109:淡い【治癒】の光……
淡い【治癒】の光が木漏れ日を染める。
「ガノン様! ローザ様をこの場へ!」
「……」
「どうしたのですか! 早く!」
「シェフィ……」
「コイズミ様はローザ様へ【遠話】を!」
「シェフィ! もう……間に合わねぇ……お前が一番分かってるだろ」
痛いほど理解している。
しかし、ガノンの言葉に何を言っているか分からないと頭を振る。
ありったけのポーションは僅かに止血できただけ。
【治癒】を続けるシェフィリアの手袋も既に赤黒く染まっている。
メルリンドの命を辛うじて繋いでいるのは、残された僅かな血液と胸に置かれたティアドロップの【神器】。
しかしマナを回復する【神器】がどんなにマナを注いでも、受け取る器が割れていれば血液と共に流れ出ていくだけ。
失った血液まで回復する術はない。
それにどれほど急いだとしても、治癒士の到着には数十分は掛かる。
仮に間に合ったとしても、高いステータスで無ければ即死しているほどの損傷を治療できる保証など何処にもない。
そんな事は理解していた。
【治癒】の為に手のひらで感じるマナの流れ。
その命の灯とも言える流れが急速に小さくなっていく絶望に気が付けないわけがない。
ただ、その状況を以ってしても行動を起こさないなど理解ができない。
諦めることなど容認できるわけがない。
「お願いですっ早く――」
「ごぷっ! ごっほ!」
突然メルリンドが激しく咳き込んだ。
気管から逆流した血液が鼻口から溢れる。
いつの間にか最後の力を振り絞るような弱々しい【風球】が損傷した右肺に押し当てられていた。
「メル様何を?! 止めてください! 止めて!」
「……聞いてやれ。シェフィ」
「駄目です! このままじゃ――」
「がふっ……分かっている……もう良い……のだ……」
血液と共に漏れ出る聴き取れぬほどの小さな声。
一言一句逃さぬよう顔を寄せる。
「ッ……メル様……まるでこれが……最後みたいではないですかっ」
「優しい子だ……我は少しだけ……先に行くだけだ……ずっと後から来るのだぞ……」
聞き分けの無い子供のように頭を振る。
堪えていた大粒の涙が頬を伝う。
「メル様がいなければ……私は……これからもお傍にっ」
「シェフィは……相変わらず……甘えん坊だな…………」
無理やりに空気を送り声帯を震わせる掠れた声。
それでもいつもと同じ優しい声で、震える手のひらがシェフィリアを撫でた。
「ぐずっ……お願いですっ……お願い……うぅぅう」
「大丈夫……この世界は美しく優しい……シェフィのようにな……だから決して囚われるな……あるがままに生きてくれ……親友よ」
「ッ…………はい。メル様……ご心配には、及びません」
シェフィリアは悲涙を零しながらも噛みしめるように頷いた。
幾度となく諭され、叱られ、救われた声が届いてしまったから。
怒りや復讐心などに囚われるなと、最後の想いを託されてしまったから。
「……いい子だ。こぷっ……ガノン……皆を頼む……」
「ああ……任せろ……」
短く交わされた言葉。
それは信頼の証だ。
ガノンは見えない位置の拳を強く握りしめた。
その時、音もなく近づいた小さな神獣が体を寄せ淡い光を届けた。
しかし、重ねた【治癒】の効果も意味を成さない。
『……クゥーン』
「シロ……お主の所為ではない……」
小さな手のひらが小さな頭を撫で、蒼瞳に映った罪悪感を祓っていく。
「ふふっ……神獣に……こうして触れることが……できた……思い残すことなど、ごぷっ!」
冗談めかした言葉が吐血と共に消える。
もう時間が残されていない事は明らかだった。
「……コイズミ殿……素晴らしい出会いだった……悠久に感じていた時が……止まっているような……最後を彩るには……十分過ぎる…………」
次第に声が小さくなり、唇の動きに音が伴わなくなる。
小さな【風球】が僅かに揺れ、シャボンが割れるように虚空へと消えた。
