を使えばさらに安い。

 庶民の味方、それこそが親子丼だ。


 それこそが親子丼……。


 俺は卵が山と積まれたカートの前で立ち尽くした。

 十個入りで百二十円。

 それがこの間まで、俺が買っていた卵の値段だ。

 入っている卵のサイズがSからMまでバラバラな分、値段が安く抑えられている。


「そんな、馬鹿な……」

 卵のパックに伸ばす手が震えた。そして、手は卵を掴むことなく項垂れる。

 十個入り二百九十八円なり。

 それが、俺の目の前にある、卵の値段だった。


 目を疑った。


 印刷ミスかと思った。

 隣のコーナーにある、バターの値札を間違って付けたのかと思った。

 だが、違う。

 値札には確かに「卵一パック 二百九十八円」と書いてある。

 卵が二キュッパだと……。


 俺の頭の中で、親子丼が親丼へと変わった。

 ダシで煮込んだお肉だけが、ちょこんと白米の上に乗ったやつだ。

 子供は……卵は……とてもじゃないが、買えない。


 二倍だぞ? んなアホな。

 まあ、いい。今さらメニュー変更なんてできない。

 すでにお腹は親子丼の気分なのだ。

 しぶしぶ卵をカゴに入れ、今度は米コーナーに向かう。

 ちょうどお米を切らしていたのだ。


「ファッッ」

 俺は目を疑った。

 米五キロが……五千円!

 なんじゃこりゃ。

 たしかこの前までは、二千五百円くらいじゃなかったか。

 お、おかしい。

 これは悪い夢か何かか。


「まあ、高い。困ったわねえ」


 俺の背後から主婦同士の話し声が聞こえてくる。

 どうやら卵について話しているようだった。


「最近の物価上昇のあおりね。価格の優等生といわれる卵がこれじゃあ、この先日本の未来もお先まっくらね」

「まったくよ。夫の給料じゃ、手が出せないわ。お米なんてとんだ高級品ね」


 ああ、これがインフレか。


 中身は同じなのに、値段だけが上がっていく。資本主義の七不思議の一つだ。

 その分、給料が高くなるからトントン、というのが理屈らしい。

 そういえば、最近テレビで賃上げがどうのこうの言ってたっけ?


 ……まあ、ウチは上がらないらしいから、知らんけど。

 ウチ、ブラック企業だし。

 そのインフレとやらの影響が、こんな身近まで迫っていたとは……。

 俺は携帯を取り出し、検索窓に入力する。


【値上げ やばい】


 でるわ、でるわ~。

 もうめっちゃでる。

 台所隅のGかってぐらい、でるでる。

 乳製品、お菓子、パン、家具、家電、電気代、宅配便代まで、もうありとあらゆるものが。

 真綿で首を絞めるかのような、生活必需品たちの値上げ。


 いやー、マジか。

 マジでか。しんどっ。

 平均二十五パーセントの値上げに踏み切った企業もあるらしい。


 千円で買えてたものが、千二百五十円。

 これまで渋沢さん一人で足りてたものが、北里さん二人と五百円玉も必要になるってことだ。


 えっ、やばっ。

 マジ高いじゃん。

 ああ、ダメだわ。


 もう日本オワタ……。


 ※※※


 結局、俺は泣く泣く米を買って帰った。米を買う代わりに、卵を諦めて。


 帰りがけに近所の銀行に寄って、残高をチェックする。

 先月の給料込みで、ちょうど百万だった。

 俺は母子家庭で育った。そのため、お金がなくなる怖さというものをよく知っている。

 だから、お金は極力貯蓄に回しているつもりだ。

 にもかかわらず、アラサーで百万はちと少ない気もする。


 銀行をでると、遠目に、見覚えのある後ろ姿が見えた。

 ピシッと伸びた背筋、バリっとシワ一つないスーツは、クリーニングしたてみたいだ。

 長躯でまるでナナフシがスーツを着ているようなその姿は、間違いない達治だ。


 大宮(おおみや)達治(たつじ)

