147:くそっ…
「くそっ……忌々しいガキがっ」
昼刊を荒々しく閉じ、机に投げる。
アヴェルサ聖教会に私室を持つ大司教ビサウは、そんな悪態を漏らしても尚苛立ちを抑えられずにいた。
努めて考えないようにしていた昨日の従魔戦。
その特集記事によって下がっていた溜飲が再び昇ってきて思わず悪態が吐き出されたのだ。
ビサウは自他ともに認める『長い物には巻かれる』という生き方をしてきた。
それは賭け事にも表れていて人気ベテラン予想師の勧めるがままに、幼獣杯では断トツ1番人気のパグロを軸に投じ、従魔戦本戦でも1番人気に多額を投じた。
結果はほぼ全ての予想を裏切ったパグロの敗戦により、本戦の複勝を帳消しにするどころかマイナス。
節制対象である酒を昼間から浴びるほど飲んだ今朝の体調は最悪。
ポーションを飲んでもまだ胸がむかむかしている。
どこにも出かけたくもない。
本戦の的中が無ければ今日は不貞腐れて休養としていたことだろう。
その身勝手な怒りの矛先が、予想外の結末の原因となった『小さなヒロイン』へと向けられていた。
コココン
「ッ! 入れっ!」
「し、失礼いたしますっ」
予想だにしていなかった激しい返事におずおずと事務員が入室してきた。
その様子にビサウは態度を改めようとしたが、相手が『牙亭ぶん投げ事件』の現場にいた者であることに気が付くと途中で改変を手放した。
「突然になんの用ですか」
「ひっ……ビ、ビサウ様にぜ、是非とも面会をと――」
「そのような事に私の判断は必要ですか? 規則を守りなさい」
こんな唐突な要求はどうせあの小憎らしい村長だろうと推測する。
そのような者に割く時間も精神も持ち合わせてはいない。
「いえ……その……それでもどうしてもと――」
「まだ分かりませんか? では指示を出します。記帳させるのですっ! そして然るべき時に対応すると伝えなさい! 規則と規律があるのですから!」
「……ほ、本当にそのようにお伝えしてよろしいのですね?」
「くどい! 例外を作っては混乱を生むだけです。お引き取り願いなさい!」
「ひっ……で、ではそのようにいたします……失礼いたしました」
ドアが閉まるといつになく食い下がった部下に辟易したように溜息をつく。
そして当たり散らしたことで少し冷静になった頭に一つの疑問が浮かんだ。
『以前、例のエルフが喚いていた時はこのように畏まっていたか』と。
ハッとしたビサウは急いで部屋を飛び出す。
「お待ちなさいっ! 一体誰が来たのですか?!」
◇
「大司教ビサウよ。忙しい所を呼び立ててしまったようだな」
「い、いえ。とんでもないことで御座います。……ディアン様」
突然訪ねて来た公爵に戸惑いを隠すことに苦心するも、やっとのことで返事を返した。
荘厳なアヴェルサ聖教会の中でも最も上等な応接室。
国のナンバー2が直々に訪ねてくるなど前例がない。
しかも相手は王国騎士団を束ねる猛者。
ビサウは規則などすぐに放り投げていた。
「うむ。美味い。良い茶だな」
「お、恐れ入ります。ほ、本日のご用件を……お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「随分と急いでいるな。やはり日を改めた方が良いか?」
「し、失礼いたしました。所要などは御座いません。すぅー……。なにぶん唐突な事でしたので……」
「はっはっ冗談だ。許せ。……今日は顔を見に来たのだ」
『公爵に目を止められる事はしただろうか』とビサウは頭の中で首を傾げる。
だが、そもそも大した接点も無かったのだから心当たりなどあるわけがない。
「顔……で御座いますか……?」
「うむ。極めて迅速にクランクエストを終えたとギルドから連絡があってな」
『クランクエスト? 何の話だ?』とより訝しむ。
にこやかに見える微笑みの細い目が更に細くなった。
「先ほど『フオーリ・レ・ムーラ』を騎士団、ギルド、聖教会で相互確認した。地下5階まで問題なく迷宮整合は完了となったそうだ。その指揮を執っていたのは貴公だと聞いたのだ。年内完了の予定を5か月も短縮したその辣腕の主を一目見ようと思ってな」
「は、はぁ……光栄に御座います」
何かの間違いかと困惑を深める。
確かにビサウはクランクエストや訪問治療依頼、それによって生じた寄付金などの管理を担当している。
しかし建国祭期間も重なり『フオーリ・レ・ムーラ』には申し訳程度の治癒士しか派遣していなかった。
深層で出現し始めたエルダーリッチやフレッシュゴーレムなどの強敵に対処できるわけがなく、それらのドロップ品の旨味のない難敵を倒して回る物好きもいるはずがない。
だから上がってくる進捗報告もほぼ読まずに印を押し、事務方に叩き返している。
チラと目を通した1月ほど前の報告から考えても精々地下2階程度しか進んでいないはずだ。
「これでようやく闇魔石の値上がりも止まるだろう。この功績は胸に留めておくぞ。大司教ビサウよ」
「も、勿体ないお言葉に御座います」
「さて邪魔をしたな」
公爵は本当にそれだけのために来たというように速やかに帰っていった。
案内は他の者に任せ見送ると、どっと疲れを感じソファに腰かけ深く背もたれる。
しかしその顔には、にやけ面が張り付いていた。
理由はどうあれ、これは公爵の後ろ盾を得たと言ってもいい。
枢機卿への任命も近いかもしれない。
派遣した奴らには後で確認するとしよう。
事と次第では特別手当を出してやってもいい。
昨晩とは打って変わって、今日の深酒は美味いことだろう。
おっとそうだ二日酔い用に中級ポーションを忘れずに買って帰らなければ。
もはや従魔戦の負け額などどうでも良くなったビサウの思考は、希望に満ちた妄想へと飛んでいた。
コココンッ
「どうぞ」
公爵が退出して続けざまのノックにもビサウを余裕をもって答えた。
またおずおずと入って来たのは例の事務員。
「し、失礼いたします! ……ビサウ様に至急ご確認頂きたい件が……御座います」
「宜しい。聞きましょう」
「えっ……では、クリニエール伯の訪問治療でのご寄付が非常に……その、高額となっておりまして……」
「ほっ! 大変喜ばしいことです。敬謙さに感謝せねばなりません」
悪い事の後には良い事は続くものだとほくそ笑む。
郊外に別邸を持つクリニエール伯爵家。
聖教会にとってはそれ程『お得意様』ではないため、適当な高位治癒士を派遣していたはず。
そんなに羽振りが良いなら一度『聖女』を向かわせてもいいかもしれない。
「ん……それの何が問題なのですか?」
「実は……寄付金額が――」
――10億ゴルを超えるのです
「……は?」




