孤高の少女
景色を眺めるのは好きだ。
高校、昼休み。私は、屋上で今日もひとり黄昏れ、眼下に広がる街の景色を眺めていた。初夏の風が吹き抜け、少しだけ火照った頬を撫でていく。
私は普段、学校ではあまり人と絡まず、こうしてひとりで過ごすことが多い。教室の喧騒も、女子特有のグループ交際も、私にはひどく窮屈に感じられるのだ。表情も基本的に無表情だし、クラスメイトからはよく「近寄りがたい」とか「いわゆるクール系」だとかヒソヒソと言われているのを知っている。
けれど、ひとりでいるのは別に平気だし、強がりでもなんでもなく、むしろ孤高を愛するのが、私、夢壄アキという人間なのだ。
しかし、そんな私だが、この高校で唯一心を許した人がいる。
「アキ、おまたせ」
背後から、のんびりとした間延びした声が聞こえた。
振り向くと、そこにはいつもの阿奈多童陣が立っていた。少し寝癖のついた柔らかそうな髪に、どこかぽやんとした目元。優しげな笑み。
そう、この阿奈多こそが、私が認めた唯一の友達であり──しかも異性。
彼と知り合ったのは高一の去年。いつものように屋上のフェンスにもたれかかり、こうしてひとり黄昏ていたら、ギィッと重い扉を開けて、彼がふらりとやってきたのだ。
『あれ、二組の夢壄さんだよね? どうしたの? こんな所で?』
それが、彼からかけられた初めての言葉だった。
あとから話を聞くと、彼は昼休み、たまにこうしてあてもなく学校中を散策しているとのことだった。そこで偶然、屋上にいる私と鉢合わせたらしい。
正直、男子に一方的に話しかけられることはこれまでの人生でもよくあった。だが、大概は付き合ってくれだとか、連絡先を教えてくれだとか、そういうあからさまな下心ありきのものばかりだ。だから最初彼に話しかけられた時も、「なんだこいつ」と思い、適当に冷たくあしらって流した。
しかし、彼は他の男子とは違っていた。拒絶されても気にする風でもなく、「そっか、ここは風が気持ちいいもんね」とひとりで納得し、少し離れたところでぼんやりと空を眺め始めた。彼からは、独特のマイナスイオンのような、不思議な空気が放たれているみたいで、不思議と嫌な感じはしなかった。
学年も一緒らしく、その時に一応名前とクラスは訊いていたので、その後、ほんとうに気まぐれに彼について少し調べてみた。二組の生徒から聞いた話だと、「阿奈多? ああ、なんだか常にふんわりとした雰囲気を身にまとってる、不思議なやつだよ」とのことだった。
屋上で彼のマイナスイオンを身に受けたことを思い出し、私は俄然、阿奈多童陣という男に興味が湧いた。ちらりと彼のいる二組を覗きに行った時、私は彼を見つけた。
彼は何人かの男子に囲まれ、楽しげに笑いながら話していた。どうやら、クラスの中心人物として場を取り仕切っている訳でもなく、かといって隅っこでひっそりとしている陰キャタイプでもなく、その中間くらいの絶妙な立ち位置にいるらしい。
観察していてわかった事だが、彼は誰にでも平等に接し、そこに下心も、見栄も、悪意も微塵もないようだった。
その後、彼はたまにだが昼休みに屋上にやってくるようになった。しかし、ぐいぐいと私のテリトリーに踏み込んで来る訳でもなく、ただ「やあ、アキ」と挨拶をするだけだった。その飄々とした態度や彼独自の空気が気に入り、気づけば私の方からたまに話しかけるようになり、やがて少しづつだが他愛もない会話をするようになっていった。
もちろん普段から校内で、他の生徒の目があるところで絡む訳ではない。それは私のキャラではないし、変な勘違いをされても面倒くさいからだ。とはいえ、最近はこうして阿奈多とふたり、屋上の隅で一緒にご飯を食べたり、なんてことのない会話をして過ごすことが多くなった。
今ではすっかり友達となり、去年からずっとこの奇妙な交友を続けている。
「……きょうは遅くなかった?」
彼の顔を見て、一瞬ぱあっとなりそうになる心を急いで制し、すぐシュンといつもの無表情を作ってそう尋ねた。
「ごめんごめん、ちょっとコンビニ寄っててさ」
阿奈多はふふっと笑いながら、手に持っていた見慣れない銀色の保温バックを掲げてみせた。
「アキ、君が好きそうなもの買ってきたんだよ。君、辛いの、好きだったよね?」
そう言いながら、阿奈多は保温バックのジッパーをジリジリと開けていく。
「これ、前、激辛好きの友達にあげたらすごい気に入ってくれてたんだよねぇ。食べたあと、美味しすぎたのか何も言えず真っ白になってたんだよ」
……真っ白? 美味しすぎて?
