第4話「奥沢クルトー1」
那頭奈大学の北西の際にある、古びた講堂。
周囲のビルと比べて、明らかに数十年の築年数の差があるこの建物に、シロは迷うことなく入っていった。
内装もまた、外見と同様だった。
明治大正の洋館のような造り。
ある程度の掃除はしてあるが、劣化は止められていない。床の木板も所々が欠け、壁はもはや模様のようにすら見えるほどのシミだらけ。床の隅には、埃もそれなりに溜まっていた。
シロはその中を突っ切り、奥にある扉の前に辿り着いた。そして、その脇に備えられたパネルにカードキーをかざす。
ガァー、と、その古びた扉が自動で横に開く。
シロはさらに奥へと歩を進めた。
――その先は、別世界だった。
輝くほど磨かれた黒い壁が両脇に伸びていた。
左右には、扉も装飾も何もない。床にもタイルの継ぎ目すらない。天井にLEDの蛍光灯があるだけだった。
その中を歩き、数十メートル進んだところで、また扉に突き当たる。その右脇には手の平サイズのタッチパネルが備えられていた。
液晶画面に映る、テンキー。
シロは無言で、十五桁の暗証番号を入力する。
またもや扉が開き、シロはさらに奥へと進む。
――そんなことをさらに二度繰り返し、
無機質な階段を降り、ようやく彼は、扉がある廊下にたどりついた。
微塵の隙間もない――それこそ、空気すら出入りしていないんじゃないかと思うほどのっぺりとした――いくつかの黒い扉の内、『44』という数字が掲げられたものの前に辿り着く。
その扉を、シロは三度ノックする。
「はーいはい」
という声が中から聞こえて、扉が勝手に開いた。
入って問題ない、という意味だと受け取ったシロは、
「失礼します」
と言って、その中に足を踏み入れた。
中は、だいぶ広かった。
フットサルができそうなくらいの部屋に、さらに奥にも二部屋ほどあるようだった。壁際にはキッチンとダイニングテーブルまで備えられており、とても大学内とは思えない設備――それこそ、高級マンションの一室のような作りだった。
その奥に鎮座するワーキングデスク。
この大きな部屋では場違いに思えるくらいの普通のデスクトップパソコンの前に、男が一人座っていた。
所々黄ばんだ白衣を纏った、ボサボサの黒髪の男。こちらを振り返り、
「やあやあ、君が糸環君か。ようこそ」
と言ってメガネを上げると、その色白が際立った。
シロはぺこりとお辞儀をし、
「あなたが、奥沢さんですか?」
「そうそう。奥沢クルトと言います」
そう言いながら、白衣の男は胸元の名札を指さす。
奥沢クルト――役職は、チーフとなっている。
見た感じ、歳は自分とそこまで変わらなそうなのに、役職付きなのか――と思っていると、
「ん? ……ああ、いやいや、この肩書に意味はないよ。単にそれなりに長くここに居るってだけさ。別に偉くはない――どころか、俺ってば、ここじゃ罪人なくらいさ」
お気に入りのジョークを飛ばしたかのように、あっはっはと笑う奥沢――しかしシロは、その瞳が決して笑っていないことに気付いた。
シロは、ふんと鼻を鳴らし
「……まあ、何でもいいです。さあ早く『これから』の話をしましょう」
「ああ、もちろんだとも!」
快活に言って、奥沢は椅子の背もたれにもたれかかった。そして、
「はい、これ」
と言って、白衣のポケットから一枚の黒いカードを差し出す。
奥沢の眼前まで進み、そのカードを受け取るシロ――その黒い板切れをためすがめす見つめる。プラスチックと同じくらいの硬さで、よく見るICカードなんかと同じくらいの大きさ。表面も裏面も、グラデーションもない純然たる黒だった。
「…………これは?」
「テスト用さ」
言いながら、奥沢は、ダイニングテーブルの上に置いてあるリンゴを指さした。綺麗に磨かれた、ヘタ付きの真っ赤なリンゴだった。
「そのカードを握って、そこに立ったまま、イメージするだけで、あのリンゴを壊してみてよ」
「は? …………イメージだけで?」
「そう。君がこれからやることの、その入門編。まあ、モノは試しだ。まずはやってみて」
「…………」
いぶかしみながらも、シロはカードを手にしたまま、言われた通り、リンゴが壊れた様を脳内でイメージした。
――その瞬間だった。
それこそ瞬きする間もなく、そのリンゴが一瞬で見えなくなった。テーブルの上から消え去ったように見えた。
その意味を認識できないまま、シロが立ち尽くしていると、
「……んん?」
と言って、奥沢がそのダイニングテーブルへ近づいていく。そしてそのテーブルの上を人差し指で――姑が掃除の出来を確認するかのように――すっとなぞった。
その指先を見つめるなり、
「……ははぁ、なるほど! ――うん、合格だ!」