優秀な兄には敵わない俺ですが、彼女だけは譲れません
ここ、王立アルカディア魔法学園には、毎年たくさんの学生が入学してくる。
魔法を学ぶという同じ志を持って入学していた同志とはいえ、通う初めてしばらくすると、タイプによって大きく二つに分かれるようになる。
将来を嘱望される優等生と、教師たちの頭痛の種となる問題児だ。
そして、エリック・アーデルハイトは、後者の代表格といえる生徒だ。
「エリック! また授業をサボったな!」
「うるせえな。出席はしただろ」
「開始から一時間も遅れてきておいて、出席したとは言わん!」
「じゃあ、遅刻ってことでいいじゃねえか」
「開き直るな!」
教室に教師の怒声が響き渡る。
窓際の席で頬杖をついたエリックは、金色の瞳を細め、心底面倒くさそうに欠伸をした。
黒い髪は寝癖だらけ。制服のネクタイは緩み、上着のボタンは二つも外れている。学園指定の革靴には、どこでつけてきたのか泥がこびりついていた。
おまけに、先週は上級生三人を相手に喧嘩をしたという噂まである。
侯爵家の次男でなければ、とっくに退学処分になっていたに違いない。
「まったく……少しは兄を見習ったらどうだ!」
教師が吐き捨てるように言った。
その瞬間、エリックの表情から、わずかに笑みが消えた。
「……兄貴は関係ねえだろ」
「関係ないものか! 同じアーデルハイト家の人間でありながら、なぜこうも違うのだ!」
「そりゃ、腹から出てきた順番が違うからだろ」
「エリック!」
「はいはい。反省してまーす」
まるで反省していない声を残し、エリックは机に突っ伏した。
教師の怒鳴り声を聞き流しながら、彼は窓の外へ目を向ける。
中庭では、数人の生徒が魔法の練習をしていた。
その中心に、一人の少女がいる。
蜂蜜色の髪を揺らし、楽しそうに笑う少女。
公爵家の令嬢、リリアンヌ・モリアッティだ。
彼女は誰にでも分け隔てなく接し、困っている者を見れば迷わず手を差し伸べる。
魔法の腕も成績も申し分なく、社交界では次代を担う令嬢として期待されている。
しかし、彼女はエリックが最も苦手とするタイプの人種だった。
とにかく眩しすぎるのだ。
ああいう、何の疑いもなく人を信じられる人間は。
彼女の隣には、エリックの兄、クリス・アーデルハイトがいた。
銀色の髪に、穏やかな青い瞳をもつ。常に学年首席を独占し、剣術、魔法、政治学のいずれの分野においても優秀な成績を収めている。
最近では、王太子レオンハルトの側近候補としても名前が挙がっており、将来は間違いなく王国の中枢を担う人物になると目されている。
遠くから眺めているエリックにはクリスが何の話をしているか分からなかったが、何か話しかけられるたびリリアンヌは楽しそうに笑っているのが見える。
リリアンヌが微笑むたび、兄もまた、柔らかく微笑み返す。
とのところはわからないが、まるで相思相愛のような、とに絵になる二人だった。
誰が見ても、お似合いだと思うだろう。
エリックは見ていられなくなって、思わず彼らから目を逸らした。
「……けっ」
小さく舌打ちをする。 エリックが今の落ち着かないような気持ちがなんなのか説明できずにいた。
♢♢
「エリックくん!」
「……なんだよ」
昼休み、校舎裏のベンチで昼寝をしていたエリックは、聞き覚えのある声に眉をひそめた。
目を開けると、蜂蜜色の髪を揺らした少女が、満面の笑みでこちらを覗き込んでいた。
「探したのよ。こんなところにいたのね!」
「見りゃ分かんだろ」
「お昼、一緒に食べましょう!」
「嫌だ」
「即答!?」
「向こう行け。俺なんかに構うな」
「ひどいわ!」
そう言いながらも、リリアンヌはまったく気にした様子がない。
彼女は勝手に隣へ腰を下ろし、膝の上に置いたバスケットを開いた。
「いいお天気だし、ここは落ち着くわね。はい、卵入りのサンドイッチ」
「いらねえ」
「ハムの方がいい?」
「人の話を聞け」
「じゃあ、マスタードたっぷりのやつね!」
「……お前! なんで俺なんかに構うんだよ」
「嫌だった?」
にこにこと笑うリリアンヌを見て、エリックは深いため息をついた。
彼女は、彼がどれだけ邪険に扱っても引き下がらない。
初めて言葉を交わしたのは、たしか入学して間もない頃だった。
