もしも美女が野獣でも妻にしてくれますか?
昔々、あるところに少しでも性的に興奮すると醜い野獣の姿に変身してしまう美女がいました。
高名な占者の言うところによれば、彼女の遠い先祖が魔女に受けた呪いの、その残りカス的な何かが突然変異して、更に体質として固定されふにゃふにゃ婆さん飯はまだかのぅということでした。
正式にかけられたものと違い解呪は不可能らしく、今年で十八を数える美女は多感な時を野獣化に振り回され、四大公爵家において唯一年頃の姫君という立場であるにも拘らず、すっかりやさぐれてしまっておりました。
「ふんっ。
ろくに教育も施されぬまま王城から追い出され、辺境に放置された上、庶民を娶って問題にすらならない弱小立場の塵王子如きが何だって言うの。
その血をひいた私が公爵家の姫君だなんて、ちゃんちゃらおかしくて紅茶だって空を飛ぶって話だわ。
どうせ、塵王子だって女好きの孕ませ王か何かが戯れにどっかの下女にでも手ぇ出して産ませた半端者だったんでしょうよ」
豪華な調度品に囲まれた自室で、優雅にティータイムを満喫する美女は、とても貴族令嬢とは思えぬ下品な言葉遣いでそう吐き捨てます。
「またそのような……いくら姫様でも不敬にあたりますよ」
「不敬結構よ。いっそ、罰を受けて平民にでもなりたいくらい」
即座に従者が窘めますが、不満げに鼻を鳴らす彼女が聞く耳を持つ様子はありません。
とはいえ、そんな姫君の態度はいつものことなので、彼は返された言葉をあっさりと流して、自らの疑問を投げかけます。
「そのお話はさておきまして、姫様。
野獣のお姿でいらっしゃるようですが、何ゆえ私室かつ従者の私しかおらぬこの場所で興奮なさっておられるのです?」
「いや、この新しいティーカップの描くなめらかなラインがそこはかとなくエロティックだなぁって」
「左様で。私ドン引きでございます」
頭を下げながらも、大概無礼な感想をぶちかます従者です。
長年気心の知れた二人の間だからこそ許されるやり取りなわけですが、屋敷内の多くの勤労者たちから、いつ彼が不敬罪で処分されてしまうかと心配されていることは知りません。
ちなみに、過去の魔女の呪いが原因ということで、アフターケアとして、身に着けた衣服やアクセサリー等々のサイズが自動的に変わる魔法をかけて貰っているので、どれだけ姫君が二つの姿を行き来しようとラッキースケベ展開は皆無です。
「ねぇ、代々塵王子の家系に仕えている従家の、私の教育係兼従者のルミエスワース」
「はい」
「私、貴方のそういうハッキリ物事を口にするとこ嫌いじゃないわよ」
「ご冗談を」
告げられたそばから、ルミエスワースはハッキリといわずバッサリと主人の好意を斬り捨てます。
彼に恐れるものはないのでしょうか。
けれど、姫君も慣れたもので、従者に構わず愚痴語りの続きを始めました。
「そりゃあ、私だって結婚したくないわけじゃないわよ。
でも、いくら何でも野獣に興奮するような真正の変態を旦那様にしたいだなんて思うわけないでしょう」
特殊性癖持ちの男性は、いくら相手の見つからぬ姫君でも遠慮したいようです。
贅沢だ我侭だといった意見を押し付けるには、本来ならば多くの希望者の中から選別する立場に成り得た事実を思えば酷なことでしょう。
仮にも、彼女は若く美しい女性であるのですから。
「そういったことは、せめて元の姿にお戻りになってからおっしゃって下さい。
淑女にあるまじき猛り易さで、場も時も弁えず姿を変えておいでではございませんか。
真正の変態は一体どちらです」
哀れな境遇の姫君に対し、同情のどの字も見せない従者ルミエスワースの嫌味が飛びます。
しかし、彼の言葉が主人の心に届くことはなく、彼女は憂い顔で白い頬にほっそりとした右手を添えました。
「だからって、私が野獣にならない、興奮しない相手をと考えたら、品性下劣の超絶不細工かつ夜の営みのヘタクソな人間ということになるでしょう。
それは変態よりも、もっとずっと嫌だわ」
