60:遠くに聞こえる微かな雨音
遠くに聞こえる微かな雨音が無機質な雑音を奏でる。
ノイズをかき消すように、レバーを捻る。
勢いを増した熱い水玉が艶やかな素肌を流れ、メリハリのある曲線から溢れた雫は無機質なタイルへと落ちた。
くさくさとした心に少しだけ熱が戻る。
「ふぅ……」
『あっ……』
「ッ! 誰にゃ!」
振り返るが誰もいない。
落ちる水音以外は発動した【地獄耳】には届かない。
人の声が聞こえた気がした。
それも何気なく思い浮かべていたアイツの声が。
「気にしすぎにゃ……馬鹿みたいにゃ」
『あのー……聞こえてますか? って聞こえてますよね……』
「に゛ゃ! なんにゃ! どこにゃ! その声はコイズミにゃ?!」
『えーと……遠くの場所からでも話せる魔道具で話しかけています』
「ひにゃあ! すぐそこで聞こえるにゃ! 何もない所から聞こえるにゃああ!」
ブンブンと振り回す手は虚空を引っ掻く。
雨で冷えていた体は、急激に朱に染まっていく。
◇
『ですので、声を転送できる感じだと思ってもらえれば……』
「ふーん……じゃあ『遠話』みたいな感じかにゃ。っていきなりは驚くにゃ! レディに対する扱いがなってないにゃ! こういうのは事前に連絡を入れるものにゃ!」
『すみません……シャワー中とは知らず……』
「次から気をつけるにゃ! え……なんでシャワー中だと……知ってるにゃ?」
『あっ! いやっ……み、水の音が聞こえてるので!』
「ひにゃ! な、なんで聞き耳を立ててるのにゃ!」
『普通に聞こえるんですって!』
「……ほんとかにゃ? イヤラシイことは考えてないにゃ?! 今どこにシャワーが当たってるかとか……」
『へ、変なこと言わないで下さいっ!』
「……怪しいにゃ! そう言えばそんな遠くから『遠話』できるのにゃ? 本当はどこかで見てるんじゃないのかにゃ?!」
『い、今は見てないです……仮に見えても隠しますからっ』
「今は?! んにゃ? なんで隠すにゃ! 魅力が無いっていうのにゃ?!」
「えぇっ? そういうことじゃないですって」
「じゃあなんで見ないにゃ? ほらっ 『ペチッ』 このキュプリンっとしたお尻は自信があるにゃ! 尻尾の毛並みもムーウールみたいにふかふかにゃ!」
『えぇっ! 見せたいのか見せたくないのかどっちなんですかっ』
「そりゃ見せたくないにゃ! でも見せれる自信はあるにゃ!」
『えぇっもうなんかこじらせてるじゃないですかっ!』
「ははーん! 焦ってるのが余計に怪しいにゃ! きっとにゃあの瑞々しい体を舐めまわすように見てるにゃ! む、胸の感触が忘れられないからって変態にゃ! バ、バチクソ変態野郎にゃあ!」
『な、生々しいんですって! ちょっほんとすいませんっ。また後で連絡しますっ! すいませんでしたぁ――……』
「ちょっと待つにゃ!」
「……」
虚空からの返事はない。
落ちる水音以外は聞こえなくなり、【地獄耳】にも届くものはなくなった。
「ふん……」
アイツは何のために話しかけてきたのか。
わざわざ別れのあいさつって理由でもないだろう。
きっとまた何か面白いことをやるに違いない。
「ははっ……」
自然と笑みが溢れ、冷えていた体はポカポカと温まっていた。
ペタペタと急いで風呂場を出る。
気が付けば屋根を叩く水音は気にならなくなっていた。
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「聞いてないよっ! ディーツー!」
「な、何をそんなに驚いているんですか?」
「何ってそりゃあ……その、あんな『映像』まで見えるなんて……」
「んー? あっ、おにいちゃん以外には見えないようになってるそうですので安心してくださいね」