当時、彼女は学園の廊下で、エリックが他の生徒と揉めている場面に遭遇した。
原因は、相手の生徒が平民出身の一年生を侮辱したことだった。
エリックは相手の胸ぐらをつかみ、今にも殴りかかろうとしていた。
そこへ割って入ったリリアンヌは、エリックを見上げてこう言ったのだ。
『あなた、手を出す前に先生を呼ぶことはできなかったの?』
『うるせえ。こいつが――』
『事情は分かったわ。でも、あなたが殴ったら、相手は被害者のふりをするかもしれないでしょう? そうなったらあなたが助けたかった方まで、もっと困ることになるわ』
思いがけない言葉だった。
ただ喧嘩をやめろと言われると思っていた。
なのに彼女は、エリックがなぜ怒ったのかを理解し、そのやり方を叱ったのだ。
それ以来、彼女は何かとエリックに構うようになった。
「そういえば、聞いたわよ。昨日、子猫を助けたんですって?」
「……誰から聞いた」
「守衛さん!」
「あのじじい……」
「木の上から降りられなくなっていたんですってね。やっぱり優しいのね、エリックくん」
「違う。うるさく鳴いていたから、追い払おうとしただけだ」
「それで木に登って下ろしあげたの? そのせいで授業に遅れてしまったんでしょ?」
「……」
「ふふっ。ありがとう。エリックくん」
「なんでお前がお礼を言うんだよ」
リリアンヌは、柔らかく微笑んだ。
その笑顔を見ていると、胸の奥が落ち着かなくなる。
エリックは顔を背け、サンドイッチをひったくるように受け取った。
「……食えばいいんだろ」
「うん!」
彼女は嬉しそうに笑った。
♢♢
「エリック、少し話せるか?」
放課後、エリックが訓練場から出てきたところで、兄のクリスが声をかけた。
「なんだよ。説教なら間に合ってる」
「説教ではないよ」
「じゃあ、金でも貸してくれんのか?」
「必要なら貸すよ」
「……冗談だ、真面目に返すな」
クリスは苦笑した。
昔からそうだった。
兄はエリックの皮肉を本気で受け取ることがある。普段から人を疑うことが苦手でだが、弟に対しては優しかった。
「最近、リリアンヌ嬢とよく一緒にいるそうだね」
その名前が出た途端、エリックの顔が険しくなる。
「……それがどうした」
「いや。楽しそうで何よりだと思って」
「別に、あいつが勝手に寄ってくるだけだ」
「そうか」
クリスは少しだけ目を細めた。
「エリック。君は、自分が思っているより立派な人間だよ」
「……は?」
「困っている人を放っておけない。自分が傷つくことには鈍感なのに、他人が傷つくことには敏感だ」
「うるせえ」
「だから、おまえが問題を起こす時は、たいてい誰かを守ろうとしているときだ」
「……知ったような口を利くなよ」
エリックは兄を睨みつけた。
お前は優しい。
兄はいつも俺のことをそう言う。
だが、本当に優しい人間というのは兄のような人のことであることを、エリックは誰よりも知っていた。
幼い頃、エリックは魔法の制御が苦手だった。
いつも兄と比べられ、親からも落ちこぼれと呼ばれ、教師たちにも見放されかけていた。
そんな彼のために、クリスは自分の勉強時間を削って魔法の練習に付き合ってくれた。
エリックが失敗して魔力を暴走させたときも、兄は傷だらけになりながら彼を守った。
そして兄はエリックを責めることなく言った。
『大丈夫だよ。失敗したって、また練習すればいい』
その言葉を、エリックは今でも覚えている。
だからこそ、苦しかった。
兄は優しい。
頭もいい。
努力家で、誰からも好かれる。
そんな兄の隣にいると、自分がどれだけ出来損ないなのかを思い知らされる。
「……お前はいいよな」
気づけば、口から言葉がこぼれていた。
「何でもできて。誰からも好かれて。王子の側近になって、将来は侯爵家も継げる」
「エリック」
「俺は何をやっても、お前には敵わない。頑張っただけ惨めな気持ちになるだけだ」
クリスは黙った。
エリックは笑った。
いつもの、何か諦めた人を寄せつけない笑い方だった。
「だけど、心配すんなよ。俺は俺で適当にやる。お前はお前で、俺のことなんて気にせず、みんなの期待通りの立派な人間になればいい」
「……エリック。本当にそれでいいのか?」
「何が」
