26:おい……なんだありゃあ……
「おい……なんだありゃあ……」
ボリュームを下げたその声には困惑が含まれていた。
その目の先30mほど。
奇怪、醜悪、醜怪。
ぶちまけた血がそのままこびり付いたような巨大な赤黒い塊。
部屋の横幅を埋めるほどに広がる波打つ腹。
腹の重さに負けたような短い足。
だらしなく広げた甲虫特有の口。
不快、嫌悪、忌諱。
目を背けたくなるような魔物は、不気味なほど静かに、それでいて圧倒的な違和感を放ち佇んでいた。
「あれを見たことあるか?」
「ないな。全く」
「あの姿は魔物図鑑にも載っていなかったと思われます」
「見るに恐らく落ちてくるゴロックを直接食っている。それで音がしなかったのだろうな」
「迷宮主が『暴食した成れの果て』……か。哀れに見えてきやがった」
およそ魔物図鑑のドスミルパとは似つかない異形の姿を晒す魔物は、口を落下穴の直下に構えていた。
だらしなく口を広げ、享受されていたであろうゴロックを待っている姿は確かに不憫にも見えた。
不気味な塊が佇んでいるだけで、先程まで襲ってきていたミルパも部屋には見えない。
そのためか呑気にも思える口調で3人は観察を続ける。
光源が部屋を照らし、会話までしているがその不気味な塊は動かない。
◇
「見ててもしかたねぇ。さぁ殺るか。コイズミは離れていろよ」
「そうしよう。シェフィ。準備はいいな?」
「いつでもどうぞ」
お互いを確認すると、戦闘態勢に入る。
スッと場の空気が変わった。
前衛の2人が地面を蹴る。
弾丸のような速度で左右から魔物に迫る。
「撃ちます。『دعه يتجمد. تشريح الأعداء【烈氷弾】』」
一瞬のマナの煌き。
きらきらと舞い上がる昇華する水蒸気。
冷気の塊が狙いすましたように2人を追い越し魔物の腹へと迫った。
受けた広範囲の赤黒い甲殻がビキビキと白く変色する。
「初っ端から中級か! もう終わっちまうぞ! うおら!」
「我も負けてられんな! 『الرياح يرتدون【風纏】』」
魔物に肉薄する大重量の大剣と風属性を付与した細剣。
そのどちらにも必殺の威力が乗せられていた。
『ガガッ』
衝撃、火花が散る。
2人の目が大きく開かれた。
切断すると思われた斬撃が弾かれたことで体勢を崩す。
が、そこは熟練冒険者。
瞬時の切り替え。返す刀で甲殻の節目を狙う。
「てありゃ!」
「はぁっ!」
『ガギッ』
ほぼ同時に斬りつけた斬撃は、またも弾かれた。
驚異的な超高硬度の甲殻。動いてもいない魔物に刃が通らない。
「がっはは! 化物か! 硬すぎだろっ!」
「信じられんな!」
あまりの事に場違いな笑みを浮かべる。
それは彼らが久しく味わっていなかった『未知という名の冒険』の味。
一瞬の攻防の中に冒険者を冒険に駆り立てる誘惑がそこには存在していた。
「こりゃ本当に楽しめそうだ! 【剛力】!」
「張り切りすぎるなよ! ガノ坊! 【疾風の心得】!」
未知に触発されるように己の磨いた技術、【スキル】を発動する。
力を体現する赤いマナ、敏捷を象徴する緑のマナが湧き上がり、その身から刀身まで包み込む。
それは一時的にステータスを上昇させるバフであり、手加減無しという気焔。
地面を蹴りぬき、一足飛び。
巨大な塊に斬撃を見舞う。
『ガッジュ』
『ジャギ』
刹那、刃が走る。
圧倒的な膂力が、卓越した早さが、冴え渡る技巧がその堅牢な甲殻を深く切り裂く。
「撃ちます。『يطير الرمح الجليد الكبير【烈氷槍】』」
間髪を入れず冷気の槍が穿つ。
より速く、より深く、より凝縮された冷気に甲殻が変色しボロボロと剥がれる。
浮き出た緑色の体液までもが即座に凍結した。
「おら! どうした! 動かねぇのか!」
追撃、連撃、痛撃。
有効打となった斬撃は甲殻を引き裂き、生身に無数の緑色の筋を残す。
『ギギッ』
何かが軋む音。
――初めて魔物が動きを見せた
不快な音と共に上へ向けていた顔をのっそりと向ける。
値踏みするような気配でじっとりと見据える。
その濁ったルビーのような複眼に映るのは敵か餌か。
『ギシャアアアアアアアアアアア』
突然の咆哮。
同時に黒い霧が集まる。
薄闇からまるで最初からそこにいたかのように整然と粛然と大量の甲虫が出現した。
驚く間もなくキシキシと大きな雑音が吐き出される。
