義民の末裔 その二
当時の磐城平藩は磐城四郡、百五十ヶ村を有し、石高は七万石であった。但し、この石高は表向きの検地石高であり、代々の藩主が新田開発を積極的に推進した結果、実質的な実収は、九万石以上はあったとされている。また、領内は良い山方、海浜漁港を抱え、そこから上納される諸税、及び絹を始めとする商業活動から上納される貢税まで含めると、二十二万八千石程度の歳入はあったと云われる内福な藩であった。この石高は水戸藩の三十五万石には及ばないものの、同じ福島県の会津藩の二十三万石に匹敵する石高となる。
歳入より歳出が多く、常態的な借金に苦しむ藩が全国的に多い中で、本来であれば、毎年二千両程度は蓄財出来る藩であった、とも云われている。にもかかわらず、当時は多額の借財を抱え、増税に継ぐ増税を領民にかけるほど、磐城平藩の財政は危機に瀕していた。
主たる要因としては、幕府が強いるお手伝い普請に、忠実な譜代大名として積極的に協力をしてきたということが主な要因として挙げられている。
また、藩主の風雅な趣味、嗜好もあってか、とかく江戸での奢侈散財も目立つところであったとも云われている。苛税ゆえに、磐城平藩の農民の暮らしは極めて貧しかった。
このことは、この一揆の二十年ほど前から流行り始めた、祐天上人の創案になると云われる『じゃんがら念仏踊り』での前唄、『盆でば 米のめし おつけでば なす汁 十六ささげのよごしは どうだい』という唄の文句でも分かる。
盆になると、米の飯と茄子汁が食べられる、それに、ささげ豆の胡麻あえも食べられる、ありがたいことだ、という意味合いが窺われるほどに農民の暮らしは貧しかった。
米を作る農民はお盆と正月にしか、米の飯は食べられなかった、と云われている。
そして、この一揆の直接的な原因となったのも、実は増税であった。或る本に依れば、当時、会津藩の平均的な年貢は五公五民であったと云う。つまり、農民が作った米は、半分は年貢として上納し、残りの半分しか農民の手元には残らなかった。全国レベルで見れば、四公六民が普通であり、会津藩の年貢は重いほうであった。
しかし、磐城平藩では、常態的に、六公四民とされ、六割が年貢、手元に残るのは四割という苛税であった。しかるに、この一揆が起こる直前は、畑での収穫物を例に取れば、実に九割一分が年貢として納入することになっていたと云われている。
実に、暴政であり、大変な苛税を課していたと言わざるを得ない。
元文百姓一揆は全国的に見ても規模の大きな大一揆となり、磐城平藩の領内の百姓が結集し、磐城平城下に押し寄せた。その時の百姓の人数は二万数千人と云われている。そして、城方との交渉においては、『十八ヶ条の請願書』を城方の交渉役を通して、江戸に居る藩主にお渡し戴きたいと要求したのであった。この平城への進撃の過程で、これまで自分たちを苛めてきた割元名主(大庄屋)、豪商、藩役人の屋敷を焼き打ちして、気勢を挙げた後、磐城平城を四日間にわたり包囲して、平時に慣れた侍たちを大いに慌てさせたと云う、百姓たちの大一揆であった。
この一揆が終息した後は、磐城平藩の支藩である泉藩、湯長谷藩も、本家の磐城平藩の事例をいわば百姓対策の反面教師として学習し、両藩共、百姓たちの動きに敏感に反応し、不穏の兆しがある時は事前に徹底的に弾圧するといった態勢を取ることとなり、元文一揆の後は、磐城の地では一揆は起こらなくなったと云われている。また、一揆の首謀者たちの子孫に対しては、お上に楯突いた極悪人の子孫ということで、藩は代々迫害を続け、同じ百姓でありながら、村人もその子孫を何かと差別し、苛めるといった嫌な風潮もままあった、とも伝えられている。
この結果、百姓たちはいつしか、長いものには巻かれろ、巻かれた方が気楽で安全である、嫌々巻かれるよりはむしろこちらから進んで積極的に巻かれた方が利口である、といった卑屈なご都合主義、権力・権威に対する迎合主義にどっぷりと浸かっていく、ということになったのである。この傾向は、全国的な傾向でもあり、或る文書では、太平洋戦争での敗戦まで続き、戦争中も、百姓一揆の研究でもしようものなら、反体制・反国家を志向する危険思想の持ち主と見なされ、特高警察の目が光るといった状況であった、と記載されている。戦争が終わり、磐城地方でも漸く、一揆で犠牲となった義民たちの名誉が回復され、元文義民顕彰会も設立され、かつての処刑場を眼下に見下ろす鎌田山山頂に『元文義民碑』が建立された。石碑の建立は、昭和二十五年(一九五〇年)のことであった。
一揆から、既に二百有余年という歳月が過ぎていた。
そして、私は今、この石碑の前に立っている。