「みんなに認められなくても平気なのか? 今みたいに出来損ないって思われて。俺はみんなにもお前の良さを知ってほしい。人一倍傷つきやすくて、自分を犠牲にしても人のために尽くすやつだってことを。」
エリックは答えられなかった。
クリスは静かに続けた。
「僕はね、エリック。お前が僕を嫌っているんじゃないかと思っていた時期があったんだ」
「……は?」
「僕が褒められるたびに、お前は笑わなくなった」
兄の声には少しだけ寂しさが混じっていた。
「でも、今はおまえが僕を嫌っているわけじゃないことくらい、分かっているつもりだ。だけど、最近はどう接すればいいのか正直分からなくなっている」
「……」
「僕はおまえの兄だ。もっと頼ってほしい。もっと真正面からぶつかってきてほしい。本気でやる前から諦めたような顔をしてほしくないんだ」
エリックは唇を噛んだ。
そんなことを言われたら、何も言い返せなくなる。
「……うるせえよ」
それだけ言い残し、エリックは歩き出した。
背中に、兄の視線を感じた。
今はまだ振り返ることはできなかった。
♢♢
学園では、秋の舞踏会が近づいていた。
王立アルカディア魔法学園の舞踏会は、単なる学生行事ではない。
王族や有力貴族の子息令嬢が多数出席する。つまり、そこは将来の婚約者や人脈を繋ぐ社交界の縮図のような社交の場なのだ。
もちろん、今年の舞踏会は王太子レオンハルトだけでなく、側近候補として有力視されているクリスも、注目されている。
舞踏会が近づくにつれて、学園ではダンスのパートナーの座を得ようと、クリスに声をかける令嬢が多くいた。
「クリス様、舞踏会でぜひ私と踊っていただけませんか?」
「もし機会があれば、喜んで」
「まあ、嬉しい!」
廊下では、令嬢たちがクリスを取り囲んでいた。
少し離れた場所でそれを眺めながらエリックは、壁に寄りかかって顔をしかめる。
「……相変わらず、人気者だな。 出来損ないの俺とは大違いだ」
「そうね。素敵な人だもの」
突然、隣から声がした。
リリアンヌだった。
「クリス様は本当にすごいわよね。優しいし、頭もいいし、誰に対しても誠実だし」
「……ああ、そうだろうな」
「エリックくんも、そう思うでしょう?」
「まあな」
それ以上、何も言えなかった。リリアンヌもクリスと踊りたいのだろうか。
リリアンヌは少しだけ視線を落とし、それから顔を上げ、エリックを見つめて言った。
「ねえ、エリックくん」
「なんだよ」
「舞踏会、私と踊ってくれませんか?」
エリックは目を見開いた。
「……は?」
「だから、一緒に踊りましょうって言ってるの」
「お前、兄貴のことは?さっきあんなにほめてたじゃん。一緒に踊りたいんじゃねぇのか?」
口にした瞬間、後悔した。せっかく、俺を誘ってくれているのに兄を思い出させてどうすんだ。
リリアンヌは、困惑したような顔をして、
「……どうして?」
「どうしてって、それは…」
「ええ。クリス様は素敵な方だもの。みんな、誰でも私がさっき言ったようなことを思うわ」
「だったら…」
「でも、クリス様が素晴らしい人だということと私が一緒に踊りたいと思うかはまったく別だわ。私はエリックくんと踊りたいの」
彼女は、まっすぐにエリックを見つめた。
「私は、あなたに、お願いしているのよ」
心臓が、大きく跳ねた。
そんな顔で言われたら。
エリックは、どうしようもなく動揺した。
「……俺は、ダンスなんてまともに踊れねぇよ」
「私が教えてあげるわよ」
「お前……」
「もちろん、エリックくんが嫌なら、無理には誘わないけど」
リリアンヌは少しだけ残念そうに笑った。
エリックは、しばらく何も言えなかった。けれど、リリアンヌが冗談や軽い気持ちで言ったのではないことはわかった。
その気持ちに俺も逃げずにこたえたい。なぜかこの前のクリスの言葉が頭に浮かんできた。
本気でやる前から諦めてほしくない…
やがて、顔を背けながら、ぼそりと答えた。
「……好きにしろ」
「本当?」
「一回しか言わねぇ」
「ありがとう!」
彼女が嬉しそうに笑った。
エリックはその笑顔を見て、覚悟を決めた。
もう逃げない。
♢♢
舞踏会の三日前。
エリックは、放課後の空き教室でダンスの練習をしていた。
「……一、二、三。くそっ、なんでこんなに難しいんだ」
