72:逃げなきゃ死ぬ
『逃げなきゃ死ぬ』
そう自覚した。
ここは観光地でも、遊園地のアトラクションでもない。
何が起こるか分からない迷宮であると。
今更高鳴り始めた鼓動を苦々しく感じる。
漠然としていた脅威が明確な証拠を残すまで、危険であることを意識していなかった。
『悔やむのは後だ』
伏せる時に少し痛めた膝を叱咤し立ち上がる。
「逃げましょう。……?」
ボリュームを落とした声には反応がない。
伺うと2人共瞳孔の開いた目でどこかを見つめたまま震えている。
肩を揺すっても強張るばかりで動くことはない。
軽く見渡せば『ブレス』の直撃を逃れた者も大半が同じように固まり動かない。
これはまさか『恐慌』状態?
広範囲殲滅攻撃に加えて、範囲状態異常付与?
なんだあいつは! バケモン過ぎんだろっ!
今5体満足なのは運が良かっただけ。明らかな初見殺しだ。
『初っ端から必殺技撃つ無慈悲さ』、『なんでそんな奴がここに』だとかの文句を今は放っておく。
「『倉庫』」
クラフトメニューで下級ポーションを分解、液体を取り出しぶっかける。
俺には破くよりこっちの方が早い。
「あっ冷たっ?」
「……んっ」
良かった。
ポーションが効いたのか冷たさが効いたのか、焦点の定まった瞳が俺を見た。
「逃げますよ」
俺より優秀な2人は指さされた方向を見てすぐに頷く。
指の先は水路。
一段低くなった場所に人ひとり通れる幅の縁がある。
堆い剣山のような丘を横断するのはリスクが高い。
だから石英の槍を隠れ蓑にしながら入口まで逃げる。
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時間にして1分ほど。
甚大な被害を齎した『ブレス』から動きを止めていた怪物がのっそりと動き始めた。
背に生えていた石英の柱が小さくなっていることを除けば何事もなかったように、大きく開けた口を閉じ、地響きを上げながら足を運ぶ。
その動作だけで石英の山は硬質な音を立てながら崩れた。
崩れ落ちた先から力尽きた魔物と同じように塵へと変わっていく。
その歩みはどちらかと言えば緩慢な動作。
しかしあまりの巨大さ故に距離を詰めるのには時間はかからなかった。
そこは己の放出した石英が赤黒く染まっていた場所。
おもむろに首を曲げ、大口を開け、閉じる。
ただ、それだけ。
咀嚼も無く、淡々と嚥下。
余りにも呆気なく、冒険者だったモノが深淵に消えた。
数少ない意識のある冒険者は理解した。
狩る側から食われる側に回っていたことを。
さらに数少ない逃げる冒険者は理解した。
露わになってきた惨状はその魔物にとって餌場に過ぎなかったことを。
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水路の縁を走る。
石英が消え行く中、横目に見えてきた惨劇に戦慄する。
攻撃の根本にあったのは焼失でも粉砕でもなく、ある程度原型を留めた状態での殲滅。
そしてオマケに耐性の無い者を行動不能にする状態異常。
つまりは、恐ろしいほど『捕食』に特化した攻撃。
あのバケモンは冒険者を敵とは見ていなかった。
始めから餌としてしか見ていなかった。
一撃必殺のワンウェポン。
それ以上もそれ以下もなく、それが最適。
だから……ああやって……同業者を、共に戦っていた仲間を投げ捨て、振り払い、足蹴にして見捨てる逃走者を追わずに、動かなくなったモノを捕食している。
だからこそ俺達も……もうここまで来たなら何事もなく安全に逃げられる。
――まだ生きているであろう動かない冒険者達を見捨てることで
「……ダメ」
不意に消え入りそうな声が聞こえた。
いつの間にか立ち止まり、握りしめていた右手に冷たい手が触れる。
「……行っちゃダメ……助け……られない」
そこには初めて見る、今にも泣きだしそうな金色緑色の瞳。
「せんぱい。無理だよ……強い人達に……任せるしかないよ」
それは初めて聞く、今にも崩れてしまいそうな悲痛に満ちた声。
逃げきれた安堵など一つもない。
あるのは痛哭してしまいたいほどの無力感。慟哭するほどの罪悪感。
それでも冒険者の鉄則だと、定石だと、変わること無い常識であると込み上げる感情を押さえつけて、2人の少女は気丈に立っている。
気持ちは痛いほど分かる。
早く帰って強い酒でも飲めば紛れるかもしれない。
でも、ダメだ。
込み上げてくる何かを無視できない。
――本当に無理なのか? 助けられないのか?
俺は『現状把握』をしたか? 検討をしたか? 何か試案の一つでも考えたか?
答えはNOだ。
だったらやる事は決まってる。
思考を巡らせ、要素を積み上げ、段取りを組む。
何もやってないのに不可能だなんて言ってたまるか。
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『助けるから2人は先に行ってて』と聞いた2人の心臓が飛び跳ねた。
ほんの少し何かを考え込んで素早くメモ帳に書いた後、すぐ飛び出そうとしたからだ。
「なんでっ! 絶対ダメっ! 死んじゃうって!」
「……本当にダメ。本当に」
「いや、大丈夫ですって。ちょっと行ってくるだけですから」
あのとんでもない威力の『ブレス』が怖くないのか。
初見の魔物にまともな情報も無く戦うのは自殺行為。
それが『階層ボス』ともなればそれは戦いにもならない。
言葉を絞り出し、行かせぬよう手を握り訴える。
しかし懸命な訴えは、即座に退けられた。
「絶対に敵わないよっ! 逃げよぉ。ねぇっ……お願いだからぁ……うぅ」
ついにマルテの説得の言葉は崩れ、懇願と雫となって零れた。
縋るように覗き込んだ黒い瞳に宿っていたのは決意。
前を見据える揺ぎ無い意志を感じ取ってしまったから。
「……どうして? 行っても死ぬだけ」
辛辣に聞こえる言葉に乗せられたのは、静かな怒気と最終通告。
返答次第では気絶させてでも脱出させるという意思表示。
『理想を語っても実力が伴わなければ空言』。
幼い容姿に見合わず踏んできた場数が、この緊迫した状況においても適格な判断を導いていた。
だからこそレオは不思議でならなかった。
当然自身も助けたい気持ちが無いわけではない。
しかし、なんの術もなく死地に向かうのは自己犠牲でもなんでもなく無駄死にだ。
強力な空間魔法をもってしてもあの物量を食らえば一溜りもない。
それをこの人が分かっていない訳がないのだ。
「危ない事はしませんよ。助けられる人を助けるだけですので」
「何言って……あたしだって助けたいよっ……でもっ……」
「……そんな奇跡は――」
不意に頭に手が置かれた。
その手はただただ優しく撫でる。
震えも強張りもなく、落ち着くように、慈しむように。
「『助けたい』っていう願望じゃないんです。『助ける』っていう手順をやるだけです。それには『奇跡』も『限界を超えた力』も『覚醒』なんかもいりません。これからするのは順番通りやるだけの、ただの『シーケンス』です」
黒色の瞳がにこりと微笑んだ。
「冒険はしません。『冒険者』の前に『技術者』ですから」