なんだと思っていると、阿奈多がバックの中から取り出したのは、赤と黒の禍々しいパッケージに<極激辛MAX>と毒々しいフォントで書かれたカップ焼きそばだった。
私はそれを見て、ピシッと全身が固まり、文字通り凍りついた。
その商品は、有名なのでもちろん知っている。ネット上でも「カップ焼きそば史上最強の辛さ」「もはや兵器」と言われていて、数々の自称激辛好きの猛者たちが挑戦するも、次々に撃沈していったという伝説の代物だ。
「コンビニのお湯で作ってきたばかりだから、まだ熱々だよ」
阿奈多は無邪気に、太陽のような笑顔で笑った。湯気がわずかにパッケージの隙間から立ち上り、鼻を刺すようなカプサイシンの香りがすでに漂ってきている。
いやいや、阿奈多……! その友達が真っ白になった理由、絶対辛すぎて燃え尽きただけだから……!
そう全力でツッコミを入れようとしたが、喉がひきつって声が出ない。
辛いのは確かに好きだ。タバスコだって普通の人よりはかけるし、麻婆豆腐も激辛を好んで食べる。だが、流石にこれは本能的に危険を感じて、挑戦する気になどなれなかった。パッケージを見ているだけで胃がキュッとなる。
「じゃあアキ、食べていいよ。はい、お箸」
阿奈多が微笑みながら、綺麗に割った割り箸を差し出してくる。
彼は私が激辛好きだと知ってから、こうしてよくコンビニやスーパーで珍しい激辛商品を探しては、わざわざ買ってきてくれるのだ。その純粋な優しさを無下に出来るはずもなく、私は震える手で箸を受け取った。
「……い、いただきます」
意を決して、赤黒いソースがべったりと絡まった麺をひとつかみし、口へと運ぶ。
「…………っっっっ!?」
口の中に入れた瞬間はソースの甘味を感じた気がしたが。
次の瞬間。
口内に爆竹を投げ込まれたかのような暴力的な痛みが弾けた。
辛いのではない、痛い。舌が焼け焦げる。
喉の粘膜。炎に包まれたかのように熱い。
「がっ……かはっ、ごほっ! む、無理ぃ……!」
私はあまりの刺激に死にそうになり、持っていた箸を放り出して口元を押さえた。涙がボロボロと溢れ出し、鼻水まで出てくる。全身の毛穴という毛穴から一瞬にして汗が噴き出した。流石にこれは無理だ。
一口で完全なるギブアップ。
「アキ!? 大丈夫!?」
私が悶絶しているのを見て、阿奈多が慌ててカバンをごそごそと漁り始めた。
「はい、これ! ストローさしたから!」
手渡されたのは、ストローが刺さったパックの牛乳だった。私は震える手でそれを受け取ると、即座にちゅうちゅうと勢いよく飲み干した。冷たくてまろやかな牛乳が、焼け野原になった口の中を少しだけ鎮火していく。
「ぷはぁっ……! 阿奈多、これ辛すぎだって! 殺す気っ!? 味覚ぶっ壊れるわっ!」
涙目でぜえぜえと息を切らしながら、私は彼をキッと睨みつけて文句を言う。
「あはは、ちょっと辛かった? ごめんね、ほんとごめん」
阿奈多は眉を下げて、本当に申し訳なさそうに私の背中をさすってくれた。
自分を本気で心配してくれる彼のその態度に、私の心臓が不意にどきりとしてしまう。彼の瞳には私をからかおうとする色など微塵もなく、ただ純粋に、辛いのが好きな私に激辛焼きそばを差し入れて喜ばせようとしてくれた事だけが伝わってくるからだ。
……だめだ、彼のこの雰囲気の前では、これ以上文句を言えなくなる。