 大学の頃の友達だ。

 同じ経済学部にいて、同じテニスサークルに所属していた。


 陽キャの極みみたいな人たちが集まったテニサーの中で、真面目を字に書いたような達治は少しだけ浮いていた。

 自然と意気投合した。

 仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。


 あの頃は二人とも同じ土台にいて、何もかもが平等だった。

 遊んで、飲んで、カラオケオールをして。

 二人で「金が足りねぇ」と、笑いあった。

 その「金がない」という状況でさえ、あの頃は楽しく感じられた。


 二人の仲が変わったのは、いつからだったか。

 そうあれは、就活が終わったくらいだった。

 片や中小企業の内々定、片やグローバルな総合商社の内々定。

 もしも人生に明と暗の分かれ道があるとしたら、きっとああいうのを言うのだろう。


 今の達治の威風堂々とした佇まいを見るに、おそらく今も順風満帆な人生を送っているのだろう。

 俺とは天と地ほどの差がある。

 今じゃ、もう友達、とは呼べないだろう。

 勝ち組にはきっと負け組なんて、透明人間でしかないのだ。


(よう、久しぶり)

 とてもではないが、そう声をかける勇気はなかった。

 代わりに、別の言葉が口をついて出る。


「いいなぁ」


 ハッ――。

 呟きかけた、口元を慌てて抑える。

 いいなぁ。

 羨ましいなぁ。

 その言葉を言ってしまったら、これまで積み重ねてきた人生の色んなものが終わってしまうような気がした。


 ※※※


 銀行を重い足取りで後にし、家路につく。

 街灯が辺りを、薄暗く照らしている。心許ない明かりだ。


 毎月の出費を、頭の電卓で叩く。

 なぜだろう、自分の生活を振り返らずにはいられなかった。

 今日はそんな夜だった。


 家賃 七万。都内1Kだとすれば、まあ安い方だ。ボロくて、古い安普請に目をつぶればだが。

 食費(外食費込み)で三万。弁当を作ってない割には、安い方だろう。

 光熱費が月平均で二万程度。

 オール電化の電気代高い。特に給湯すげー金かかる。

 ネットと携帯の通信費で、だいたい五千円。

 彼女もいないので、交際費はゼロだ。


 就職と共に上京した俺には、こっちに遊ぶような友達がいない。

 それゆえ、交友費用もゼロ。

 しかし、会社の先輩との付き合いがある。奢りもしないケチなくせに、飲みたがる面倒なやつだ。基本断っているが、月に二、三回は付き合ってやらなければ、仕事に支障が出る。

 よって、社畜費用(俺が勝手にそう呼んでる)は二万だ。


 あと忘れてはならないのが、奨学金の返済。

 月々二万五千円を払っていた。

 過去形なのはつい先月払い終えたからだ。ボーナスのほぼすべてを返済に充て、繰越返済制度も使って、ようやっと返し終わった。


 フリーダム。ひゃっほーい! 

 ……とはならなかった。借金を返しても、人生という借金は続くと気づいたからだ。


 生きているだけでお金がかかる。

 生きることと、お金の心配とは、切っても切り離せない。


 そんなこんなで、毎月の支出を合計すると、十七万。

 給料は手取りで二十三万。額面で十八万程度。

 他の企業に勤めている同級生と比べると、どうやら俺は年の割には給料が低いらしい。

 かといって、転職できるほどのスキルはない。


 結局、安月給で働くことが最善に思え、今もこうしてブラック勤めをしている。

 差額の一万をこつこつと貯めた結果、ボーナスと合わせて得られたのが、この百万というわけだ。

 俺は誇らしくもあり、悲しくもある視線を通帳にやった。


 よくがんばったなあ、俺。

 自分で自分の頭をなでてやりたいくらいだ。


 一般的に、百万は大金だ。

 でも、それだけあっても、今の物価じゃ半年も生活できない。

 現実とは、かくも悲しいものなのか……。


 こうやって、資本主義社会の一歯車として、人生は終わっていくしかないのか。


 ああ、神様、女神様。

 異世界転生とか、俺にもできないものかな。

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