最後と最初
最後
男は灰色の天井を眺めていた。
スマホの見過ぎで疲れた頭。
血流が波のようにうるさく響いている。
布団の上で、重たくなる瞼を閉じないように注意する。
寝たらダメだ。
寝ると向こう側に行ってしまう。
これまではなんとか戻って来れたが次はダメかもしれない。
これ以上誰かを裏切ることはできない、ずっとそう思って目を覚ましてきた。
だが、彼も気づいていく。引きこもっている以上そんなのは言い訳でしかないことに。
「達郎。ご飯よ、降りてきなさい」
厳格そうな女性の声だ。
意識が飛びかけていたのか、階段を上がってくる音がしなかった。
達郎と呼ばれた男は起き上がり、階段を降りて行く。
高校を中退して虚無の3ヶ月。
彼の母親も自身の息子のため色々と考え,苦労している。
その、考えの1つとして食事は家族で取るとの取り決めがなされた。
しかし話すことは、通信制の高校に通えるか、バイトでもいいから働いてみないか、あの時辞めていなければ……そんなことばかりになっていった。
「いただきます」
母親と向き合い、しかし、鋭いその目と合わせぬようにまずは米を食べる。
次に焼き魚を少しずつ、少しずつ……。
この生活はいつかは終わる。それを思うと食べ物が通らなくなっていく。
だから考えない。箸を止めてしまわないようにする、それだけをただこなす。
男は思考を放棄していた。
最初
「女装はいいぞ。達郎もやってみ?」
6月初め、山道の苔むしたアスファルトを歩く2人。
「だから、遠慮するって言ってるじゃないか」
先頭を歩く男、達郎はおれの提案に首を振った。
おれは学校が終わってすぐ達郎に連行され、それ以来目的地も知らされずにいた。
「元はと言えば、お前がやれって言ったのに……」
「あの時は悪かったよ…」
昔、おれは達郎に拉致られたことがある。
その時に女装させられたことをきっかけに女装なしでは満足できない体になってしまったのだ。
「変わんないよな。あの時みたいにただ着いて来いって言って。今度は何するつもり?」
「着いたら教えるよ」
さっきから、達郎はそう言っておれを連れる目的を話そうとしない。
彼の家はこんな山奥にないから、どこに向かっているのかもわからない。
「何が君をそんなに虜にしたんだい?」
達郎がふと不思議そうに訊く。
「外見を変えることは最も簡単な自分を変える方法だからな」
「なるほどね」
あの日以来、達郎はおれを女装させることは無くなった。
むしろ、おれがやろうと言っても断られるくらいだ。
結局、彼にとってはただの遊びだったんだろう。
「着いた」
達郎の足が止まった。
そこはポツンと佇むボロボロの,一目で空き家と分かる家屋だった。
「何するつもり?」
「とりあえず入るよ」
達郎が引き戸を乱暴に開け、土足で廊下を進んで行った。
おれもそれに続く。
夏を先取りしたような暑さと、空き家を歩くという非日常的な状態のせいで眩暈がした。
廊下の行き止まりで左に曲がり、さらに進んだ先の部屋に入った。
物置部屋のような場所で、雑多な物を踏まないように進んでいくと、それはあった。
「……とびら?」
白い扉が壁際に置かれていた。
異様な存在感を放ち、達郎が見せたかったものがこれだと一目で分かった。
真っ白で、アーチ状の扉。
内側は装飾がないシンプルなデザインだが、枠が所々剥げている。
よく見ると全体に細かい文様が刻まれている。
「そう、これを見せたかったんだ。今から入るけどその前に1つ。扉の先では何が起こるかわからないから僕から離れないで。絶対だよ」
「……わかった」
扉はどことも繋がっていないため、入るも何もないはずなのに……。
おれは判然としないまま頷く。彼が危険というのなら従わない道理はないからだ。
達郎は金属のドアノブをひねり慎重に開く。
真っ白な光で中が見えない。
おれたちは扉を潜った。
そこに広がる世界にますます現実からの離脱感が強まる。
霧があたりを覆っていて、真っ白な何もない空間が見える限りどこまでも広がっていた。
「すご」
思わず声が漏れた。腕には鳥肌が立っている。
「ふふん。そうだろ」
達郎はなんでか得意げだった。
足元に目線をおろすと色が抜けていて宙に浮いているみたいだ。
……別世界だ。
と、白い何かが地面に散らかっているのに気づく。
「何これ?」
「ああ、これね……」
達郎はしゃがんで足元にあった小さな塊の1つを手に取った。
足元の白さと同化して見にくい。近付いて見るとそれは動かない白いゴキブリだった。
ギョッとするおれに、達郎は少し楽しそうだ。
「ここの扉は昼の1時から夕方7時以外の時間には消えてしまうみたいなんだ。その時間にここにいた生き物は翌日、こんな風に蝋のようになっている」
おれはゴキブリ蝋から離れつつ、話を聞く。
普段なら混乱して理解できなかっただろうが、こうして廃屋にあるはずもない真っ白い空間に置かれているとすんなり理解できた。
だから、おれはもっと訊く。
「ここ、なんなの?」
「お告げがあったんだ。夢で男から、この扉のことを知らされた」
「夢で?」
おれは詳しく説明を求めた。
すると、彼は夢男から聞いたことを話し始めた。
以下がその内容である。
①この世界には住民がいて、彼らは魂として暮らしている。
②神殿と呼ばれる場所で体を捨て、魂を切り離すことで彼らは居住権を得た。
③体、肉体は異界のエネルギーになる。扉が存在する19時を過ぎるとエネルギーの回収が始まる。さっきの虫のように、魂を切り離さないと体に永遠に閉じ込められてしまう。
④現在、異界はエネルギー不足で崩壊しかけていて、夢男は達郎に住民となる代わりにエネルギーの供給をしてもらう取引を持ちかけてきた。
⑤異界の崩壊は今日も入れてあと9日である。
「ここの住民になれば、全て実態がないから外見どころかなんでも変えられるようになる」
「……つまり?」
「僕はここの住民になろうと思う」
「……」
おれは何を言えばいいのかわからず、何も言えなかった。
また、すぐに何かいうべきではないとも思った。
外の空気が吸いたいと言い、達郎と扉を出た。
が、納戸は埃っぽくて最悪だった。
「ここ、埃っぽいよね」
そう言う達郎も口を袖で押さえていた。
「元は誰か住んでたんだよね」
「元はね。今は扉の向こうにいるかもしれないね」
達郎はそう言って、扉を傾け始めた。
「何するつもり?」
達郎の奴、おかしくなったのか?