阿奈多の前だと、普段のクールで孤高な自分はどこかへ行ってしまい、ただの乙女になってしまう気がする。こんな顔を真っ赤にして涙目になっているみっともない姿なんて、クラスメイトや他の生徒には絶対に見せられない。
「……べ、別にいいよ。私が激辛好きって言ったんだし」
私は照れ隠しにそっぽを向きながら、空になった牛乳パックを握りしめた。
「阿奈多、他のないの? 口の中、まだヒリヒリするんだけど」
「あ、いちごサンドもあるよ。激辛のあとの口直しにいいかなと思って、一緒に買ってたんだ。はい」
そう言って、彼がコンビニ袋から取り出したのは、ホイップクリームと真っ赤ないちごがたっぷり挟まったサンドイッチだった。
「……ありがと」
私は小さな声で言い、それを受け取る。
ふたつ入りのサンドイッチのパッケージを開け、ひとつを取り出してかじりついた。
「ん……!」
たっぷり入った甘いクリームといちごの爽やかな酸味が、暴行を受けた口内を優しく癒していく。甘さが沁み渡り、ささくれ立っていた心が落ち着きを取り戻していった。
私はサンドイッチをモグモグと食べながら、ふとイタズラな考えを思いつき、にやりと笑って阿奈多を見た。
「ねえ阿奈多、その焼きそば食べなよ。私も一口食べたんだからさ。それに、残したらもったいないでしょ?」
私がこれだけ苦しんだのだ。彼にも同じ苦しみを味わってもらわなければ割に合わない。
「そうだね、もったいないし、僕が責任もって食べるね」
阿奈多はなんの躊躇いもなく頷くと、私が放り出したのとは別の予備の割り箸を割り、赤い麺をごっそりと持ち上げた。
「いただきまーす」
ズズッ、ズズズッ。
彼は勢いよくその禍々しい麺をすすり始めた。
私は心の中でくくく、とほくそ笑む。
さあ、君がどう反応するのかが見ものだ。一口食べた瞬間に辛さで悶絶してのたうち回るのか、それとも涙目になって助けを求めてくるのか。
もし、「アキ、辛いよぉ、助けて」ともうひとつのこのいちごサンドを涙目で求められても、絶対にあげてやらないんだから。
ワクワクしながら彼の様子を観察する。
だが。
「うーん、美味しい。やっぱり焼きそばは太麺がいいよね」
「…………は?」
阿奈多は、まるで普通のソース焼きそばでも食べているかのように、平然と食べ進めている。むせることもなく、顔を赤くすることもなく。
「え? どうしたの、アキ」
私がぎょっとして目を見開いていると、彼はぽかんとした顔でこちらを見た。そしてそのまま、ズズッと二口目、三口目と食べ進めていく。
彼を見て、私は思わず呆れたように呟いた。
「阿奈多、君の味覚はどうなってるんだ……」
ひとつめのいちごサンドを食べ終わったあと、私は信じられないものを見る目で彼に尋ねた。
「ねえ、普段からそんな激辛のやつ食べてるの? マイバスケットのハバネロとか常備してるとか?」
「いや、あんまり食べないけど……。うちの家族、みんな辛いの苦手だから、食卓に出るカレーもいつも甘口だし」
そう言いながら、阿奈多は相変わらず平然と焼きそばを食べ進め、あっという間にもう半分がなくなっている。
私はパッケージに残ったもうひとつのいちごサンドを取り出してかじりながら、彼をジト目で見つめた。
この男、やっぱりどこかおかしいのではないのか……?
