最終話「坂巻万年青」
――坂巻万年青は、電車に揺られていた。
ひざ元に置いている黒いリュックからペットボトルを取り出し、キャップを外してゴクゴクと飲みだす。中身はスポーツドリンクだった。
半分ほど飲み干したところでようやく口を離し、フーと大仰に息を吐いた。
「……随分、喉乾いてたみたいね」
「当たり前だろう……三十分間、ほとんどしゃべりっぱなしだったんだ」
隣に座るショートヘアーの同輩の女子――河野五月の質問に、坂巻は嘆息しながら答えた。
車内には、今の所、坂巻と五月以外誰もいない。
ならば、少しばかり突っ込んだ話をしてもいいだろう――そう判断した坂巻は言葉を続け、
「……今回僕が見た『夢』が、それこそ三十分、ずっと僕が『相手』に対してしゃべりっぱなしの内容だったんだ。……だったら、同じようにするしかないだろう?」
「しなかったら、どうなってたの?」
「……わからないよ。僕が見る『夢』は、あくまで上手くいったケースだけなんだから――ただ、今回の僕の『セリフ』と『相手』の反応からして……よくはわからないけど……北半球に大混乱が巻き起こってたんだろうとは思う」
「……き、きたはんきゅう?」
五月は目を丸くする。
「随分とスケールの大きな話ね……」
「……三十分の長丁場なんて、僕も初めてだったんだ。だったらやっぱり、それ相応の大事だったんだとは思う」
「……三十分も、よくセリフを覚えてられたわね」
「そのためのこれだ」
そう言って、坂巻はカバンからA4サイズの大学ノートを取り出した。
受け取った五月がパラパラと中をめくると――びっしりと、セリフが書き込まれていた。
坂巻は解説するように、
「……例の『夢』を見て、起きたのが今日の八時半。それから三十分で身支度して、覚えてる限りの『夢』の内容をそこに書くのに二時間。お前に電話した後、大学にたどり着いたのが十一時半。そしてあの入り口を見つけたのが昼前――本当に本当にギリギリだったんだ。『夢』で見た場所に辿り着いてから、ものの数十秒で『相手』が来たんだから」
「そんな大変なことするくらいなら、警察呼ぶなり、力尽くでふんじばるなりすればいいのに……」
「……そりゃまあ僕だって、小さい頃は、『夢』を見るたび何度もそうしようとしたけど……結局一度もうまくいかなかったんだ。だから今はもう諦めて、仕方なく『夢』の通りに行動してるんだ……」
「いっそ無視したら?」
「それで、例えば『人死に』がでるような大事件が起こった時、それでも他人事でいられる自信が僕にはない」
「ふ~ん…………あんたの『予知夢』ってのも、大変なだけで、全然楽しくないのね」
「……楽しいと思ったことは一度もないよ」
坂巻は肩を落とし、床に溜め息を吹きかける。
五月は、そんな坂巻の後頭部を見下ろしつつ、
「……おまけに今回は、私がいなかったら全部台無しになってたんでしょ? あの入口見つけられなかったんだから」
「ああ、それはまあ、本当だよ。入る扉の場所がだいぶ朧気だったから。お前を呼んでて助かった。……お前は、目だけはいいからな」
「目『だけは』ってなによっ」
五月は頬を膨らませ、ぽかりと坂巻の後頭部を殴る。そしてムスッとしつつも、
「……しかしあんな、ゲームの裏面の入口みたいな隠し扉が、あの大学にあったなんてね。それは唯一、面白い発見だったわ。……今度、私も入ってみようかな?」
「……お勧めはしないよ」
そう言って、坂巻はノートの最初のページをめくり、五月の前に差し出す――そこにはびっしりと、数字が羅列してあった。
「……何これ?」
「あの扉の暗証番号」
「……長すぎない?」
「さっき数えたけど――しめて727桁」
「なっ――」
五月は目を大きく見開き、ノートをめくる。四ページにわたり、数字が隙間なく並べられていた。
「……これも『夢』で見たってこと? ……こんな数、よく覚えてられたわね」
「一応、『夢』の内容を記憶しておくのは、長年の訓練のおかげでだいぶ得意にはなってるし――その数列の中には、円周率やらルート2やらルート3やら、有名なのも混じってたから、幾分覚えやすかったは覚えやすかったよ。……ただ、書き忘れたり、書き損じたり、あるいは入力をミスったりしたら、その時点でゲームオーバーだったはずだから。今回のはほとんど運だよ。合ってて本当によかった……」
「……あの扉を使う人は、毎回こんなの打ち込んでるってこと?」
「……いや、多分、非常時の備えの出入り口なんだと思う。打ち込むだけで十分以上かかるし、あのドアのすぐ先に、だいぶ重要そうな設備があったから……」
「そんな厳重そうな所だと、防犯カメラとかに映っちゃってない?」
「……一応今まで、『夢』の通り行動できてた時に、危険な目に遭ったことはないから、そこはあんまり心配してないよ」
と、ここで――
『志原町~、志原町~』
アナウンスが流れ、電車が停止する。
ドアが開くと、ぞろぞろと人が入ってきた――今この電車が着いたのは、三線が交わるそれなりに大きな駅のため、乗客が一気に増える場所になっていた。
立ったままの人も何人か出てくるくらいの込み具合。
さすがにこの場で『予知夢』云々の話はできないと思い至った五月は、
「……で、何してくれんの?」