足を踏み出すたびに、拍子がずれる。
相手がいないのだから、余計にやりづらい。
それでも、エリックは諦めなかった。
何度も何度も、リズムに合わせて足を動かす。
汗が額を伝い、息が上がる。
これまでならこんなことは絶対にしない。
馬鹿らしい。
こんなの似合わない。
やっぱり俺はダメだ。
だが、やっぱり、どうしてもリリアンヌに恥をかかせたくない。
そう思い、もう一度。
「……何やってんだ、俺。柄でもないことを…」
自嘲気味に笑った、そのときだった。
「エリックくん?」
振り返ると、扉の前にリリアンヌが立っていた。
「……っ、お前、なんでここに」
「忘れ物を取りに来たの。そしたら……」
彼女の視線が、ダンスのテキストに向いた。
「もしかして、舞踏会の練習してくれてたの?」
「……違う」
「じゃあ、何の練習?」
「……」
「ふふっ。隠さなくてもいいのに」
リリアンヌは嬉しそうに笑った。
エリックは耳まで赤くなった。
「笑うな!」
「ごめんなさい。でも、私、嬉しくて」
「……何がだよ」
「私のために、頑張ってくれてるのかなって」
彼女の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「……別に、お前のためじゃねぇ」
「うん」
「……本当に違うからな」
「うん。分かってるわ」
絶対に分かっていない。
エリックは頭を抱えた。
リリアンヌは、そんな彼の隣に立った。
「ねえ、エリックくん。少しだけ、一緒に踊ってみない?」
「……ば、ばか、まだ踊れねぇよ」
「教えてあげるわ、これでも私、公爵令嬢ですもの、ダンスの成績だって結構いいの」
「自慢すんな」
「ひどい!」
二人は笑った。
リリアンヌが手を差し出す。
エリックは一瞬だけためらい、それから、その手を取った。
彼女の手は温かかった。
ゆっくりとリズムに合わせて足を動かす。
最初はぎこちなかったが、リリアンヌが優しく導いてくれたおかげで、次第に息が合っていった。
「上手になったわね」
「……お前が教えてくれたんだろ」
「それでも、頑張ったのはエリックくんよ」
彼女が笑う。
エリックは、その顔を見つめた。
今なら言えるかもしれない。
ずっと胸の奥にしまい込んでいた言葉を。
「……なあ、リリアンヌ」
「なあに?」
「俺は、」
その瞬間、窓の外で雷が鳴った。
気が付けば、激しい雨が降り始めていた。
リリアンヌは驚いて窓を振り返った。
「まあ、大変。傘を持ってきていないわ」
「……送ってく」
「えっ?」
「寮までだ。濡れて風邪でも引かれたら、面倒だからな」
リリアンヌは、しばらくエリックを見つめていた。
そして、ふわりと微笑んだ。
「ありがとう!」
その言葉に、エリックはまた何も言えなくなった。
一つの傘。
雨音だけが、二人の間に静かに響いていた。
♢♢
舞踏会の前日。
エリックは、図書館の奥で兄と顔を合わせた。
「エリック。ちょうどよかった」
「……なんだよ」
「少し、相談したいことがあるんだ」
クリスは珍しく、困ったような顔をしていた。
エリックは眉をひそめる。
「相談? 珍しいな」
「そうかな」
「大抵のことは自分で解決できるだろ」
「できることと、できないことがあるよ」
兄は静かに微笑んだ。
その表情には、いつもの余裕がなかった。
「リリアンヌ嬢のことなんだけれど」
エリックの心臓が嫌な音を立てた。
「……あいつがどうした」
「おまえは彼女のことが好きなのかい?」
時間が止まったような気がした。
「……は?」
「答えにくい質問だったかな」
「な、何言ってんだ、お前」
「最近のお前を見てて、そうなのかなって感じたんだ」
クリスは苦笑した。
「お前は気付いてないかもしれないけど、彼女の前ではいつもと違う。少しだけ素直になるし・」
「うるせえ」
「…だから、聞きたかったんだ」
兄は、まっすぐにエリックを見た。
「僕も、リリアンヌ嬢のことを少なからずいいと思っている。それに、父上も公爵家令嬢との仲を気にしていた」
エリックは、息を呑んだ。
予想していなかったわけではない。
あれだけ学園でお似合いと噂されている二人なのだ。
兄が彼女に惹かれたとしても、何の不思議もない。
「…そうかよ」
ようやく、それだけを口にした。
「うん」