あの致死量の辛さを「美味しい」の一言で片付けるなんて、人間を辞めているとしか思えない。
しかし、施しを受けてばかりでは、私の孤高のプライドが許さない。
「はい、これ、お返しにあげるよ」
私は自分のお弁当と一緒に飲もうと思って買っておいた、アーモンドミルクの紙パックを彼に差し出した。
「わあ、ありがとう、アキ」
阿奈多は嬉しそうに目を細め、それを受け取った。ストローを刺し、美味しそうにチューッと吸い込む。
やがて彼も狂気の焼きそばを完食し、お互いにご飯を食べ終え、いつものようにふたりで並んでフェンス越しに景色を眺める時間がやってきた。
アーモンドミルクを飲んでいる阿奈多の横顔をじっと見つめる。
「……本当に何ともないの? それ、めちゃくちゃ辛かったんだけど……。もしかして、私の前だからって無理してたんじゃない?」
私は少しにやにやしながら、彼の強がりを暴いてやろうと意地悪く聞いてみた。
しかし彼は、ストローから口を離すと、きょとんとして首を傾げた。
「ん? 別に無理してないけど……? そんなに辛かったかなぁ……? 普通に美味しかったよ、あれ」
何とも言えない表情で、私は彼をまじまじと見つめる。
阿奈多の顔は本当に平気そうにしているし、額に汗ひとつかいていないし、唇が腫れている様子もない。
嘘じゃない、こいつ、本当に平気なんだ。
「どしたの? アキ」
黙り込んでしまった私を不思議に思ったのか、阿奈多が少し屈み込むようにしてこちらを覗き込んできた。ふわりと、彼特有の穏やかな空気が鼻先を掠める。
「……なんでもない」
私はぷいっとそっぽを向き、遠くのビル群に視線を投げた。
「次はもう少し辛さ控えめで、お願い」
「わかったよ、アキ。今度はちゃんとアキも美味しく食べられるやつ探してくるね」
彼ののんびりとした優しい声を聞き流し、私は目の前の景色に向き直る。
屋上。心地よい静寂が訪れる。
……しかし。
あの激辛焼きそばを一口でギブアップし、食べきれなかったこと。そして、さらに目の前のこののほほんとした男に平然と完食されてしまったことは、激辛好きを自称する者としてはとてつもなく敗北した気分になる。
……なんだかすごく、悔しい。
私は再び彼の方へと向き直り、
「やっぱり、さっきの獄激辛MAX、また買ってきてよ」
「えっ? 大丈夫なの? さっきあんなに涙目になってたのに……」
阿奈多は本気で心配そうな顔をして、私の顔を覗き込む。
「大丈夫大丈夫! 次は絶対、完食してみせるから!」
わざと強気に、胸を張って言ってみせた。
「そっか。アキがそういうなら……。でも、また無理そうだったら、僕が食べるからね。無理はしちゃ駄目だよ?」
阿奈多はふわりと微笑み、再び前を向いてアーモンドミルクを飲み始めた。
私はそんな阿奈多の横顔を見て、ふっと小さく笑う。
また前を向いた。
再び、柔らかな静寂がふたりの間に降りてくる。
普通なら、会話が途切れると気まずくなったり、話題を探して焦ったりするものだ。だが、阿奈多は無理やり会話を続けてくることもないし、こうして沈黙が訪れても全く気まずくない。
むしろ、彼の放つふんわりとしたマイナスイオンの空気にすっぽりと覆われているようで、とてつもなく安心する。
もしかして、あの狂気的な焼きそばの辛さすら、彼のこのオーラで相殺してしまっているのではないだろうか? そんな馬鹿げた考えすら浮かんでくる。
この阿奈多童陣という男は、ゆるりとしているようだが、やっぱりどこかおかしくて不思議なやつだ。
でも、そんな彼と一緒にいるこの静かな時間が、私はどうしようもなく好きなのだ。