ほう、と美女の姿で自らを憐み溢す吐息は、年頃の貴族令嬢らしい色気と麗しさに満ちておりました。
とはいえ、どちらの体の姫君に対しても、けして態度に差をつけぬ従者は、常の無表情から僅かに瞼を下げ、睨むに似た目を向けて、非難の声を発します。
「ベラドンナ様、口を慎みなさいませ。
仮にも公爵家の姫君ともあろう御方が、はしたない」
「あぁら、ごめんあっさっせぇー」
「……まったく嘆かわしい」
ルミエスワースの注意に、主人はわざとらしい口調でおどけ、受けた言葉を空気に散らすように扇子を仰ぎ出しました。
悪びれない様子の姫君から焦点をズラし、従者はひとつ小さく息を吐いてから、流麗な仕草で冷めた紅茶を入れ直します。
彼だって、何も自身の主人を嫌っているわけでも、好きで憎まれ口を叩いているわけでもないのです。
かつて、家来たちがこぞって甘やかしたことが原因で呪われの身となった王子の存在が、彼らの後悔を継いできたルミエスワースに毅然とした姿勢を崩させないのでした。
「姫様。新たな縁談のお話が届いておりますよ」
ある日、朝食を終え私室へと戻った姫君の耳に、もはや目新しくもないセリフが飛び込んできます。
「えーっ。まだ諦めてなかったの、お父様ってば」
片眉を吊り上げ、彼女は呆れの感情を露わにします。
今後一生の進退を決める大事な案件ですから、本来ならば姫君の実の父であるパーダム公爵が直接伝えるべき事柄ではあるのですが、破談の度重なる内に、いつしかルミエスワースの仕事へと変わっておりました。
準宰相の地位を賜る彼の御方は、現時刻、王城へ出仕中のため不在となっています。
「……まぁ、いいわ。
とりあえず、釣り書きあるんでしょ。ちょーだい」
「はい、こちらに」
一応まだ結婚願望を捨てていない華の乙女真っ盛りな彼女は、先月遠方から取り寄せた気に入りのソファに向かい歩きながら、横目に手を差し出して書類一式を受け取りました。
数秒後、派手に音を立てて三人掛けのソファ中央へ腰を落とした姫君。
追従して背後に控えたルミエスワースから叱責の声が上がります。
しかし、暖簾に腕押しと申しましょうか。
常の通り、彼の発言を聞き流して、美女はまず最初に縁談相手の姿絵を取り出しました。
教育係を兼任する従者の日頃からの苦労が見て取れるような光景です。
「ふーん。天辺からハゲそうな緩い巻き毛のブラウンの髪に、まともに物が見えているのかどうかすら微妙な細すぎる糸目、ヘラヘラと頭の悪さを表したようなしまりのない唇、なんだかパッとしないヤツねぇ」
「姫様、そう穿った見方をするものではございません」
「でも、久しぶりに歳の近い男を寄越してきたじゃない。
前回なんか、子も通り過ぎて孫と同じ年齢かってぐらいのヤモメのジジイが相手だったのに」
「その件は……さすがに焦りすぎたと、旦那様も溢しておりましたから……」
「あっそぅ。どこまで信じて良いものかしらねー」
好き勝手に縁談相手の容姿を扱き下ろす姫君ですが、それでも、即座に話を断る心算はないようでした。
今日までに経験してきた散々な縁談の数々によって、まともな男性を判断するための感覚が大いに麻痺してしまっているのです。
憐れ、公爵家ご令嬢。
やがて、見目を貶すことに飽きた彼女は、詳細以前の基本的情報が記された一枚の用紙を手に取ります。
「えーっと、隣国の侯爵家の次男で二十二歳、名前は、アダマイト・E・ター……待って。
ターナー? えっ、ターナー侯爵家?
そこの次男って、あの、有名な脳みそ花畑令息!?
嘘でしょ!?
どこまでも空気が読めなくて、まともに会話が成立しなくて、遠慮も礼儀も記憶力も常識もないない尽くしの彼の前では経験豊富な貴族も確実に笑みを引きつらせ、そのくせ身体能力だけは超人的に高くて何度か決闘騒ぎになった際は全て秒で完封、もはや誰一人として遠巻きにして近付かない目に見える地雷扱いの、最近じゃ人間社会に馴染めない反動で猛獣を飼い始めたらしいという噂で有名な、あの!?