「じゃあ、告白でも何でも勝手にすればいいだろ。お前なら、どうせうまくいく」
「エリック」
「なんで俺にわざわざ聞くんだよ」
「聞くよ」
クリスの声が、少しだけ強くなった。
「小さい時からお前を見てきたから」
エリックは顔を上げた。
「最近のお前はちょっと変わったんだ。なんか顔つきもだ。心境の変化があったように思う」
「……だったら、最初から諦めてくれよ」
思わず、口が滑った。
クリスは黙った。
エリックは、拳を握りしめていた。
「……悪い」
「いや」
「……俺は」
言葉が続かない。
好きだ。
リリアンヌが好きだ。
だが、それを兄に伝えることが、今の自分ではどうしてもできなかった。
兄は、いつだって自分より優れていた。
恋愛ですら、兄に勝てるとは思えない。
そんな自分が、兄と同じ人を好きになってしまった。
クリスは、しばらく考え込んでいたが、やがて静かに言った。
「エリック。僕は、おまえに譲ってほしいわけじゃない。はじめて見たよ。お前のそんな本気な顔」
「……」
「それに、どちらかを選ぶか、それともどちらも選ばないと決めるのもリリアンヌ嬢の気持ち次第だ」
兄は、真剣な顔に戻って言った。
「だからこそ、おまえにも逃げないでほしいんだ。 もし、リリアンヌ嬢が好きなら、その気持ちに嘘をつかないでほしい。そんな時に俺のためとか家のためとかいう優しさはいらない」
「……誰が逃げるか」
「本当だな?」
エリックはいつも出てくる軽口が一言も出てこなかった。小さくうなずくのが精一杯だ。
クリスは、弟の肩に手を置いた。
「明日の舞踏会で、きちんと彼女と向き合ってほしい。僕もそうするつもりだ」
「……うるせぇ」
「そして、どちらが選ばれても、俺たちの仲は何も変わらないよ」
エリックは顔を背けた。
その言葉は、温かい。
同時に、ひどく残酷でもあった。
兄はこういう時にでも相手を気遣える。優しくて完璧。それがこれまでどんなことでも勝てなかった兄なのだ。
自分がどれほど醜い感情を抱いていても、彼はそれを相手にぶつけることはない。そして、相手にも自分にも公平で正直なひとだ。
恋愛はもちろん勝ち負けではない。兄に勝ったとしても、それで俺の価値があがるわけではない。
だけど、リリアンヌだけには、兄ではなく俺を選んで欲しかった。
♢♢
舞踏会当日。
王立アルカディア魔法学園の大広間は、色とりどりの光に包まれていた。
天井には魔法で作られた星々が浮かび、楽団の奏でる音楽が優雅に響いている。
華やかなドレスを身にまとった令嬢たち。
磨き上げられた礼装に身を包む貴公子たち。
その中で、エリックは居心地の悪さを隠しきれずにいた。
いつもは乱れた制服を着ている彼も、今夜ばかりは正装している。
黒を基調とした礼服に、侯爵家の紋章が刻まれた銀の飾り。
髪も整えられ、普段よりずっと大人びて見えた。
もっとも、本人は不機嫌そうな顔をしていたが。
「……帰りてえ」
「そう言うと思ったよ」
隣に立つクリスが笑った。
彼もまた、見事な礼装姿だった。
銀色の髪に青い瞳。
周囲の令嬢たちが、ちらちらと視線を送っている。
そのときだった。
「お待たせしました!」
澄んだ声が響いた。
二人が振り返る。
そこには、淡い水色のドレスをまとったリリアンヌが立っていた。
蜂蜜色の髪は丁寧に結い上げられ、耳元には小さな真珠の飾りが揺れている。
普段の快活な印象とは違う、息を呑むほど美しい姿だった。
エリックは、言葉を失った。
「……」
「あら? エリックくん、どうしたの?」
「……いや」
「もしかして、変だった?このドレス」
「違う!」
思わず声が大きくなった。
周囲の視線が集まる。
エリックは顔を真っ赤にしながら、慌てて咳払いをした。
「……すごく似合ってる」
小さな声でそう言うと、リリアンヌは一瞬目を丸くし、それから恥ずかしそうに言った。
「……ありがとう」
その様子を見ていたクリスが、静かに微笑んだ。
「リリアンヌ嬢。今夜は、ぜひ僕とダンスを踊っていただけませんか?」
差し出された手。
周囲の令嬢たちが息を呑む。
誰もが、この申し出を当然だと思ったし、リリアンヌもクリスの手をとるだろうと思った。
優秀な侯爵家嫡男と、華やかな公爵令嬢のカップルの誕生の瞬間だろうか。
