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憧憬証明




 (うなじ)に刺激。それは唇だった。

 啄むように吸い、食み、這わせる。物欲しそうに愛撫が繰り返される。

 同じ行為を求めているのだと、少女は皮膚を通して訴えかけてきた。唇を、接吻を、と。

 脇の下を通った腕が絡む。掌が、指先が、シャツの腹を、胸を這い登り、撫で擦る。

 もう片方の手は俺の腕に絡み付いた。枝を渡る蛇のように、手の甲に、少女の華奢で、白磁めいたそれが重なる。


「カゲユキさん……カゲユキさん……」


 囁きが鼓膜を震わせる。さらにその奥のデリケートな芯の部分までも、強かに。

 耳の裏に鼻を押し付けられ、臭いを嗅がれていた。二十も半ばを過ぎれば体臭もまた年相応に老いるもの。それを、鼻で()()()ようにして、吸われている。

 その羞恥は痛みすら伴った。あまりの倒錯感に視界が惑乱する。

 俺の背骨に少女は自身を擦り付けた。猫のマーキングに近しい行為。

 いや、この熱は。湿りを帯びた熱さ、粘り付くような感触は。これは果たして汗なのか。

 この甘い匂いは、いずこから発しているのか。

 瞬時に過った好奇心を殺す。

 知るべきではない。

 それを見た時、知った時、俺は確実に逃げ場を失う。己が内から溢れた後戻りできない何かによって理性は木切れ同然に押し流されるだろう。

 俺は俺の精神力に対して微塵の幻想も抱けない。

 俺は、俺の惰弱を知っている。

 だから。


「花宮さん、もう遅いですから、そろそろ帰った方がいい」

「シてくれたら、考えてあげます」

「帰れと、そう言ってる」


 悪戯っぽい言葉にも取り合わず、背中の体温を押し退けながらに立ち上がる。

 振り返り、凝然と見下ろした少女は、苛立つ己の面皮とは裏腹に穏やかな面持ちをしていた。

 俺が逆上などできないと高を括って……いや、そのような浅はかさ、その黒曜の怜悧な瞳には一分と含まれない。

 全て承知で。ともすれば襲われることをこそ望んで。


「はい、カゲユキさんのシたいように」

「っ」


 少女は両腕を広げた。抱っこをねだる子供の無邪気さ、そして淫婦の妖しさで。

 俺は戦慄した。

 心を読まれるとは、こんなにも恐ろしいものか。

 奥歯を噛んで、視線を研ぐ。


「そんなつもり毛頭ない。家に上げたのは脅されたからだが……あんたの厚意は純粋に有り難かった」

「……」

「飯は美味かったよ。だからこそ、がっかりだ」


 依然穏やかなその眼差しにこちらこそ耐えかねて目を逸らす。

 やはり初めから、追い返すべきだった。

 そうすれば俺は、少し強引で謎めいたこの少女に対して困惑はあれ失望など抱かずに済んだろう。

 年の離れた友人くらいにはなれたかもしれない。

 その道は絶えた。彼女の行為は容認しかねる。

 どんな魂胆があるにせよもはや駄目だ。これは駄目だ。

 法、倫理、大人としての正しい有り様……そんなことではない。そんな、真っ当な、真人間のような理由は、俺の中にはない。まったく相応しくない。

 俺はただ、俺に自儘な快楽(けらく)を許せないのだ。そんなものの享受を俺に、許してなるものか。

 絶対に。絶対に。


「……痴漢から助けた女性にその見返りとして体の関係を迫る? 自慰を覚えた猿でもまだもう少しマシな発想が浮かぶ。まさかあんたも、これはお礼のつもりだった、なんて言わねぇよな」