ちょっと、完全な事故物件じゃない!」
憤慨し、書類をテーブルへ投げ打つ姫君。
そんな彼女に、従者がしれっと呟きを零しました。
「猛獣を飼いならす技量をお持ちならば、存外、姫様との相性も悪くないのでは?」
「ひっぱたくわよ、ルミエスワース!」
拳を握り全力で睨みつけてくる主人に対し、ルミエスワースは余裕の表情で肩を竦めます。
「素行まで野獣化が進んでおいでですか?
噂とおっしゃるなら、姫様も負けておりませんでしょうに」
「っう……そこは、まぁ、そうね。
確かに、風の噂に悪名を聞いただけでは、縁談を拒否する理由として弱すぎる。
いいわ。顔合わせでも何でもしてあげる。
私がこの目で花畑令息の本性を見極めれば良いだけの話だものね!」
「では、そのように手配を」
決意を込めて、姫君が先ほど放った釣り書きへ両腕を伸ばせば、見本のような一礼を披露して、従者が部屋から去って行きます。
入れ代わりにメイドが入室するのを横目に映してから、美女は再び此度の縁談相手の情報確認に没頭し始めました。
隣国との距離や場を整えるための準備の期間等々を考えれば、実際の邂逅は、数ヶ月は後になるでしょうか。
今度こそまともな男であって欲しいと心のどこかで願いながら、以後、彼女はまんじりとした日々を過ごすのでした。
さて、麗しき姫君の元に例の縁談の話が舞い込んでから、約二週間後のことです。
いつものように自室で寛ぐ彼女の元へ、突然、どこかから大きな影が差しました。
追って、窓の外へ視線を向ければ、部屋に付属するベランダの向こう側に、鷹のような顔面と馬のような四足を持った巨大な魔獣がいて、翼をはためかせながら中を覗き込んでいます。
先ほどから何やら屋敷内が騒がしいと、確認してくるようルミエスワースに命令を下した姫君でしたが、原因はこれかと、驚愕と恐怖に身を固まらせながら考えます。
誰より信頼する従者の代わりに侍っていたメイドは、悲鳴を上げる間もなく気絶し、人形のように背中から床に倒れていきました。
脳震盪等の症状が心配されるところです。
ここで駆け逃げたり悲鳴を上げれば、むしろ魔獣を刺激してしまうことになるだろうかと、姫君は明確に動きの鈍る頭で、それでも懸命に己が助かる道を探ります。
と、そこへ落ちるおよそ場違いな呑気なテノール。
「やぁ、いたいた。
初めまして。貴女が僕の未来のお嫁さんですか?」
声と共に、巨大な魔獣の背からヒラリと小さな影がベランダへ舞い降りました。
「待ちきれず会いに来てしまいました、ヒポグリフに乗って」
逆光で分かりづらいですが、目を凝らして得た色情報と、耳に聞こえた内容から、美女はひとつの当たりをつけ、震える唇を開きます。
「もしや……アダマイト・E・ターナー様?」
「はい、僕がアダマイトです。ぜひ、アダムとお呼びください」
嬉しそうに名乗りつつ、男は風を取り込むために僅かに開いていた大窓から、無遠慮にも未婚の淑女の部屋へと侵入を果たしました。
噂どころではない、とんでもなく非常識な御仁であると、出会って一分と経たぬ内に強制的に理解させられてしまった姫君です。
「あぁ、はい、その、アダム様、御目文字叶って光栄に存じます。
パーダム公爵家が娘、ベラドンナ・A・パーダムでございます」
相手がどれだけ埒外な人物であるからといって、同じように公爵家の恥となる態度を取るわけにもいかないと、彼女は見事なカーテシーと共に形式的な挨拶を舌に乗せました。
普段はやさぐれ美女として横柄な態度を取っていますが、公の場では完璧な貴族令嬢を演じられるぐらいには、学ぶべきことは全て身につけているベラドンナです。
辛口に思われるルミエスワースが、どれだけ彼女に向けた注意をスルーされても、その場で何度も言葉を重ねないのは、結局、己の主人がTPOを弁えた人物であることを知っているからであり、せめてプライベートな空間でぐらいは気を緩めさせてやりたいと、そんな教育係としては甘い考えを持っているからなのでした。
さすがは王子の家来の血に連なる者といったところでしょうか。