と思ったがどうやら違うらしい。
「毎回こんなところまで来るのは面倒だからね」
彼はタレ目の左に涙ほくろを持つ、理知的でミステリアスな顔でこっちを見てきた。
おれはなんだか嫌な予感がした。
「扉を家まで運ぶのを手伝ってもらいたいんだ」
所有者がいないとはいえ、盗みはよくない。
そう言ったが結局、おれは達郎を手伝うことになった。
扉を一緒に背負って山の入り口、自転車を置いといた場所まで下り切った。
一旦扉を置いて、おれは息を整える。
だが、達郎は何か思い立ったのか扉を開け向こう側を覗いて、数秒してこっち側に体を戻した。
「自転車、この中に、入れちゃおう」
まだ息が整っていない中彼は突然にそんなことを言った。続けて、
「こっちの扉が動いても、向こうの扉は、動かない、みたいだから」
と息も絶え絶えに話した。
白い腕が胸を抑えて震えている。
「どうして、そんなことがわかるの?」
「落ちてる虫が離れてなかったからね」
彼は苦しそうに言って咳をした。
その背中をさすってから自転車を二台運び入れた。
しばらく休憩し、太陽が薄い雲に陰りあたりがわずかに暗くなった時、出発した。
「お前は夢のお告げを信じてるの?」
思考がまとまって、おれは達郎に訊く。
達郎の話は全体的にぼんやりしていて、信じがたい。
「うん。悪いモノは感じなかったから‥‥‥」
「そんなの当てにならない‥‥‥」
「そうだよね。これじゃ説得力もないよね。僕も孝を誘おうとしてるんじゃなくて、もし僕の身に何かあった時、君に知っておいてもらいたかったんだ」
おれがひるむと、達郎は続ける。
「さっきも言ったけど僕は向こうの住民になろうと思う。そしたらこんなふうには会えなくなるだろうけど」
「なんで……」
「なんでだろうね。でも、そうするしかないと思ったんだ」
夢男のことは胡散臭いが、達郎にそれを主張しても無駄そうだ。
そして、向こう側の住民になるのを止めても、無駄だろう。
おれにできることは1つしかなかった。
彼が間違ったことをしないように、しっかり見張っていることだ。
五時のチャイムが鳴る頃にヘロヘロのおれたちはようやく達郎の家に到着した。
自転車を取り出す。これで終わりだと座り込むおれへ達郎は手を差し伸べてきた。ありがとう、と手を借りて立ち上がると絶望することになる。
「よし、最後、裏山まで運ぶよ」
「え? なんて?」
「扉を裏山に隠しにいくよ。ここじゃ邪魔だから」
「やだ」
「いやでもやるの」
達郎がおれを引っ張り、おれは全力で暴れる。
が、おれは弱かった……。
再び達郎を先頭にし扉を運び、裏山の倒れ掛けた竹をどかした先に扉を設置した。
疲れたおれらは転がるように下山した。
「ありがとう。僕一人じゃできなかったよ」
「助け合いだよ、今度何か奢って」
「金がない。むりだ」
達郎はポケットをわざわざ裏返しておどけた。
「じゃ、宿題写させて」
「それならお安い御用さ」
そんな会話にお開きの雰囲気が流れた。日はまだまだ出ていたが特にこれ以上することもなかった。
「じゃ、おれは帰ろうかな」
おれは体を翻し自転車にまたがった。
それから、達郎に振り返った。
「ええと、おれも神殿探し、手伝っていい?」
「うん。もちろん」
達郎はサッと親指を立てた。
おれも親指を立て、ペダルに力を込めた。
帰り道、少し涼しくなった風におれは流される。
達郎を見張る。
神殿を探す。
住民になるかは話がもっと見えてこないとまだわからない。
波のように揺れる木々の音が全神経を鋭くする。
だからだろうか。
何かが起こる予感がした。