と、話題を変えるように言った――しかし実際は、今回の件に協力した対価についての話であるため、完全に話題が変わったとは言い難かった。
苦虫を噛むような顔になった坂巻は、
「……参考までに、お前の要望を聞いておこうか」
「温泉行きたい!」
よく通る声で五月は言い放つ。
聞くや、坂巻は眉間に思いきりしわを寄せた。
「あのなあ……それはつまり、お前の温泉旅行の費用を全額、僕に出せと、そう言っているのか?」
「はぁ? そんなわけないでしょ!」
五月は、坂巻の眉間をビッと指さした。
「連れてけと言っているのよ!」
「……連れてく?」
「そう!」
腕を組み、深く頷く五月。
「行き帰りの交通手段、泊まる温泉宿、昼食、夕食、朝食、立ち寄る観光地及びその歴史解説、寝る前のマッサージ、そしてお土産屋さん。諸々全部を準備し、費用を支払い、スケジューリングし、エスコートしろっつってんのよ。当たり前でしょ!」
「……はあ? ……あのな、たかが入口探し手伝ったってだけで、何でそこまでしなきゃならないんだ!」
「言うこと聞くって言ったのはそっちじゃない!」
「何でも聞くとは言ってない!」
「言ってないってことは、限定してないってことでしょう!」
「そ、そんなわけ――」
と言いかけたところで、坂巻はここが電車内であり、周りにだいぶ人がいることを思い出す――この電車は大学から離れる方向であり、大学最寄駅から乗り合いしている人はいないはず――しかし、だからと言って、大学関係者が誰もいないとは限らない。例えば今日がフリーで、今から遊びに行く同校生などいくらでもいるだろう。
そんな人にこの話を聞かれたら、あらぬ疑いを掛けられるのは明白も明白だ。年頃の男女が二人で温泉旅行の話などしていたら、自分だって勝手に『そういう仲』なんだと断じるだろう。
なおも、
「私だって鬼じゃないわ。別に近場で良いのよ、近場で。それで許してあげるっての」
とぶつぶつと言っている五月に、耳元で
「この話はまた後で――」
と言いかけた時、
――ガタンッ
と電車が大きく揺れた。
飛び上がるほどではないが、油断していれば、そのまま倒れてしまう程の大きさの揺れ――例に漏れず、五月も坂巻の方へ盛大に倒れ、ごちんと頭をぶつけた。
そしてそのまま――頬と頬が消しゴム一個分くらいの間隔を保った状態のまま――二人は目が合い、固まってしまった。
顔見知りになり五年になるが、こんな間近で五月の顔を見るのは、覚えている限り、坂巻にとって初めてのことだった。日頃やかましいとしか思っていない相手だが、さすがに十九歳にもなれば顔立ちは大人びてくるし、化粧も上達しているようだった。
どんな人間であろうと、どんな人間性であろうと、時と共に少しずつ成長していくものだと呑気に感心していると――向かいに座っている中学生と思われる女子二人組が、チラチラとこちらを見ているのに気づいた。
ここでようやく坂巻は、自分と五月が、腕を肩に回し、体を寄せ合い、顔を近づけてという、電車内としては常識に反した姿勢でいることに思い至る。
慌てて姿勢を正し、五月と距離を取ったが――今度は五月がきっと睨みつけてきて、
「……何よ、人の顔じっと見て。何期待してんのよ」
と言って、再度ポカリと殴ってきた。
ぎゅっと握られた拳。
怒れる肩。
低く突き放すような声。
――しかし、耳まで真っ赤に染まったその顔には、まったくと言っていいほど説得力がなかった。
(……期待してんのはどっちだ)
と心の中で毒づきつつ、坂巻は窓の外の景色を見やる――見やりながら、先ほどの『彼』を思い返す。
――あのまま出てきてしまったが
果てして彼はどうなったろうか?
彼がどうしてあんな行動に出たのか
彼の中には一体どんな哲学があったのか
自分には知る由も無い事だが、
ああでもしなければ抱えられない何かが
きっと彼の中にあったのだろう。
その何かがあったからこそ
彼はあんなに頑なだったのだろう。
彼はあの後、どうなるのだろうか?
誰か見つけてくれただろうか?
あの部屋から出れただろうか?
出してもらえただろうか?
考え直してくれるだろうか?
いつかもう一度『心』を取り戻せるだろうか?
――彼もいつか、気づくだろう。
言うまでもないことだ。
すぐにわかることなのだ。
人並みに生活していれば。
例えば『期待』なんてものは、
電車が一揺れするだけで、
一つ、二つと、
ぽんぽん生まれていくようなものなのだ。
夢も、
希望も、
そして期待も、
小さいながらも、
簡単に簡単に生まれるのだ。
この世に溢れているのだ。
消えようもないほどに。
消しようもないほどに。
……もし彼がまた戻って来たとして、
そして先程自分が言った通りに
あの人でなしの権化のような先輩を
彼に紹介したとしたら、
一体どんなことになるのだろう?
彼にとって良い影響が生まれるだろうか?
それとも悪化の一途を辿るだろうか?
……まあ、どちらにしてもだ。
例の可哀想な後輩を
少しでも、少しの間だけでも
先輩の毒牙から遠ざけられるなら
それだけで僥倖なことだ。
望むべくもないことだ。
そんなことを考えながら、
坂巻は溜め息をこぼす。
笑みをこぼす。
一縷の期待を込めて。