姫君の名乗りに対し、微笑んで頷いた男、もといアダムは、次いで、これまた頭のネジが十本単位で緩んで四散したような発言を堂々とぶちかまして来ます。
「良かった、絵姿を一度見たきりで自信がなかったんだ。
ええと、ベラドンナだから……ベル様ですね。
来て早々で申し訳ないのですが、実は、急に思い立って両親にも内緒でヒポグリフに騎乗した次第でして、すぐに国へ帰らなければなりません」
「はい?」
そこはベラで良いのでは、と心の中でどうでもいいツッコミを入れつつ、彼女は拒否する脳を何とか宥めすかして、必死に彼のデタラメなセリフ群を理解しようとしました。
そういった事情で半ば呆けた状態の姫君は、男が当然のように差し出してきた手を、咄嗟の反射で掴み取ります。
「また後日、正式に場が用意されると思いますので、その際はどうぞ、よろしくお願い致します」
「え、ええ。どうぞよしなに」
腕を激しく上下に振られる中、彼女はそう一言返すのが精一杯でした。
「……いやぁ、優しそうな人で本当に良かったなぁ」
先ほど告げた通りに、姫君の手を解放して即座に踵を返したアダムは、独り言にしては大きな声を漏らしつつ、ベランダで伏せて待機していたヒポグリフに軽やかに跳び乗ります。
そして、出発を促す鋭い掛け声と共に空へと舞い上がり、やがて彼方へと消え去ってしまいました。
ちなみに、猛獣ならばまだしも、魔獣の飼い慣らしに成功した人間がいるという話など、公爵家の優秀な情報網を持ってしても彼女は聞いた時がありませんでした。
「えっと…………………………夢?」
縁談相手の姿が完全に見えなくなった頃、美女の口からそんな逃避の呟きが落とされたのも、ある意味、仕方のないことだったでしょう。
勿論、この出来事が現実であることは、絨毯の上に転がったままのメイドや、庭先から届く騒々しい声、遅くも姫君の安否を心配して私室へ駆け込んできた従者の存在により、証明されてしまっています。
一気に後日の顔合わせへの不安を募らせるベラドンナでしたが、うかつにも自身が了承の言葉を吐いてしまった事実を思い出し、頭を抱えながらも、最低限の責任は取らねばと、彼女は周囲から漂う破談を望む空気を押し切って、再び邂逅の瞬間を迎えるのでした。
「お初にお目にかかる。私がパーダム家当主、モリオス・A・パーダムだ」
「初めまして、アダマイト・E・ターナーと申します。
お会いできて光栄です、公爵閣下。
この度は、良きお話を賜り、恐悦至極に存じます」
「うむ」
二人の再開は、約三ヶ月後。
パーダム公爵家応接室にて、厳かに行われました。
父親の隣に粛々と腰掛けている姫君は、まともに会話を成立させているアダムに内心で驚いています。
初対面で噂通りの空気の読めなさぶりを彼に発揮された彼女としては、到底納得できる事柄ではありません。
「……では、あとは若い二人で。
アダマイトくん、くれぐれも娘を頼んだよ」
「はい。お任せください、公爵閣下」
ベラドンナが悶々としている内に、父と男の雑談はつつがなく進行していたようで、気が付けば、本日の主役二人を残して、公爵とそれに追随する護衛やメイド等々が退室していく場面でした。
一応、従者のルミエスワースは姫君の背後に控えていますが、こういった場面で出すぎる男ではないので、基本的には存在しないも同然でしょう。
絢爛に飾り立てられた扉が閉まれば、一寸前の好青年はどこへ行ったのかという変わりっぷりで、縁談相手アダマイトがローテーブルを挟んで向かい側に座る美女へと語りかけます。
「やぁやぁ、お久しぶりです、ベル様。
お変わりないようで、何より」
顔面中の筋肉が揃って弛緩したかのようなヘンニャリとした笑みを浮かべ、いかにもダラけた声を響かせる男に、姫君は不快を隠さぬ表情で桃色に潤う唇を開きました。
「何よりもなにも、お待ちください、アダム様。
貴方、仮にもパーダム家の娘である私への、その気の抜けた態度は一体全体どういう了見ですの?」
「え?」
彼女の問いに首を傾げたアダマイトは、本気で何を聞かれているのか分からないといった風な、不思議そうな様子を見せています。
「だって、未来のお嫁さんですよね?
