57:ひりつく様な喉の渇き
第3章開始
ひりつく様な喉の渇きは水分の不足ではない事を知っている。
しかし、潤したはずの喉はまだ貪欲に渇きを訴える。
これが緊張と不安から来るものである事を知っている。
しかし、水筒を握る手は尚も強張る。
こうして待っていても何の意味もない事を知っている。
只々、付いて行くことすら許されない己の無力さを呪った。
聞こえていたはずの軽快な笛の音は消え、足早な足音と不安そうな話し声のみ耳に響く。
ギルド職員は事態の収拾と状況の把握に動いている。
それでも誰もが不安な表情でその方向を見つめる。
先ほどまで出ていた月は雲に隠れた。
ただ、遠くにはぼんやりと夕焼けのような灯りが見える。
大地に根ざし、水を蓄え、様々な恵みを齎すその場所は『陽光の森』。
そして畏敬と敬愛を込めてこうも呼ばれていた。
――『神獣の揺り篭』と。
まさに闇夜を焦がしているその先、愛すべき森が燃えている。
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光源の消えた森は、静けさと暗闇が支配する。
しかし、今日だけは違った。
木々のざわめきに混じる多くの鳴き声と足音。
夕焼けのような明るさでボヤける山影。
その中を進む【光球】が一筋の線となり、道筋を浮かび上がらせる。
「シェフィあの辺りは何もなかったな?」
「えぇ。これといって」
先導する【光球】が照らしだすのは僅かな範囲。
それでも【風衣】が枝を掻き分け、驚異的な身のこなしで木々をすり抜ける。
『陽光の森』が火事になることは稀ではあるが、初めてではない。
しかし、それはタバコの不始末や焚き火からの引火など、冒険者がこっぴどく怒られて終わる程度。
夜の闇を焦がすほど、となると先頭を走り続ける小柄なエルフの記憶には無かった。
つまりは数百年の間このような大火は起きていなかったという事を意味する。
徐々に熱を帯びてくる空気が、鼓動を早める。
熟練の山守達がついてこれないほどの速度は更に早くなり、森を駆ける。
◇
「何をしているっ!」
怒声が響いた。
緑眼の先には揃いの印をあしらった装飾品を身につけた3人の女性。
山守に消火を任せ、強いマナを追って向かった先。
眼前に見えたのは、次々と【火球】を撃ち、木々を燃やす者達。
明らかな蛮行に語気が強まったのは仕方のないことだろう。
しかし、その者達は悪びれもせず『なんだ?』『何かあった?』程度の反応しか示さない。
「ふぅ……その印は貴族私兵か。この森では火魔法は禁止されている。今すぐ止めなさい」
「おいおい。いきなりじゃねぇか。この国じゃ魔物相手に魔法も使えないのか?」
火色が照らし出すのは、周囲の炎に紛れる長い紅葉色の髪にオレンジの瞳。
その好戦的な目を隠すことなくぶつけられても、メルリンドは動じなかった。
この3人は王国の人間ではない。
家号を表す傘の印が示す通り、ゲボート帝国の貴族シルム家に雇われている貴族私兵。
彼女らの権威は、そのまま雇われている貴族の権威に比例する。
それにより横柄な態度を取る貴兵も少なくない。
ただ、例えそれが仮初めであろうとシャッツフルス王国とゲボート帝国間の友好関係にひび割れを起こすわけにはいかない。
心の内に怒気をしまい込む。
「どうやら観光という訳ではないようだな。貴女達にも火の回りが早いのが分かるだろう? 無闇に森を燃やすなと言っているのだ」
「このエルフのお子様は何を言ってんだ? シトゥルーナ、そんな法律はなかったよなぁ?」
「そーねぇ……無かったような有ったようなぁ うん。無いってことにしとこうよー」
「似てねぇし! ペイリにゃ聞いてねえよ」
『ひっどーい』と頬を膨らますペイリと呼ばれた小柄な犬人。
そんなやり取りを気にも止めず、シトゥルーナは頬に指を当てる。
「そうねぇ……森林や湖川を破壊するのは罪だけど、緊急時に限っては問題ないわよ」
艶っぽく演技がかった言葉を口にした。
「だそうだ。今がその緊急時だ。一昨日来やがれってんだ」
「غريس المطر【翠雨】」
唐突に淀みなく唱えられた詠唱。
ざぁっと水滴が降り注ぐ。
「冷てっ! なにしやがる!」
「ひゃっ」
燃え盛る木々は蒸気を上げる。
火が弱まることで、周囲は急激に薄暗くなった。
「“今が緊急時”ですので」
シェフィリアはさも当然のように言い放つ。
その言葉の隅っこには仕舞いこんだ怒りが少し漏れ出ていた。
「あら凄い。ルスカ。言い返されちゃったわよ? どうするの?」
「決まってらぁ! 邪魔するヤツはぶっ飛ばす」
「よっしゃあ! やってやらぁ! ってダメだよ揉め事はー」
「だから似てねぇって! それ本当におれの真似のつもりか?!」
『また怒られちゃうよー』『うるせぇ』と揉め始める光景を前に拍子抜けを味わう。
