第59話 下層の拠点
小屋の前に人が残るようになると、朝だけではなくなった。
昼にも誰かが来る。夕方にも誰かが覗く。仕事が欲しい者だけではない。荷が詰まった店の使い、揉め事を避けたい商人、昨日ここで働いた者の知り合い。用件はばらばらだったが、向かう先だけは同じだった。
市場裏の小屋。
正式な看板はない。誰かが許可を出した場所でもない。壁は古く、裏手には荷車と板と縄が並び、前には半端な人間が立っているだけだ。だが、その何でもない場所へ、少しずつ人の流れが向き始めていた。
「また来た」
ミラが戸口にもたれて笑った。
通りの向こうから、小柄な商人の使いが早足で近づいてくる。両手を胸の前で揉むようにしながら、小屋の前で立ち止まった。
「ガルドさんはいるか」
「さん付けすんな」
ガルドが不機嫌そうに振り向く。
「西の酒場裏で荷が詰まってる。人足頭が捕まらなくて、半刻だけでも回せないかって」
エルンはすぐに帳面を開いた。
「場所、荷の量、支払い」
「え?」
「順に言ってください。曖昧では受けられません」
使いは戸惑いながらも答えた。前なら、こういう話はその場の勢いで受けていたかもしれない。だが今は違う。帳面に書く。どこからどこへ、何をどれだけ、誰を何人回すのか。まだ粗いが、形はできつつあった。
「トル、数を見ろ。セナは縄。ニグ、裏手から短い板を持ってこい」
ガルドが声を出す。
トルは一拍遅れて頷き、セナは人の顔色を気にしながらも縄へ向かった。ニグは何も言わず、壁際から離れて裏手へ回る。
その動きに、使いが少し目を丸くした。
「ここ、こんなに人いたのか」
「いるだけだ」
ガルドはぶっきらぼうに言う。
「使えるかは別だ」
ミラが笑った。
「でも、回る時は回るよ」
その言葉どおり、半刻後には荷車が一台出ていった。きれいな仕事ではない。声は荒いし、動きも遅い。だが、止まらなかった。トルが数を合わせ、セナが縄を運び、ニグが足りない板を持ってくる。ドグが置き方を直し、エルンが支払いを記録し、ガルドが前に立って揉めそうなところを止める。ミラは使いに余計な不安を抱かせないよう、軽い調子で話を繋いでいた。
カイルは少し離れたところから、それを見ていた。
人が集まるだけではなかった。
困り事が、ここへ持ち込まれ始めている。
昼過ぎには、別の男が来た。今度は仕事ではなかった。
「昨日、ここで働いた若いの、戻ってないか」
ガルドが眉を寄せる。
「誰だよ」
「背の高い、頬に傷のある奴だ。南の路地で見たって聞いて、こっちにも顔出してるかと思って」
人探し。そういう話まで来るのか、とエルンは嫌そうな顔をした。
「ここは人探しの詰所ではありません」
「分かってる。ただ、ここなら誰か見てるかと思って」
その言い方に、ミラが小さく笑った。
「まあ、見る人間は増えたね」
リノが戸口の脇で顔を上げた。
「……昨日、夕方」
全員がそちらを見る。
「西の壁の方。歩いてた。足、引きずってた」
男は少し息を飲んだ。
「本当か」
「……たぶん」
たぶん、でも足りることがある。男は短く礼を言い、通りの向こうへ走っていった。
エルンは帳面を閉じかけて、少し迷ったあと、余白に小さく書いた。
「人探しまで記録するんですか」
カイルが聞くと、エルンは渋い顔をした。
「後でまた聞かれる可能性があります」
「面倒ですね」
「面倒です」
そう言いながら、エルンは書いた。
夕方が近づく頃、小屋の前には今日の仕事を終えた者が数人残っていた。すぐ帰る者もいる。明日の仕事を聞こうとする者もいる。ただ壁際に座り、しばらく黙っている者もいる。誰かがそれを追い払うことはなかった。邪魔をすればガルドが怒る。だが、ただいるだけなら、もう誰も強く言わない。
セナは縄を戻したあと、戸口の近くに座っていた。リノとは少し距離を置いているが、同じ方を見ている。トルは袋の数を数え直していた。頼まれてはいない。ただ、間違えないことだけが自分の置き場所だと分かり始めているのかもしれない。ニグは壁際で銀貨を握り、黙って通りを見ていた。
「溜まり場みたいになってきたねえ」
ミラが言う。
「嫌な言い方をしないでください」
エルンが返す。
「でも、違う?」
「違いませんが」
ガルドは小屋の前に立ち、通りを眺めていた。
「店でも組合でもねぇのにな」
「だから来やすいんだよ」
ミラは軽く言った。
「店なら買わなきゃいけない。組合なら入れない奴もいる。でもここは、仕事があるか聞くだけならできる」
カイルはその言葉を聞きながら、小屋の前に残る人影を見た。
正式な場所ではない。
だから弱い。
だが、正式ではないからこそ、下層の人間は足を向けやすい。
困った時に顔を出す場所。
仕事が欲しい時に立つ場所。
誰かの行方を聞く場所。
噂が少しだけ集まり、荷と人が少しだけ動く場所。
それは、まだ街全体を動かすようなものではない。
けれど、市場裏の下層にとっては、もう何もない場所ではなかった。
「……増えましたね」
カイルが小さく言う。
エルンが帳面から目を上げる。
「人がですか」
「それだけではなく」
言い切る前に、ガルドが通りの向こうへ声を飛ばした。
「邪魔するならどけ。仕事が欲しいなら言え。」
新しく来た若いのが、びくりとして足を止めた。それから、おずおずと小屋の前へ近づいてくる。
ミラが笑い、エルンが帳面を開く。ドグは裏手の荷車を見に行き、リノはその若いのの足元を見た。
カイルは黙って、一歩だけ後ろへ下がった。
小屋の前に、人の流れができている。
それはもう、偶然集まっただけではなかった。
市場裏の一角に、下層の人間が困った時に向かう場所ができ始めていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
続きが気になる方は
ブックマークしていただけると嬉しいです。
評価ポイントも励みになります!