夫婦はありのままの姿を見せ合うものではないのですか?」
単純明快なその答えに、ベラドンナは一瞬、言葉に詰まりました。
今の彼女は猫だって何匹も被っていますし、それに、少々脳内妄想を捗らせるだけで、いつでも野獣になれるというのに、ともすれば夫婦となろうかという目の前の男に対し、未だどちらの姿も晒してはいません。
そういった事実から、美女には彼の持論がどこか耳に痛い話のように聞こえたのです。
多方面から反論は可能でしたが、結局、彼女が声に出せたのは、これだけでした。
「……まだ確定した話ではございません、早計です」
真っ直ぐに視線を向けてくるアダマイトから目を逸らした姫君は、広げた扇子を口元に添えて、苦みを帯びる自らの表情を隠します。
呑気な男がそんな淑女の機微に気付くはずもなく、彼は自らの後頭部を左手で擦りながら、緊張感のカケラもない声で言いました。
「あちゃー。なるほど、そうでしたか。失敗したなぁ。
でも、僕、ああやって貴族の真似事をするのは長くて十五分ぐらいが限度なので、やっぱりすぐこうなってたんじゃないですかねぇ」
「えぇ……?」
あっけらかんと告げられた事実に、美女は頬を引きつらせます。
彼女の父親は、優秀な娘自身に公爵位を継がせる心算で、人柄さえ確かであれば相手に能力を求めてはいないということですが、一応仮にも婿入りし公爵家の一員になろうかという男がコレでは、さすがにあんまりな話でしょう。
「やっぱり、ダメですかね。貴族らしく出来ないと」
「ええっと……」
ベラドンナ自身、色々と目に毒な光景が飛び込んでくる、野獣変化率の高い社交界に顔を出すことは滅多にありません。
また、当の野獣の見目や、有りもしない呪いの伝染を恐れる人間も多く、彼女に会おうと屋敷を訪れる酔狂な客も、現状では皆無です。
とくれば、最終的な結論として、貴族作法など不要といえば不要なのでした。
そもそも、彼に関する噂は国境を越えて届くほど有名なわけで、余程情報に疎い者でもなければ、今更わざわざ態度がどうこうと口まで出しては来ないでしょう。
未来、女公爵ベラドンナの婿という立場を手に入れたのなら、なおさらです。
「僕、こんなですから、ずっと女の人に遠巻きにされていて……でも、結婚には憧れていたから、今回のお話、すごく嬉しかったんです」
「うっ」
濡れそぼった犬のような、しょんぼりとした空気を纏うアダマイトに、姫君は妙な罪悪感を覚えて自身の胸を押さえました。
「ま、まぁ、必ずしも、ダメということは……ない……かと……」
「本当ですか! 僕のお嫁さんになってくれますか、ベル様!」
「それは……っ」
いくら相手に困っていると言ったところで、野心に塗れた貴族家からの求婚者は、まず最初の段階で弾かれています。
いつか女公爵となったベラドンナの邪魔になるようでは、彼女の夫として到底認められるものではありませんから。
その点、アダマイトは、地位や名誉に興味のある様子もなく、超人的強さを有するからといって悪事や荒事を好むような気性の激しさも見受けられません。
更に、魔獣を愛でるほどの度量があれば、姫君の野獣姿を恐れることもなさそうですし、彼女本人にしても、常に本音ダダ漏れなアダムは下手に貴族らしい貴族を夫にするよりは気を張り続ける必要もなく楽そうだと感じる部分もあり……要は、条件だけでいえば、彼はけして悪い相手ではなかったのです。
しかし、それを本人に告げるのは憚られました。
何より、この縁談相手が今までベラドンナが公爵令嬢として培ってきた様々な知識や経験がいずれも全く通用しなさそうな非常識な存在であるが故に、今後、夫に据えた場合の数多の苦労が目に見えるようで、どうも、すぐに頷くには躊躇われてしまうのです。
「それは?」
「その、私たちはまだ出会ったばかりで……婚姻を結ぶとなりますと一生のことですから、もう少し、お互いを知ってからでも遅くはないのでは……ない、かと……」
視線を泳がせつつ、ベルが遠慮がちにそう伝えれば、男は神妙な面持ちで頷きます。
「なるほど。
でも、僕はもうベル様がとても素敵で優しい女性だと知っているので、いつでも結婚していいと思っています」
