第6話「糸環シロー1」
シロの妹――糸環コンが亡くなったのは、今から十年前になる。
シロが八歳の時であり、
コンが六歳の時である。
コンが病床に伏してからの半年間のことは、シロもよく覚えている。昨日のことのように覚えている。
実に楽し気な病室だった。
友達や親戚が毎日のように訪れ、笑い話をし、心行くまで遊んでいった。そしてその中心に、笑顔のコンがいた。
妹が長期で入院すると聞いたときはシロも驚いたものだが、運が良いことに、糸環家には相当な金があった。おかげで日本で最も設備の整った病院に入れたし、日本屈指の名医に執刀を頼むことができた。
――何も心配することはない。
そう言って、父も母も、祖父も祖母も、伯父も伯母も、シロをやさしく撫でた――当然のように、幼いシロは、その言葉を全面的に信じた。
疑うことをしなかった。
コンに語り掛ける親戚の話も、何もかもが、希望を持たせるものだった。期待をさせるものだった。夢を見させるものだった。
元気になったら、退院したら、何がしたい? 何を見たい? 何を聞きたい? どこへ行きたい? 何が欲しい? 何で遊びたい? 将来何になりたい? どこに住みたい? どんな人と結婚したい?
そんな問いかけに、コンは笑顔で答えた。
夢を
希望を
期待を
一つ一つ口にしていった。
いつか叶えられると信じて。
午前中三時間目の国語の授業を受けている最中に、急に父からの電話で呼び出されたのは、コンが入院して五か月と三週間後のことだった。
病室へ行くと、寝息を立てずに眠るコンが横たわっていた。静かに静かに眠っていた。
――呆然。
涙も出なかった。
気が遠くなるだけだった。
ただただ信じられなかった。
目の前の結果が。
この現実が。
――いや、信じていたのだ。
父の言葉を。母の言葉を。祖父母の言葉を。伯父伯母の言葉を。
心の底から信じていたのだ。
なのになのになのに――それらは幻だった。
夢だった。
幻想だった。
この時この瞬間、シロは思い知った。
心底思い知った。
人は呆気なく死ぬのだ。あっという間に死ぬのだ。夢が夢のままで死ぬのだ。希望が希望のままで死ぬのだ。時間は一秒たりとも、コンマ一秒たりとも、無駄にできない。無意味に過ごしてはならない――そう、一秒後には死んでしまうかもしれない人間には、動物には、生物には、あれこれと思い悩んでるヒマなどありはしないのだ。躊躇している時間などありはしないのだ。そんな余裕はないのだ。
無駄はとことん省かなければならない。
だから、目的があるなら、その目的を達成するため、迷わず、惑わず、行動しなければならない。行動し続けなければならない。可能な限り、多くの目的を達成しなければならない。コンの分まで、この世に生きた痕跡を残すために。
そしてもう一つ――
――シロは『実態のない言葉』が嫌いになった。
――大嫌いになった。
夢、希望、期待――何と頼りないフレーズだろうか。
当たり前だ。実証できるものが何もないのだ。担保がないのだ。誰も触れることすらできないのだ。誰でも口にできるくせに、どこの誰にも、責任が発生しない言葉なのだ。
そんな言葉に騙され、踊らされ、そして裏切られ、いたく傷つけられる――これほどバカバカしいことはない。
愚か者の極みだ。
コンの亡骸の前で立ち尽くした自分のように。
――消し去ってやる。
そう、そのために――そのためだけに、シロは今日ここに来たのだ。
『夢』
『希望』
『期待』
『気持ち』
『心』
『想い』
『天国』
『地獄』
果ては『幽霊』や『鬼』のような空想の産物まで。
実体のない言葉を片っ端から、この世界から消し去る。それが、シロの目的だった。
――手順はこうだ。
リストアップした五十個の日本語の単語。
及び調べられるだけ調べたそれらに対応する外国語。
まずこれらを、物理的に地球上から消す。
次に、現在効果範囲に居るすべての人間の脳内から、これらの単語を消し去る。
そして最後に、彼らに暗示をかける――これらの単語を見かけたら、無意識のうちに、それを消し去る行動を起こさせる。これにより、今回の範囲外に存在する単語も狩っていくのだ。狩らせていくのだ。
――シロによる、本意気の『言葉狩り』である。
三年前から計画し、相当な金を積んで見つけた有用な情報屋のツテをたどり、ようやく行き着いた。
那頭奈大学
『種』の『核』
そして、こちらの要求に十全に応えることができる人間(取引の一環として、シロは別れ際、黒いカードを使用して、すでに『そいつ』の顔も名前も忘却している。万が一シロが暗証番号の入力を失敗した場合は、そいつがシロを上層部に突き出して、そのまま『そいつ』の手柄にする契約である)。
――さあ、もう少しだ。
そう自分に言い聞かせながら、シロは歩を進める。
くしゃり
ふいに、スラックスのポケットから音がした。
見ると、先ほど受け取った――思いがけず受け取ってしまった、文芸部の入部案内のビラが詰め込まれたままだった。
そこに書かれている『新入生歓迎会。自由物語読み合わせ会開催』の案内文が目に入る。
シロはそれを一瞥すると、さらにクシャクシャにし、あらん限りの握力で小さく丸め、ポケットの奥にねじ込んだ。
物語――
――今現在のシロが、最も忌避するものだった。