『倉庫』のインベントリや範囲マーカーのように他人には見えないようになっているのか。
それは一安心――
「……いやいやっこれじゃ完全に覗きだって」
にゃんこ先生には何とか誤魔化したが最初はそりゃもうガッツリ見てしまった。
スマホから立体映像が飛び出すというエッ……素晴らしい技術で。
恐ろしいほどの誘惑が囁くが、これは絶対に悪用してはいけないヤツだ。
「覗き……? あっでも、またケーヴィに取られちゃった映像資料には『覗き』ってジャンルが結構――」
「それはダメ絶対なやつ!」
「確か『VR』と書かれているものがいっぱい――」
「だから何の資料だそれっ! もうそこで探しちゃダメだって!」
「??」
◇
「今日は外には行けないですか?」
「まぁ雨が降っていますからね」
「そうですか……残念です」
『魔石エクスプローラー』であると名乗った時の元気はどこへやら。
なでなでに満足したエセ考古学者は、本当に残念そうに窓の外を見つめる。
しとしとと窓を濡らす水玉の向こうには薄暗い雨雲が広がっている。
眼下を見れば道行く人々のほとんどが雨具を身につけていない。
それは『雨除け』の魔法が複数存在するからという理由のほかにも、『別に濡れてもいいや』というこの村の大らかな感じの表れでもある。
いい場所だったなぁとしみじみと思い返す。
――雨の散歩も悪くないかも知れない。
「少し出てみますか?」
「いえ、ここからの眺めも素敵なのです」
そう言うと水滴をなぞるように窓に触れた。
「……素敵?」
こんなに薄暗くて雨が降ってるのに?
「見てください。あんなにいっぱい水が落ちて来て、こんな感じで固まったり弾けたり。それにほらっあそこの水たまりは透き通ってるのに、あっちのは濁ってたり」
刻一刻と変化する景色を指差す。
「ただの水なのにあんなに色んな形と色で溢れてます。こんなに雨は“綺麗”なんですね」
キラキラとした黒い瞳は飽きもせず、楽しそうに雨の光景を見つめている。
最後に『肉まんが食べれないのはちょっと惜しい気もしますが』と、はにかむように微笑んだ。
――雨が綺麗
花弁を叩く雫でお辞儀をするようにしぼみ気味の花が揺れる。
道行く子がパシャパシャと水たまりで足踏みを踏み、可愛らしい長靴が波紋を広げる。
母親と手をつなぎ、幾度となくはしゃぎながら帰っていく。
先ほどまで見えていたグレーに染まる山に木々に町並み。
当たり前と思っていた、思ってしまっていた景色はその言葉で色鮮やかに、或いは鮮明になったように広がった。
……突然の退去命令と進まない現状把握に知らず知らずナーバスになっていたのかも知れない。
会話を、景色を、この世界を楽しむ余裕がなくなっていた。
そうだった。出張は楽しんだら勝ちなんだよな。
「……ディーツーには助けてもらってばかりですね」
「ふあ……どうしたんですか?」
「いや、ふふっ。感謝してるんですよ。そうだ、肉まん食べますか?」
「えっ! あるんですかっ?」
「他にも絶品なのがアンギラっていう――」
◇
明日はもう戻ってこないだろう部屋に歓声が響く。
決意を新たに頬張るアツアツ肉まん。
フワフワのうなぎにほぅっと息を抜く。
食べ合わせがお世辞にもいいとは言えない。
しかし、それぞれの美味しさがあり後味は悪くない。
外の雨は止む気配はなく無秩序に窓を叩く。
『止まない雨はない』と言うけど、雨の日だって楽しむことができる。
初日の土下座が嘘だったように縮まった距離。
『倉庫』に入れられた思い出と戦利品の数々。
そして、忘れることができないほど濃密な体験を後味が悪いままなんかにしておけない。