「赤いミルパだと?! おらっ!」
「見た目は小さなドスミルパだなっ はっ!」
「『眷属召喚』です。コイズミ様。少しお下がりください。『ثلج صغير【雪花】』」
増援を切り伏せながら前線を下げる。
部屋の反対まで押し返された。
「この小さいのも速えし硬ってぇな! なんだこいつ!」
「おい! あれを見るんだ!」
その声にわらわらと飛びついてくる赤いミルパを切り捨てながらも意識が巨大な魔物に向く。
「信じられません……甲殻が治っていっています」
「ふざけてやがる。なんだあの速度は?」
凍らせたはずの体組織が、剥がしたはずの甲殻が急速に治っていく。
瞬く間に傷の上が、より赤黒くなった甲殻に纏われた。
その甲殻が毒々しい赤色に発光した。
突如、放射される熱波。
足元に転がっていた凍結したはずの甲殻が赤黒く戻っていく。
『ギシャアア』
嘲るような、罵るような咆哮。
再び召喚される眷属。キシキシと音を立てる赤い絨毯が広がっていく。
「どうやら一筋縄ではいかぬようだ」
「がっはは! 楽しくなってきやがった! 大勝負といこうじゃねぇか!」
「後ろはお任せください」
「よっしゃ行くぜぇ!」
呼応するように【スキル】が輝きを増し、陽炎のように揺らめく。
『ギギシァアアアアアアアアアアア』
甲高い咆哮が戦いの口火を切る。
9級と言われる下級迷宮で未だ嘗てない高度な戦闘が始まった。
◇
うーん。仮に夜の8時から朝の6時の8時間だとして。
1時間に120個で、少なくとも960個のゴロックを取り込んだと。
それであんな風になるのかぁ。
ハイレベルな戦闘の傍らで空気を『設置』しながら俺はそんな事を考えていた。
3人の実力は流石の一言、これといったダメージを受けずに戦っているように見える。
天井や壁まで足場にしながら目にも止まらぬ攻防を繰り広げている。
最初こそ驚いたり、ハラハラしていたが大体1時間も見ていれば慣れてしまった。
それにデブミルパも赤ミルパも俺を見ていないというか敵と認識していない。
何度か前衛2人が取りこぼした赤ミルパが、俺には目もくれず即座にシェフィリアさんを狙っていた。
そして即座にワンドで打ち据えられたり、氷漬けにされていた……
恐らくデブミルパに対する驚異の度合い、もしくはヘイトで使役する眷属に優先度の指示を出しているのだろう。
それでなければあの数で、あれ程整然と襲いかかってこれないと思う。
つまり俺だけ完全に戦闘に参加していないような立ち位置。
岡目八目。安全地帯にいるという安心感がこの落ち着きを生んだと思っている。
状況はというとデカミルパにも目立ったダメージは無い。
部屋の端にいるため、回り込むことができず正面からしか攻撃が出来ない。
その上絶え間なく眷属を召喚しながら、近づかれた場合は4本の大鋏で迎撃する。
流石に床や壁をバターのように切り裂く威力に迂闊に近づけずにいる。
隙を突いて攻撃が入ってもすぐに治ってしまう。
また氷魔法を食らってもすぐに溶かしてしまうような熱波を放つため、部屋の温度が上昇して暑苦しい。
水を『設置』して氷魔法の補助という名の打ち水をしたり、こうして熱くなった空気を『収納』して外の空気を『設置』していなければ、今頃茹だるような暑さだろう。
これではまるで難攻不落の城塞。お互いに決定打がない攻城戦。
これは心を折る戦い。
俺はそう感じた。
「シェフィ、お前の例のヤツを使ったらどうなる? よっと!」
「はぁ……ふぅ……この場所では……あの魔物だけでなく、私達も坑道内の方々も生きてはいられないでしょう」
「シェフィ大丈夫か?」
「メル様……心配いりません。マナポーションも持っております」
戦いながら作戦会議が行われる。
前衛2人の補助や氷魔法の行使、光源の確保。シェフィリアさんは目に見えて疲労の色が濃くなっている。
驚くべき集中力で戦っていた2人にも焦りの色が見えてきた。
「悪いが一時撤退はない。この小さな赤いミルパでも坑道に出たら死者がでる」
「分かってる! くっそ! 【金剛夜叉】ぶっ放したくなるな!」
「ガノ坊! 坑道が崩落するぞ!」
「がっはは! それも分かってる! しょうがねぇがこいつは持久戦だ」
『ギッシャアアアア』
突然の咆哮と打撃音、赤い絨毯が散弾のように眼前に迫る。
自身の眷属を殴り飛ばした!?