「んぐっ……!?」
突然すぎる直球の告白に、美女は己の唾液を喉に詰まらせかけました。
咄嗟に用意されていた紅茶に手を伸ばして、それを飲むことにより事なきを得ます。
「最初に会った時、僕のことを怖がって逃げたり悲鳴を上げたり、気狂いとか化け物とか罵って叩いたり兵をけしかけたりもしないで、笑って挨拶してくれて、手も握ってくれて、よろしくって言っても断られなかったし、女の人にこんなに優しくされたのは僕は初めてで、すごく嬉しかった。
今も、こうして話を聞いてくれて、言葉を返してくれて……。
だから、お嫁さんになっていただけるなら、僕はベル様がいいです」
「うわぁ」
本当に幸福そうに笑うアダマイトに、姫君はひどく居た堪れない気持ちになりました。
ごく普通の対応を取っただけで、人を優しいと称するような彼の日常は、呪いに悩むベラドンナよりも遥かに不憫なものであっただろうと察せられます。
これで、ひとかけの同情心も湧かないほど、姫君は愛を知らずに育った人間ではありません。
また、彼女自身にしても、異性から裏のない純粋な好意を向けられた経験は滅多になく、胸に広がる未知の気恥ずかしさに、すっかり戸惑っておりました。
その時です。
「あっ、ヤバッ!」
感情の昂ぶりがザル判定に引っかかったのか、件の呪いが発動して、美女はみるみる内に醜い野獣の姿へと変わってしまいました。
「あ……あぁ……っ」
ベラドンナの脳裏に、顔面を恐怖に歪め青褪めさせる元縁談相手たちの幻影が次々と映り込んできます。
もはや正面に座るアダマイトを視界に収める勇気もなく、彼女は茫然と膝の上に置かれた毛皮纏う剛腕を見つめるのでした。
そこへ飛んでくる、いつかを彷彿とさせるような場違いに暢気なテノール。
「あれ? ベル様、少々大きくなられました?」
「は?」
思わず顔を上げれば、声の主は僅かに首を傾げて、野獣を無遠慮に眺めています。
それは、まるで子供が間違いさがしの絵本でも読んでいるかのような目つきで……姫君はついつい被っていた猫を数匹ばかり投げ捨て、声を荒げておりました。
「貴方っ!
まさかとは思いますが衣装でしか私を認識しておりませんの!?」
「えっ?」
「体格どころの話でなく、完全に変貌しておりましょう!?」
「え……変貌?」
キョトンと頭上に疑問符を並べて、アダムはそう言うベルの体を再度、上から下に視線を滑らせ観察します。
そして、一言。
「太陽よりなお輝く目映いばかりの金の髪も、瞬く星を散りばめた美しい濃紺の瞳も、どこにも変わった様子は見受けられませんが」
「ふぁーーーーーーっ!?」
想定外のセリフをぶつけられ、野獣は毛皮の下に隠れた皮膚を真っ赤に染めて、無意識に椅子から立ち上がっておりました。
「あの、ベル様?」
「くっ、くもりなきまなこっ!
この男、幼子の如き、曇り無き眼でぇ!」
「はぁ、左様でございますね」
困惑するアダマイトを指さし、背後に控えていた従者へ向かって、ベラドンナが拙い舌使いで叫びます。
突然、妙な劇に巻き込まれたルミエスワースは、主人の取り乱し様に全く関知せず、どこか面倒くさそうに適当な相槌を返しました。
縁談相手の奇行を「とりあえず、元気そうだから良いか」とスルーした元凶の男は、キャンキャンと従者と戯れている姫君に、再び細い糸目を向けます。
それから、十秒ほど経過した後、彼は軽快に両手を合わせて呟きました。
「……あぁー、なるほど。
どことなくこう、全体的にフサフサとされましたね」
「ソコは初めにお気付きになって!?」
聞き捨てならない今更すぎる看破報告に、野獣がマッハで振り向き怒声を発っします。
公爵家応接室は、世にも奇妙な混沌に包まれておりました。
さて、そんな騒動から約十数分。
ようやく落ち着きと美女の姿を取り戻したベラドンナは、改めて注がれた紅茶を口に含みつつ、何も知らなかった様子のアダマイトへと呪いの詳細を語ります。
「ははぁ、一定条件下で容姿が変貌する体質と」
「えぇ。釣り書きにも、その旨、記してあるはずなのですが……」
「あぁ、そうだったんですね。