誰もが固唾を飲んで見守った。
リリアンヌは、クリスを見上げた。
そして彼の手を見て、それから、エリックへ視線を移す。
エリックは、唇を引き結んでいた。
言え。
今度こそ、言え。
そう自分に言い聞かせる。
だが、声が出なかった。
もし、ここで告白して拒まれたら。
もし、彼女が兄を選んだら。
もう、今までのようには笑い合えないかもしれない。
それが怖かった。
リリアンヌは、ゆっくりと口を開いた。
「……申し訳ありません、クリス様」
クリスの瞳が、わずかに揺れた。
「私、今夜はすでに踊る約束をしているんです」
彼女は、エリックの前へ歩み寄った。
そして、そっと手を差し出した。
「エリックくん。ファーストダンスを私と踊っていただけますか?」
大広間が静まり返った。
エリックは、信じられないものを見るように彼女を見つめた。
「……とに、いいのかよ」
情けない声だった。かっこ悪い。リリアンヌから言わせてしまった。
けれど、今さら取り繕うことはできない。
リリアンヌは微笑んで、迷うことなく、
「はい」
胸が、痛いほど熱くなった。
エリックは、震える指先で彼女の手を取った。
「……後悔しても知らねぇぞ」
「後悔なんてしないわ」
静かに離れるクリスに令嬢達が群がってついていく。
エリックはリリアンヌの手をとり、ダンスホール中央へ進み出た。
二人は、楽団の奏でる音楽が始まると練習の時を思い出す。
「アンドゥ・・・」
最初はぎこちなかった足取りも、少しずつ滑らかになっていく。
リリアンヌが微笑む。
エリックも、不器用ながら笑い返した。
その光景を、クリスは少し離れた場所から静かに見つめていた。
胸の奥が痛まないわけではなかった。クリスもリリアンヌが好きだったのだ。
それでも、弟があんな顔で笑うのを見たのはいつ以来だろう。
クリスは小さく息を吐き、二人から目を逸らした。
「……まったく。…おめでとう」
その声は、誰にも届いてはいなかった。
♢♢
ダンスを一通り終えた後、エリックは、リリアンヌを連れてテラスへ出た。
夜風がダンスで熱った頬を撫でる。
「……今日は、来てくれてありがとう。 こういうの苦手なのにね」
リリアンヌが言った。
「別に。……約束だったからな」
「ふふっ。そうね、あなたは絶対に約束は守ってくれる人だったわ」
二人の間に、静かな沈黙が落ちる。
「・・っと」
エリックは、何度も言葉を探した。
今度こそ、自分が告白したかった。リリアンヌに先に言わせたくなかった。
「……リリアンヌ」
「なあに?」
「俺は、お前が好きだ」
ついに言ってしまった。
心臓が、壊れそうなほど激しく鳴っている。
「……っとは、だいぶ前から、好き、だった」
リリアンヌは、驚いたように目を見開いた。
エリックは、ぎゅっと拳を握る。
「でも、俺は兄貴みたいに何でもできるわけじゃねえ。成績だって悪いし、教師には怒られてばかりだ。貴族としても優秀な人間かって聞かれたら、胸張って答えられねぇ」
「エリックくん……」
「だから、お前みたいな優秀な人間には、きっと兄貴のようなタイプがお似合いなんだろうって。俺なんかじゃ太刀打ちできないって。身分不相応に告白して、振られて、今みたいに気楽に話しかけてもらえる関係壊すくらいなら、気持ちなんか伝えない方がいいって思ってた」
言葉にすると、情けなかった。
自分がどれほど臆病だったのか、思い知らされる。
「……でも、もう嫌だ」
エリックは顔を上げた。
「お前が兄貴の隣で笑ってんのを見て、苦しくなるのを無理やり何でもないよう顔して過ごす未来を想像するだけで苦しくてたまらなくなった。これまでどんなことでも、兄貴に負けてもヘラヘラ笑っていられたけど、お前を諦めることだけは無理だ」
金色の瞳が、真っ直ぐにリリアンヌを捉える。
「俺は、どんだけ頑張っても兄貴みたいにはなれねえ。全然器用じゃないし、これから先も、いろんなことで躓くだろう。失敗して迷惑かけてしまうかもしれない」
それでも。
「……お前が好きだ。一生大事にする。お前を裏切るようなことは絶対しない。だから、誰かと比べるんじゃなくて、俺を、俺として見てほしい」
言い終えた瞬間、胸の奥にあった重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。
