プラッチクの感情の輪
創作において思ったことを徒然に書いていこうと思う。
まずは自分の備忘録として。
または、誰かの役にたつかもしれないと思って。
完全不定期。
第一回はプラッチクの感情の輪が題材。
写経という修行方法がある。
仏教において経典を写書することにより功徳を積む行為である。
習うより慣れよ。
書き写すことにより形から入っていくことができる。
著しく面倒くさい行為であるが、それ故に対象物に対して興味を持つことができる。
一文字一文字を書き写すことによりいつか記載されている内容の神髄に触れることがあるのだろう。
漢字は基本、調べれば意味が分かる。
一文字一文字書いて意味を知れば、なぜその文字が使われているのか、筆者はなぜその文字を使ったのか、そういったことを知ることができるのだろう。
哲学書にも応用できる。
訳書ではなく原点を書き写すことにより神髄に触れることができるらしい。
ただ英語ならともかく、フランス語やドイツ語である場合は敷居が高い。
だが敷居が高く時間がかかるからこそ完遂した場合に得られるものは大きいのではないかと思う。
もちろん私は経典も哲学書も写経したことはない。
興味が無いからだ。
写経ではないのだが、プラッチクの「感情の輪」の図を模写した。
これも一種の写経と言えるだろう。
使われている英単語を和訳し、デザインを決めて実際に作図をする。
以下のような図だ。
まず断っておくが私は心理学者ではない。
単なる小説家になろうに投稿しているワナビである。
だからプラッチクの感情論を読み解いて理解しようとしているのではない。
単に芸の肥やしにならないかと考えて眺めている。
だから、ここに書かれていることに興味を持たれたとしても鵜呑みにせず、調査されることをお勧めする。
人間の感情は複雑なものなのだろう。
「感情」を辞書で紐解いても、ウィキペディアで調べても「これが感情の定義の決定版だ」というものは出てこない。
感情の定義など時代じだいによっても変わるし、文化的な相違によっても変わる。
コンピューターが囲碁でトッププロに勝つ時代ではあるが、それでもやはり感情については我々は未だ判っちゃいない。
プラッチクの「感情の輪」はなんとなく「人間の感情とは」というものを解った気にさせてくれる優れものだ。
この図はなんと言っても美しい。
八色八枚の花弁が四段階のグラデーションをもって咲き誇る。
美しいものは正しいものに思えてくるから不思議だ。
だから模写したいと思う。
このような図を描くにはどうしたら良いのだろう、そう考えている時が楽しい。
システマティックな図であるから、機械的に描くことができる。
そういったことができる作画ツールに適した図だ。
プラッチクの「感情の輪」はアメリカの心理学者であったRobert Plutchik(21 October 1927 – 29 April 2006)によって考案された彼の感情論の一部で、人間の感情を一つの図にまとめたものだ。
プラッチクによれば人間の感情は大きく八つの基本的なものがあるという。
これらの八つの感情は、相反して互いには共存できない対位のものがあり対になっている。
八つの基本的な感情には基本/弱い/強いの度合いがありそれぞれ別の感情として名前が与えられている。
これらをまとめると次の表になる。
それぞれの感情には結合のしやすさがあり、結合しやすいものが隣り合わせになるように並べると輪の中に八つの感情を配置することができる。
一般的なプラッチクの「感情の輪」は基本的な感情を基本/弱い/強いと色分けし、第一段階の結合的な感情までを図示したものとなっている。
一段階の結合的感情は以下の表のようになる。
プラッチクの「感情の輪」を眺めていると色々な気付きがある。
例えば「心配」と「怒り」は対位にあって両立しない。
これは本当であろうか? 娘の帰宅が遅いシーンでの頑固な父親は「心配」と「怒り」を同時に感じるのではなかろうか? とか。
考えていくうちに、そうか「心配」と「怒り」を同時に感じているのではなく心の動きとして激しい感情の動きがあるのだな、と気付く。
「無事であるのか」に対しての「心配」と「門限を守らない娘」に対しての「怒り」。
娘の帰宅前では前者が支配的で、後者が時折でてくる。
いざ娘が無事に帰ってくると、「無事であるのか」に対しての「心配」は吹き飛び、激しい「憤怒」が湧き出てくる。
このような心的な動きとなるのだろう。
その他「関心」と「驚き」や、「信頼」と「嫌悪」が本当に対位なのは正しいのか? に関しても考えされられる。
実際各感情に対しての定義次第であるところもある。
しかし「同時に感じることはない」だけで激しい心的な動きの中に、激しく入れ替わって感じることはあるのだろうと結論付けると今のところ矛盾はない。
プラッチクは「愛」を「喜び」と「信頼」の複合的な感情であると定義している。
対位にあるのは「自責の念」だ。
「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」という言葉がある。
「愛」にはアガペ、エロス、マニアなどさまざまな形態があるが、それら共通するのは何かしらへの「信頼」とそれにより得られる「喜び」が必要であるのだろう。
そう考えると神へ奉仕と肉欲のパートナーが与えてくれる快楽との間の共通点が見えてくる。
逆に自分への「信頼」を失うという心的状態は「愛」という感情からほど遠い。
もしくは「知りさえもしない」ものに対して「愛」という感情を抱くことはできない。
これもまた矛盾はない。
ちなみにプラッチクの感情論では基本的な感情は二個隣、三個隣まで結合して結合的感情となる。
元のプラッチクの感情論ではすべての結合に名前が与えられているわけではないようだが、フォロワーたちが補完しているようだ。
表にすると以下のようになる。
二個隣との結合的感情
三個隣との結合的感情
二個隣以上の組み合わせはある意味病的なものとなる。
挟まれた感情が抑圧されるからだ。
例えば「好奇心」は「信頼」と「驚き」が結合した感情である。
「信頼」と「驚き」の間には「心配」があるのだがそれは抑圧され、飛び越えられてしまう。
本来は、そんなことに興味を持つべきではないという「服従」や「畏れ・警戒」が先にくるべきであるのだが、そんな感情は抑圧される。
これらの理論が合っているのか否かは私には解らない。
しかし小説を書こうと思うものの端くれとして面白いと思う。
「好奇心」の強い人物の弱点は「心配」の感情が薄いことだ。
「好奇心」の強い人物の強みは他人が「心配」して思いつかないことに興味を持てることだ。
「自尊心」の強い人物の弱点は「予測」の感情が薄いことだ。
「自尊心」の強い人物の強みは「予測」を超えて信念を貫くことができることだ。
こうやって人物造形の基本を創ると説得力のある感情表現ができるかもしれない。
合っているかどうかは創作する上ではあまり重要ではない。
重要なのはこの理論に従って人物造形を行なえば、ある程度説得力を持つことができるかもしれないことだ。
そう、我々はプラッチクの感情の輪を人物造形のツールに用いることができる。
力ない我々ワナビが少しでも楽して表現力を得るためのツールとして。