絵姿は与えられましたが、他は一度両親に読み上げて貰ったのみですから」
「……故意に情報を隠匿されたと?」
「他家に婚約の伺いを立てても立てても断られる中、ようやくこぎ着けた縁談なのだから、絶対に何があろうとも纏めて来るように、と強く言い付けられております。
その一環でしょう」
男が肩を竦めれば、女は呆れの感情を隠さず息を吐き出しました。
「愚かなことです。
過去、同様に事実を知らされずお見えになった男性と、一度たりと縁談が上手くいった試しもございませんのに」
「ええ? それは何故?」
「……何故もなにも、野獣を妻に娶り、生涯を共にするなど、正気の沙汰ではございませんでしょう?」
心底不思議そうなアダムへ、もはや言葉遣い以外の令嬢らしさを投げ捨てたベルが、家庭教師が出来の悪い教え子にするように、ゆっくりと語って聞かせます。
「やじゅう? とは?」
しかし、彼女のこれまでの説明も空しく、彼は最も基本的な単語になぜか疑問を覚えたようでした。
姫君は俯きがちに眉間に皺を寄せ、額に手を置いてから、再度口を開きます。
今の心境を端的に表現するなら、「言わせんな、バカ」でしょうか。
「私の……貴方の言葉を借りるなら、少々大きくなった私の姿のことです。
立場上、表立って口にする者はおりませんが、裏では皆、野獣と、そのように……」
裏も何も背後のルミエスワースには日々連呼されておりますが、ソコはソレというものです。
「なんと! 世の貴族連中の目は節穴か!
どこをどう見れば、麗しきベル様のお姿を野獣などと呼べようか!」
ダンッと力強く自身の腿を叩いて、アダマイトは初めて怒りの感情を露わにしました。
己のために憤りを示す男に対し、どうしてか姫君の心には嬉しいよりも先に疲れが浮かびます。
「世の貴族も、野獣姿と今の私の姿の区別すらろくにつかない貴方にだけは、節穴などと称されたくないでしょうね……」
「ええ? そんなにも変わっておりますかね?」
「世間一般的には」
「ううむ、理解しがたい」
「同じ心境ですわ、対象は違いますけれど」
「ん?」
腕を組んで唸る彼へ、遠い目をした美女は、届かぬと知りながら少々嫌味っぽい言葉を投げつけました。
勿論、通じませんでした。
「ま、ともあれ、僕は気にしませんよ。
どちらもベル様にしか見えませんから」
「…………複雑」
彼の素直な人間性からして、全ては本心から述べているのだろうと理解できます。
だからこそ、ベラドンナは野獣の姿ごと受け入れられた事実を喜べばいいのか、美女と野獣の見分けもつかない相手のポンコツぶりを嘆けばいいのか、一向に分かりませんでした。
「何ていうか、悪い人ではないのよね……」
やがて数日に渡る顔合わせの期間も終わり、これまた飼い慣らしたらしい魔物のスレイプニルに揺られながら去っていく縁談相手の背を見つめて、姫君はポツリと呟きます。
分かり易く懐かれて悪い気はしませんが、唯一僅かにでも乙女心をくすぐる男がアレかと考えると、美女は何だか我が身が情けなく思えてくるのでした。
結局、ベラドンナとアダマイトの婚姻は周囲が驚くほどスムーズに決まりました。
一因として、愛しの姫君に会いたがった男が、三日と開けずに何度となく魔獣を駆り公爵家を訪れていた事実が上げられます。
美女は縁談相手の軽率な行動を窘めながらも、好意を隠さず纏わりついてくる彼に徐々に絆されて、やがては彼女自身、ソレを心待ちにするようになっていったのです。
結婚が確定した際のアダムの喜び様は、それはもう大したもので、興奮が収まらないと言って、屋敷を越え、街を越え、国も山も谷も越えて、どこで見つけたものか伝説の生物ドラゴンを狩り、土産に持って帰ってきた程でした。
その後、二人は良くも悪くも似合いの夫婦として、事あるごとに社交界を震撼させる存在となります。
けれど、当の本人達は周囲の反応などそっちのけで、大層睦まじく幸福な生活を送っていたのだということです。
長年に渡り間近で彼らの世話を勤めた従者の手記には、破天荒な日々への愚痴と共に、甘過ぎる主人夫婦のせいで辛党になってしまった等と嘆く一文が載せられていたとか、いないとか……。