返事を待つ時間は、永遠のように長かった。
リリアンヌが一歩近づいた。
「……どうして?」
「……は?」
「どうして、そんなに自分を悪く言うの?」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
「あなたは、いつもそう。自分のことになると、すぐに自分なんてどうせって何もかも諦めてしまう」
「……」
「私があなたと一緒にいたいと思ったのは、あなたが好きだからよ」
リリアンヌは、エリックの手を取った。
「あなたが、困っている人を見捨てられない人だから。自分が怒られても、誰かを守ろうとする人だから」
彼女は微笑んだ。
「それに、私が転びそうになったとき、誰よりも早く手を伸ばしてくれた。
あの雨の日に自分の肩をびしょ濡れにしながら私が濡れないように傘を差し掛けてくれて寮まで送ってくれた」
「……あれは」
「猫を助けたことも知っているわ」
「……それはもういいだろ!」
リリアンヌは、くすくすと笑った。
そして、真剣な表情でエリックを見つめた。
「私が好きになったのはあなたのそういうところよ」
エリックは、息を止めた。
「……俺でいいのか?」
「ええ」
「……兄貴じゃなくて?」
「クリス様は、とても素敵な方よ。もちろん尊敬もしているわ。きっとクリス様の方が素敵だと思う方もたくさんいるでしょうね」
彼女は、少しだけ困ったように笑った。
「でも、私が恋をしているのは、あなたなの」
エリックの目が見開かれた。
信じられなかった。
ずっと欲しかった言葉だった。
自分には手が届かないと思っていた少女が、今、自分の手を握っている。
「……お、お前、見る目ねぇな」
やっと出たのはそんな言葉だった。
リリアンヌは笑った。
「そうかもしれないわね」
「そこは否定しろよ」
「嫌よ。でも一生後悔しない自信はあるわ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
やがてリリアンヌは、少し背伸びをして、エリックの頬にそっと口づけた。
「これからも、よろしくね。エリックくん」
エリックは、真っ赤になった顔を片手で覆った。
「……お前、本当に、そういうところだぞ」
「どういうところ?」
「そういうことは、俺に先にやらせてくれよ。……もう、ダンスも誘えず、キスまでも。俺、かっこ悪いじゃねぇか」
夜空には、星が瞬いていた。
その光の下で、二人は初めて、恋人として手をつないだ。
♢♢
翌朝。
エリックは、校舎の廊下で兄と顔を合わせた。
「……おはよう」
クリスがいつもと何一つ変わらない微笑を浮かべている。
「……おう」
俺は気まずかった。
彼女が自分を選んでくれた。
あの後、兄がどんな気持ちで過ごしたのか、考えると胸が痛んだ。
「……兄貴」
「うん?」
「……なんか悪かった」
クリスは目を瞬いた。
「何が?」
「……いろいろだよ」
うまく説明できない。
自分のほうが彼女に選ばれたことも。
ずっと兄に劣等感を抱いて勝手に変な壁をしまっていたことも。
そんな感情を持ちながら、兄のことを嫌いになれなかったことも。
そんな俺をずっと変わらず優しく接してくれていたことも。
全部、申し訳なかった。
クリスは、しばらく弟を見つめていた。
それから、いつものように柔らかく笑った。
「エリック。僕はおまえの兄だよ」
「……ああ」
「おまえの幸せは僕の幸せだ」
「……なんだそれ」
「もちろん。本音をいえば、少しだけ悔しいけれどね」
クリスは苦笑した。
「僕だって、彼女に選ばれたかったから」
エリックは、何も言えなかった。
「でも、恋愛は成績表じゃない。どれだけ優秀でも、それだけで選ばれるわけじゃないからね」
兄は窓の外を見た。
中庭では、リリアンヌが友人たちと笑っていた。
その姿を見つめながら、クリスは静かに言った。
「僕は、これからもおまえの兄だ。君が何を選んでも、どんな道に進んでもね」
エリックは、俯いた。
喉の奥が熱くなった。
「……ありがと。いつも素直じゃなくてごめん」
それは、長い間、言えなかった言葉だった。
クリスは驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに笑った。