「あれはただの切欠です。カゲユキさんと出会う機会を私にくれたアクシデント。ふふ、私は別にそれを理由にしてもいいんですけど」

「他に、何か理由があるのか……こんな真似をする理由が」


 俺に、この若く美しい女が誘惑を向ける価値はない。収入の面から美人局の標的としても旨味は薄い。

 男女の仲を期待した俺を虚仮にし、揶揄(からか)い、物笑いの種にする為に? この辺りか。いや、労力とリスクの割には娯楽として見合わない。現実的ではない。

 俺はもう何度目かも忘れた疑問を胸中に抱いた。留まらず、喉からそれは溢れる。


「何故だ」

「好きだから」

「それはもう聞いた! 俺が知りたいのは」


 知りたいのは、なんだという。

 納得感を覚えたいから、少女の口から相応しい動機を捏造して欲しいのか。

 違う。

 俺は、確かに納得したい。腑に落とせるだけの解答を欲している。その思いはある。確かにある。

 しかしそれ以上に、この少女を納得()()()()のだ。 

 俺の、尾上カゲユキの無価値なるを認めさせたいのだ。

 筋違いの過剰な評価など苦痛以外の何物でもない。少女が俺に幻覚する好意。その勘違いは耐え難い。精神錯乱もいいところだ。

 どうすればいい。どうすればこの少女に。


「どうすればカゲユキさんにわからせてあげられるんだろう」

「それはこっちの台詞だ」

「ううん、わかってないのはカゲユキさんの方だよ」


 なお反駁する少女に業を煮やし、視線を向けた時。

 少女が床の上で、回った。

 転身、足がまるで時計の針のようにぐるりと巡る。空間を薙ぐ。

 直近に立つ俺の足を、彼女のしなやかな脚が蹴り払う。

 あっさりと転倒して仰臥する己に少女が馬乗りになった。

 吐息の触れる距離に美麗な顔が迫る。火のように熱した興奮が、気息と体温を媒介に浴びせかけられる。


「っ! っ!?」

「私がどれだけ我慢してるか」


 赤い舌が、ちろりと己の唇を舐ぶった。

 慌てて顔を逸らすが、がっちりとその両手が頬を捕まえる。

 眼前に二つ、穴が空いている。闇色の瞳から、混濁した色が、想いが、己の眼球に流れ込んでくる。


「見付けたと思った。もう一生見付からない。どうにもならないもの。私の……カゲユキさんの目があんまりにもやさしかったから。あぁ、この人なら、この人だったらいいなぁって。だからその日の内に調べた。提携してる専門業者と私の伝手を使って、情報の確度を取りながら急いで、丁寧に、丹念に。一日あれば大体のことはわかるよ。私はカゲユキさんの生まれた病院も、今の生活環境になるまでの足跡も、全部知ってる。全部。ぜーーーーんぶ」


 調べた。病院で居合わせた際にも確かに、少女は言った。

 保護され、厳重に秘匿された個人情報であっても、なるほどこの少女ならば探り当ててしまうだろう。そんな、怖ろしげな信頼すら湧いた。信じさせるに足る凄みがこの闇色の瞳にあった。

 恐怖に値する。その異常性に否定の余地はない。

 けれど、しかし。俺の注目は、懸念は、少女の行動力や人物背景を素通りして。

 恐怖、俺が恐れたのは一つ。

 全部。全部とはどこまでの、いつからの、どれほどのことを指すのか。

 俺の全部。全部、知っていると。


「俺の、なにを、知って」

「……」


 静謐な目が俺を見下ろしている。重力を伴なって視線を掌握する。

 目を逸らせない。

 逃げられない。


「俺のなにを知ってるってんだッ!?」

「カゲユキさん。カゲユキさんは、正しいです」

「あぁ!?」

「カゲユキさんは正しいことをしたんです。正しく────殺した」

「────」


 呼吸が止まる。時間が止まる。音が消える。色が消える。

 世界から全てが遠退き、ただ灰色の視界に。

 二つの闇。闇色の瞳だけが。

 そうして無音の最中に、少女の声だけが淡く響く。


「貴方は間違ってない。貴方はすべきことをして、お母様を守ったんです」

「は……ぁ……あ……あぁ……」

「私には、できなかったことを為し遂げた。カゲユキさんは、私の憧れ。私の理想。私の、叶わなかった夢です。だから」


 ゆっくりと白い顔が降りてくる。深淵の闇が降りてくる。

 美しい少女の容をした魔物が、微笑んだ。


「幸せにします。今度こそ、もう絶対放さない。もう絶対っ、死なせないッ!! あぁ、カゲユキさん……」


 大好きですよ。

 囁き、魔物は俺に口付ける。唇を割り裂き、舌をねじ入れ、口内を凌辱する。その奥底、魂までも食らうように。けれどまた……独りぼっちの童のように、必死に。

 少女は涙を流した。










 弟か妹か、それはわからない。

 お兄ちゃんになるんだよ、母は俺にそう微笑んだ。

 よくわからないが、そういうものなのだろう。小学生だった俺には、未だ見ぬ兄弟妹(きょうだい)という関係を実感することは難しかったが。

 それでも、不思議な嬉しさに胸が暖かくなったのを覚えている。気恥ずかしいような、擽ったいような。

 母は微笑んだ。俺も笑った。

 きっと幸せだった。いや、確かに、幸せがあった。

 そこに、あったんだ。




 あの日。

 母の腹を踏み付けにする父を見た日。


 ────俺は父親を殺したいと思った。















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