「【烈氷弾】! お気をつけください。見た目通り卑劣な魔物です」
短縮詠唱。今までのような高火力は無い。
しかし迫る赤いカーテンを凍てつかせ、その場に止める。
「助かるっ! あぁくそっ場所が悪すぎるんだよっ おいコイズミ! お前も大砲でも持って来い!」
「わかりました」
「おおい? 冗談だ! がっはは! お前面白いな! おらっ!」
分かっている。鼓舞するための冗談だ。
ただ、俺にしてみればあながち冗談でもない。
「シェフィリアさん。何か大きな衝撃と音から守るような魔法は使えますか?」
「え、えぇ。【防壁】などがありますが……」
戦闘中に話しかけられるとは思っていなかったのだろう、シェフィリアさんは訝しげに答える。
「じゃあ合図したらお願いします。大きな衝撃と音が来るので」
「はい……はい?」
いつも察しがいいシェフィリアさんが戸惑っているのが可愛らしい。
これで要素は揃った。段取り開始だ。
この1時間ぐらいで現状把握は終わっている。あのデブミルパに目にもの見せてやろう。
俺は前線へと歩を進める。
「真ん中に岩を『設置』します。少し下がれますか?」
「おい! なにする気だ?! 危ねぇから下がってろ!」
「コイズミ殿! 何故前にいる?! シェフィ! 守ってやってくれ!」
「大丈夫です。鋏が届かない位置ですし、この位置なら奴らは私を見ません」
デブミルパの手前5mほどの位置、『ほらね』と俺が設置したのは、『収納バグ』で50cmほど掘り返した溝に、そのまま2㎥の岩を2つ並べただけの簡単な物。
似た構造と言えば、収納箱にキッチリ収まった長方形の積み木の玩具だ。
それを見て2人は目を丸くする。
「赤ミルパを出来るだけ押し返してもらえますか?」
「コイズミ殿! 何をする気だ! 我は年甲斐もなくワクワクしているぞ! やるぞガノ坊! 『تاثير الرياح علي العدو【烈空振】』」
『ドンッ』
赤ミルパの群れはもがく様に動きを止めた。
スタン状態?
「がっはは! 無茶言いやがる! 悪くねぇなそういうの! おらぁ【金剛力】!」
先ほどのお返しと言わんばかりに大剣の腹で先頭の奴らを振り抜き、驚異的な速度でまとめて吹き飛ばす。
注文通り。頼りになる2人は襲ってきていた赤ミルパを魔法と爆発的な膂力の連携で押し返した。
「岩の後ろに固まってください! シェフィリアさんお願いします!」
3人の移動を確認すると設置した岩の両側から部屋を仕切るように岩壁を設置する。
「……撃ちます。 『منع الرياح【防壁】』 『حماية الصوت【防音】』」
【防音】なんて言うのも追加してくれた。気が利くぅ
「閉じこめるのか? 長くはもたねぇぞ?」
「まぁ見ててください。大砲を撃ちます」
俺は左手で耳を塞ぎ、ぐーっと右手を前に出す。
「『設置』!」