「どういたしまして」
そのとき、廊下の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
「エリックくーん!」
リリアンヌが、手を振りながら駆け寄ってくる。
「今日のお昼、一緒に食べましょう!」
「……またかよ」
「嫌なの?」
「……別に」
リリアンヌは満面の笑みを浮かべた。
エリックは、照れ隠しに顔を背ける。
その様子を見て、クリスがくすりと笑った。
「エリック」
「……なんだよ」
「素直になるんだろ」
♢♢
それから一か月。
エリック・・アーデルハイトは、相変わらず学園の問題児だった。
授業には遅刻するし、教師には怒られるし、制服の着方も相変わらずだ。
ただし、一つだけ変わったことがある。
「エリックくん! 今日の放課後、図書館で一緒に勉強しない?」
「……は?」
「この次の魔法理論、小テストがあるでしょう?」
「…行かねぇぞ」
「ええっ!?」
「……」
「じゃあ、私があなたの部屋まで迎えに行ってあげるわ。それならいいでしょう?」
「待て待て待て! なんでそうなる!」
廊下に、いつもの騒がしいやり取りが響く。
通りかかった生徒たちが、微笑ましそうに二人を眺めていた。
その少し離れた場所で、クリスが苦笑する。
「……本当に、お似合いだな」
エリックは、かつて兄の背中ばかりを見ていた。
兄のようになれない自分を恥じ、兄と比べられることを恐れ、何もかもを諦めていた。
けれど、今は違う。
自分には自分の道がある。
成績で兄に勝てなくてもいい。
王子の側近候補になれなくてもいい。
誰かに認められるために、兄のようになる必要はない。
自分が自分らしくあること。
そして、大切な人を大切にすること。
それだけは、誰にも譲りたくなかった。
「……分かったよ」
エリックは、諦めたようにため息をついた。
「放課後、図書館な」
「本当!? 約束よ!」
リリアンヌが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、エリックも小さく笑った。
彼女の手が、そっと自分の手に触れる。
誰かに見られたら、きっとからかわれるだろう。
けれど、もう気にしなかった。
「……なあ、リリアンヌ」
「なあに?」
「俺、いつかお前にふさわしい男になれると思うか?」
リリアンヌは、きょとんとした顔をした。
それから、少しだけ怒ったように眉を寄せる。
「エリックくん」
「……なんだよ」
「私は、今のあなたが好きなの」
彼女は、彼の手をぎゅっと握った。
「だから、無理に誰かみたいにならなくていいのよ」
エリックは、目を見開いた。
胸の奥が、温かくなる。
「……そっか」
「ええ!」
「……じゃあ、まぁ、今のままでいいか」
「そうよ!でもテスト勉強は頑張りましょうね」
リリアンヌは、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、エリックは思った。
ああ、敵わない。
きっとこれからも、彼女には敵わないだろう。
明るくて、優しくて、少しお節介で。
そして、誰よりも自分を見てくれる人。
彼女が好きだ。
どうしようもないくらい、好きだ。
「……リリアンヌ」
「なあに?」
「好きだ」
彼女は、驚いたように目を見開いた。
それから、頬を赤く染めて笑った。
「知ってる。私も、好きよ!」
廊下の窓から、秋の風が吹き込んだ。
遠くで鐘が鳴る。
王立アルカディア魔法学園の一日は、今日も変わらず始まっていく。
優等生の兄と、不良の弟。
そして、二人の運命を変えた一人の公爵令嬢。
彼らの恋は、まだ始まったばかりだ。
きっとこれからも、喧嘩をして、すれ違って、笑い合って。
時には兄に嫉妬し、時には自分の不器用さに頭を抱えながら。
それでも、エリックはもう逃げない。
彼女が選んでくれた、自分自身の人生を歩いていく。
その隣には、いつも明るい笑顔がある
そして少し離れた場所には、頼もしくて、優しくて、やっぱり少しだけ悔しい兄がいる。
――侯爵家の問題児、エリック・アーデルハイト。
彼の学園生活は、これからますます騒がしくなりそうだった。
おしまい。




