第1話「花塚まいみ」
花塚まいみは、自分を不幸だと思ったことがない。
『人の心を読める』人間が登場する話は、この世にごまんと存在する。溢れかえっている。ある程度の長さの物語ならば、どこかに必ず一人くらいは出てくるくらいである。
まいみは、可能な限り、時間が許す限り、それらに目を通すようにしてきた。
『参考』になるかもしれないと思ってのことである。
しかし結局、それらを読み終えた際、まいみはモヤモヤした感情を抱くことになる。気分が下がることになる。
結局のところそれらは、『人の心を読める』人間からしたら、ただ利用されるだけの話になっているからだ。あるいは、そういう結末になっているからだ。
――苦悩したり。
――心が壊れていたり。
――または、最後に陥れられたり。
これらの物語に登場する『人の心を読める』人間は、ほとんどがそんな目に遭っている。そんな状態に陥っている。物語のため。ストーリーのため。起承転結のため。最早、差別と言ってもいいのかもしれない。
だって、考えてみて欲しい――人の心が読めたら、デメリットよりメリットの方がどうやったって大きいだろう? ありがたいことの方が断然多いだろう?
危険な考えの人がすぐにわかるし、目を向けずとも人がいることに気付けるし、人に嫌われる前にその兆候に気付ける。
そのおかげで助けられたことが何回あったことか。命拾いしたことが何十回あったことか――当然これは、まいみの時たまそそっかしくなる性格が根本的な原因になっているケースも、往々にしてあるのだが。
勿論、道を歩いている最中には、他人の心の声が否応なく聞こえてくることになる。が、まいみは気にはしない。というか、気にならない。よく聞き取れないことの方が多いし、聞き取れても、こちらに関係ないことの方が確実に多い。
おまけに言えば、十八という年齢になったまいみは、男性とのすれ違いざまに、
『……あの娘、可愛いかも』
『……あれ、結構美人じゃん』
『……やべぇ、声かければよかった』
などと心の中で囁かれる機会も増えている――断然、悪い気はしていない。ニヤけるのを我慢するのに必死なくらいである(実際は、それらが本当にまいみに向けられたものなのかは未確認なのだが)。
極論、自身に備わったこの特性は無敵なんじゃないかとすら思っている――いや、『思っていた』と過去形にする方がより正確である。
天敵もいるにはいる。
一番厄介なのが、心を読んでいるうちに、逆にこちらの心をぐちゃぐちゃと弄りまわしてくるような人間だ――そして、そんな人間にこれから会いに行かなければならない。
「……え~と」
まいみは地図を握りしめながら、辺りをキョロキョロと見まわした。
つい二週間前に入学したこの大学構内の地図を、まいみはまだ覚えきれていない。道順を覚えるのは元々苦手だし、さらに今日は、今まで来たことのない区域に足を踏み入れている。
おまけに言えば、この大学へは、入学前には試験の時に一度来たきりで、オープンキャンパスにも来ていない(別の大学へ行ったのだ)。所在地すら曖昧だったくらいである。
思い返せば、元々まいみの志望大学は自宅にほど近い、もう少し偏差値的にランクの落ちるところだったはずだ――しかし、いつの間にかこの那頭奈大学志望に鞍替えし、受験勉強に躍起になっていた次第である。
――何か、おかしいな……。
と思う部分はある。思ったことはあった。確か、高校三年の夏休みに、某先輩が陣中見舞いに来た時までは、そんなことはなかったはずなのに、その日を境に、急に……。
――いやいや、いけない、いけない。
まいみは首を勢いよく横に振る。愛する先輩を疑うなど、あってはならないことだ。神の冒涜にも等しい。おまけに、これからその先輩に会いに行くのだ。
気を取り直して、まいみは地図を見直す。
「ここを、右に……」
言いながら、建物の角を曲がろうとした、その時だった。
――ぼふんっ
思いきり何かにぶつかり、まいみは尻もちをついた。見ると、目の前に人が立っている。半袖のシャツにスラックスに革靴という、だいぶカッチリした格好の男の人だった。
「あ、ああ、ごめんなさい」
と、男の人は謝りながら、手を差し出してくれた。しかし、砂埃の中に壮大に手をついてしまったまいみは、
「こちらこそ、すいません――ああ、大丈夫です」
と言って立ち上がり、ぱんぱんと手を払った。
「入学したてで、歩き慣れてないんです、このキャンパス」
ははは、と愛想笑いのような、空笑いのような笑顔を向けてくる男。
ーーああ、じゃあ、この人、同級生か。
と頭の片隅で思ったが、しかしそれ以上に、まいみは呆気に取られていた。
――心の声が、聞こえなかったのだ。
先述の通り、まいみは、たとえ目を向けずとも、心の声で人がいるかいないか気づくことができる。そして今、曲がり角を曲がる際、心の声は聞こえなかった。そのため、そこに人がいるとは思いもしなかったのだ。
――対面してても、だ。
目の前にいても、彼の心の声は聞こえてこない。この人はもしかしてロボットか何かか(最近はAIとやらも発達していると聞くし)とも思ったが、そういうわけでもないようだ。
時たま『音』は聞こえるのだ。
ただ『声』になっていないだけで。
言うなれば、聴力検査で聞かされるサイン波みたいなものか。単調な音が耳を通り過ぎていくというか、そんな感じだ。
「ほんと、すいませんでした」
そう言ってぺこりと会釈しながら、その男の人は立ち去っていく。
その言葉も仕草も表情も、一般人のそれである。しかしその心の声に、起伏はない。強弱はない――喜怒哀楽もない。感情がない。
やはり、単調な音でしかないのだ。
その心の音から、感じ入るものが何もないのだ。
「……あの人、楽しいことあるのかな?」
まいみはそう呟いて、彼――糸環シロの背中を見送った。