虹が来る
綺麗は汚い、汚いは綺麗。
『ギィガァヴゥゥッ!』
「何ッ!?」
クリスが走り出した瞬間、ヒュドラの一部が分離、三本首に二枚の翼を持つワイバーン型生物として、彼女を追い出した。真ん中の口に見えた部分は今翼として使っている部分だったようで、個体ごとの形状はちゃんとクモヒトデしてた。だから何だと言わないで。
「クソ、待ちやがれ!」
『ギィガァァヴヴッ!』
『ぐぅ、こいつ……!』
むろん、残った六本首のヒュドラになってもヒュドラは強い。ポダルたちを追わさず逃がしもしなかった。巨体に加えてロクな反撃が出来ないというのは、この上なく厄介である。有効打が無い時点で、最初から負け戦と言えるだろう。
「頼むぞ、クリス!」
とは言え、ポダルたちにやれる事は一つしかない。たくあんはクリスに託したのだから。
◆◆◆◆◆◆
『ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ!』
『ぬぬぅ~ん……』『プリリ~ン……』
クリスが走る。泥濘だらけの大湿原を、疾風よりも速く。カイツブリのように変じた両の足で、泥を蹴って。
カリカンジャロスは大地の精霊。どんな悪路でも進める足がある。今までの長い旅路を、病魔に負ける事無く続けられたのは、この変形機能を持つ足のおかげだ。
それでも、セレスまでは数時間掛かる。一切の休憩を挟まず、速度も落とさず進んでも、それくらいは掛かってしまうのである。もちろん、途中で転んだりなどのロスタイムがあれば、たくあんもスプリガンも持たない。
『ギィガァアアアヴヴヴッ!』
『クソが!』
だが、そんな事はお構い無しに……というか、むしろ積極的に妨害を仕掛けようと、三つ首のヒュドラが現れる。
さらに、先頭の口に毒液を溜め込み、
――――――ドギャギャギャギャギャギャギャギャッ!
空中で円盤の如く回転しながら、毒液弾を放ってきた。吐いた口と溜める口を次々と交換するという、高速かつ意味不明な流れ作業だ。やはり、蛇頭も翼も所詮は触腕でしかないのであろう。
『……くっそぉおおおおおっ!』
しかし、クリスは振り向く事無く全力で走り続けた。ゴーストステップで照準をずらしつつ、スピードを一切落とさずに突き進む。僅かな空気の流れ、臭い、明暗だけで判断しながら全力疾走など、恐ろしくて仕方ないが、クリスはやってのけていた。
だが、そんな事を続ければ、体力は加速度的に減っていく。このままでは持たないし、何時かは被弾する。一体どうすれば……?
と、その時。
『跳べぇえええっ!』
『――――――っ!』
行く先から叫びが聞こえ、クリスは反射的に跳躍した。
――――――ドワォッ!
『ギァアアアアッ!?』
その瞬間、凶悪な魔弾が眼下を通り過ぎ、三つ首のヒュドラを撃ち抜き、粉砕・玉砕・大爆砕した。一体誰が何で撃ったのか?
『……あ、あんたは!?』
『ハティだ。たくあんの友達だよ』
その正体は、黄金の大銃剣を担いだドヴェルグの少年、ハティだった。
実は彼、ディオメデスのニュースを見た日に仕事でセレスへひとっ飛びしており、今はその帰り道だったのだ。言うなれば唯の偶然なのであるが、嫌な予感がしていたのも事実だったので、遠目に見付けた弱ったたくあんを助けようと馳せ参じたのである。
『それより急いでるんだろ?』
『そ、そうよ、急いでるの! この子をセレスまで運んで! 早く! ヒュドラに噛まれてるのよ!』
『――――――そういう事かよ! なら、一纏めで行くぜ!』
そして、血反吐を出し始めたクリスごと抱きかかえたハティは、セレスへと取って返すのだった。
◆◆◆◆◆◆
『ギィィグァヴヴヴッ!』
ヒュドラが円盤の如く回転しながら宙を舞う。まるで雹や礫のように毒液弾が発射され、周囲を瞬く間に汚染して行く。草木は枯れ果て、泉は紫色に染まり、汚泥は夜よりもどす黒くなる。大気すらも色付き始め、全ての命が根絶やしにされようとしていた。この穢れの前には、環境変化に強いバクテリアですら抗えない。
これぞ毒蛇の怪物、ヒュドラが持つ汚染能力。生態系そのものを引っくり返してしまう、恐ろしい力だ。
『くそ~っ、どうしたら良いんだ!』
「悪態を吐く暇があったら避けろ!」
そんな絶望的な状況下でも、ポダルたちは無駄な抵抗を続けていた。言うまでも無く、完全な負け戦である。どんなに気を付けていても切り傷は付けてしまうし、そうなれば頭数を増やされ、毒まで撒かれる。本当に厄介な相手だった。かのヘラクレスですらヒュドラの毒牙からは逃げ切れなかったのだから、これもまた仕方ない。
《そこのお前、逃げてばかりなら協力しろ!》《迷惑なんだよウマシカ野郎!》
『ブルヒィッ!?』
すると、ピグミーたちが一瞬の隙を突き、唯一生き残り逃げ惑っていたディオメデスに跨り、ロデオを決めた。ディオメデスは首の根本が弱点なので、こうなると従う他無くなる。
《《投網だこの野郎!》》
『ギィガァヴヴヴヴ!?』
さらに、特大の蔓投網をヒュドラにぶつけ、墜落させた。こんな網、直ぐに解かれてしまうだろうが、今は値千金だ。
「――――――離れろぉおおおおおっ!」
ポダルの大技を当てる暇を稼いだのだから。
「死ねよやぁあああ!」
『ギェアアアアアッ!?』
膨大な魔力を込めた魔法剣が光のパイルとなり、ヒュドラの連結部位を貫く。傷口が焼き固められる上に内部から燃え上がるので、毒素が外に漏れ出る心配も無い。やはり汚物は焼き尽くすに限る。
こうして、ヒュドラの侵略行為は止められた……と思われた、その時。
――――――パァアアアアアアン!
突如、花火が上がるようにヒュドラの肉体が崩壊して、毒霧の空を澄み渡らせた。閉ざされていた日光が差し込み、美しい虹が描かれる。
『ウフフフフフフ……』
そして、弾けた光が一つに集まり、女型の巨人となった。
グラマスな体形のゼータ・レチクル星人を基本とし、ヤママユガ科の雄を思わせる櫛型の触角、虹色にスクロール点滅するアレキサンドラトリバネアゲハのような翼、腰元に悪魔の尾によく似た一対の触手を生やしていたりと、凡そ地上の生物とは思えない、地球外生命体染みた姿をしている。背部に差す虹色の後光は、神秘的ながらも不気味な彼女という存在を如実に表現していた。
彼女の名は「イリス」。かつては「イーリス」とも呼ばれた、虹を司る天使である。
◆『分類及び種族名称:虹天使=イリス』
◆『弱点:不明』
◆イリス
巨神「タウマース」と女神「エレクトラ」の娘とされている、虹を司る女神。半人半鳥の醜い怪物「ハルピュイア」の姉に当たり、神々の血をきちんと受け継いだ成功作と言える存在である。その為、妬んだ妹たちから散々な嫌がらせをされていたが、後にドン引きするようなやり方で返した。
正体はヤママユガ科の怪物。本来は寄生される側だった筈が、今は自分が他の怪物に寄生して暴走させ、生態系を狂わす悪魔となっている。