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まずまずの人生だったと思う。
天寿を全うするなどとは考えていなかった。
そもそも膨大なマナ量を誇るハイエルフの寿命など正確に分かっていない。
数百もの数をわざわざ数える者がいなかったからだ。
物心ついた頃にはそれらの代り映えしない毎日を繰り返し、自身の歳にすら興味を失っている同胞に違和感を覚えた。
エルフ以外の人種に会いたがり、あれこれと興味を示す自分は随分と物珍しく見られたものだ。
そして閉鎖的で頭にオリハルコンでも詰まっているのかと思うほど頭の固い同胞に別れを告げたあの日から、人生は輝きだした。
森にはなかった生態系と絶景。
魔獣の神秘と進化の奇跡。
そして脆弱で寿命の短い人々との出会い。
目覚ましく成長し、子を成し、老いていく。
または成長半ばで迷宮に散っていく。
駆け足で変化していく者達に羨望を抱くと同時に、時間の流れの差に愕然とすることになった。
口だけ達者でもどこか憎めない冒険者。
発明に憑りつかれた魔導具士。
雷鳴山の麓に暮らす変わり者の鍛冶士。
気が置けない仲間との出会いと別れ。
幾度となく儚く愛おしい人生を見送る中で、高々数十年程度と考えていた月日は、命が失われるには十分な時間であり、そんな事にも気が付けなかった自分は人の感情の機微に疎かったのだと悟った。
そしていつしか腕白小僧が英雄となり、お転婆が女王となる英雄譚が生まれる頃には、人種が混じり合い、多種多様な文化が芽吹き、閉鎖的だった同胞達すらも交流を始めていた。
久しぶりに会った頭の固い同胞のばつの悪そうな顔は忘れられない。
……元気にやっているだろうか。
◇
いつの間にか出来ていた森の村の暮らしにも慣れてきた頃、嘗てないほどの魔物氾濫が村を襲った。
甚大な被害がと思われた矢先に現れたのは大きな白狼。
強大な爆風によって数多の魔物が塵と化した。
その魔獣に人々を助けるつもりはなかっただろう。
テリトリーを侵すうるさい邪魔者を薙ぎ払っただけだ。
しかし、その姿は余りにも美しく、人々の心を、自身の心を掴んで離さない程に神々しかった。
さらに魔獣研究に傾倒するのも仕方なかっただろう。
その神獣が姿を現した時は心底驚いた。
謎の男を連れてきたのだから。
その男は今まで見たどの生物よりも弱そうに見え、それでいて計り知れない能力を持ち、不思議な魅力に溢れていた。
短くも濃密な日々は最後を飾るに相応しいと思えるほど驚きと優しさに満ちていた。
お陰で御伽噺にも語られるあの神獣を見て、触れることすら出来た。
もう思い残すことなど……
いや、欲を言えばもう少し彼の人生を見てみたかった。
欲を言えば親友の晴れ姿を見てみたかった。
いやいや、欲を言えばグランツドラゴンも見てみたかったし、アルトレーシェンだって触ってみたい。
欲を言えば! 誰かと恋仲にもなってみたかった!
――我は強欲だ。思い残すことばかりだ
今わの際に見た願望は叶わぬ想い。
叶わぬ想いは夢想へと変わり、虚空へと昇った。
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「う、うん……」
眩しい。
瞼の裏に感じる光が眠りを妨げる。
……いけない。
カーテンを閉め忘れたか。
また不用心だとシェフィに怒られてしまう。
全く、そもそも我を襲おうとする輩など……
「ふぁーう。むにゃ」
眠い。
瞼はまだ仲良しだ。
カーテン閉めて二度寝でも――
「メル様っ!」
「ひぃあ! 起きてるぞ! カーテンは今開けたとこなのだぁ!」
「うぅ……メルさまぁ……メルさまぁ……」
「んあ? おーよしよし。どうしたシェフィ朝からやけに甘えん坊ではないか……んん?」
シェフィリアの肩越しに見えるのは自分の部屋ではない。
「んー? ここは? …………って生きてるぅ?!」