「だめねぇ。……あなた素晴らしい詠唱だったわ。わたくしはシトゥルーナ。こちらの喧嘩腰のバカがルスカで、本当のバカがペイリよ」
「なんだとてめぇ」
「なんだとぉ あっ今のは似てたよね?」
またもわちゃわちゃ始める2人。
「……我はメルリンド」
「……シェフィリアと申します」
「あら、あなた達が……お目にかかれて光栄ね。『رصاصة النار【火弾】』」
「なっ!」
「うぉっあぶねぇって」
「シトゥー危ないよー」
緩やかな挨拶から溢れるように炎が周囲に撒き散らされる。
掲げた杖から放射状に【火弾】が迸る。
それは避けなければまともに直撃する炎も含まれていた。
木々に次々と着火する。
濡れていようとその熱量は一瞬で発火点に達した。
再度燃え盛る炎に取り囲まれる。
「貴兵ともあろう貴女達がなぜこんなことを!」
「それが命令だからに決まっているじゃない」
交渉はする前に決裂。
取り付く島もない。
「このような蛮行を許すわけにはいきません。……これ以上続けるようであれば捕縛いたしますが?」
「だから端っからこうしときゃ良かったんだよ! ペイリ遅れんなよっ」
「捕縛いたされる? わけにはいきませんが? んー難しいっ」
臨戦態勢。
メルリンドは苦々しい思いで細剣を構える。
「……シェフィは手を出さないでくれ」
「ッ! ぜってーぶっ飛ばす!」
ルスカはその言葉を挑発を受け取ったようだ。
ガチガチとガントレットを打ち鳴らし火花を散らす。
その出で立ちは近接職のカテゴリーにおいて、最もインファイトを得意とする拳闘士と呼ばれるスタイル。
緩慢な、それでいて流麗な動作でリュートを構えるペイリ。
吟遊詩人か、と認識する時には激しい旋律が響いた。
到底その緩慢な言動からは想像できなかった超絶技巧。
「行くぜベイベー【苛烈炎舞】」
その調べに乗るのは広範囲支援スキル。
ルスカの燃えるようなマナが勢いを増す。
チリチリと爆ぜるような好戦的な瞳がメルリンドを映す。
「子供はおねんねの時間だっ!」
落ち葉が爆ぜる。
土が爆ぜる。
あらゆる物を後方へ吹き飛ばす爆発的な推進力。
5mは隔てた間合いを一瞬で詰める。
「おらぁああ」
「ッ!」
超速度の初撃。
繰り出された拳を辛うじて細剣が捌いた。
「やるなぁ! こいつはどうだ!」
その言葉の間にも繰り出される幾重の打撃が火花を散らす。
幾度となく両の手から繰り出される重撃を躱し、受け流す。
「はぁ! ちょこまかしやがって!」
「良い速度だが、直線的だぞ」
「なめてんじゃねぇええええ」
更に加速した双腕。
しかし、相性が良いはずの必当の間合いで拳が受け流され空を切る。
剣の間合いにとっては、懐に入られないように闘うのがセオリー。
それでも尚、埋められないほど隔てた実力差を見せつけていた。
「くそっ当たんねぇええ」
「ここらで引いてはくれぬか?」
「やっぱり強いのね。でも忘れてないかしら? 『يخرجون من التربة【土薙】』」
「ッ!」
マナの煌き。
メルリンドの足元が泥濘むように、畝ねる。
「【雪花】」
まさに間髪入れず、畝ねりが止まった。
土魔法を効果が及ぼす前に停止させる離れ業。
或いは、予めそうなることを予測していたような早業。
「……あなた。手は出さないんじゃなかったかしら?」
「えぇ。ですので魔法で対処いたしました」
「以外につまらない冗談がお好きなのね。【石槍】」
「【氷弾】それはその拙い魔法のことでしょうか?」
「あら。これでも褒めているのよ。冷酷そうだもの【烈火弾】」
「【烈氷槍】丁寧な自己紹介痛み入ります。是非、卑劣である事も言い添えください」
互いのワンドが煌く。
涼しい顔で繰り出される詠唱を短縮した『速攻魔法』の応酬が始まる。
相殺され、或いは逸らされる魔法。
しかし、そのどの魔法にも相手を必倒するだけのマナが込められていた。
◇
「くそっ……」
「強いよぉ」
「……流石ね」
肩を揺らす貴族私兵。
顔には疲労と焦りが色濃く出ていた。
現れたのは実力差。
隔てたのは経験と地の利。
その貴兵達は明らかに森での、さらに言えば夜の戦い方に慣れていなかった。
「……話を聞かせてはもらえぬか?」
「ふぅ……殺すつもりで行くぞペイリ!」
「とことんやったらぁ! って本当に怒られちゃうよー!」
「答える気はないようです。仕方ありません。メル様。捕縛致しましょう」
「……うむ」
――それは、ちょっと困るんだ
突如響いた声。
同時に襲いかかったのは強烈なマナの気配。
そして肩に、足に、肺に、凡ゆる体組織にのしかかる『重さ』。
周辺の燃焼する木々がベキベキと音を立て倒れた。
さらに高荷重プレスで圧縮されるように押しつぶされる。
「はぁはぁ……おしおきぃ……」
「うぎゅー……ごめんなさいー」
「なんでわたくしまでぇ」
「メル……様……」
「ぐうぅ」
片膝をつくメルリンドは必死に声の方向を見上げる。
そこには曇天を背にした男が浮かんでいた。




