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第20話 存在しない支配者

 崩れた、という噂が先に広がった。


 市場裏を仕切っていた三人組が、荷受け場で大声を上げたらしい。

 取り分を巡って仲間割れしたとか、倉庫番に怒鳴り返されたとか、話はそのたび形を変えた。けれど一つだけ、どの噂にも共通していることがあった。


 もう、あいつらに従わなくてもいいかもしれない。


 その空気だった。


 翌朝、市場裏に入ったとき、前と同じ景色なのに、流れだけが違っていた。

 荷はある。

 人もいる。

 だが、荷受け場の前にいた運び手たちは、誰の顔色を窺うでもなく、思い思いに声をかけ合っていた。


 昨日までそこにあった妙な緊張が、薄い。


「……終わったな」

 ガルドが短く言った。


 完全に、ではない。

 だが、支配は切れていた。


 市場裏の小口は、誰か一人が命じて回るものではなかった。

 だからこそ、一度“従う理由”が消えれば、戻らない。


 ミラは周囲を見回し、小さく肩をすくめる。

「思ったより早かったね。もう少し揉めるかと思った」


「当然です」

 エルンは帳面を開きながら言った。

「恐怖と慣習で維持されていた構造は、利得が減った瞬間に脆くなる。内部不信が始まった時点で、継続は困難でした」


 ガルドは鼻を鳴らした。

「言い方はともかく、まあそういうことだな」


 誰も戦っていない。

 殴ってもいない。

 それなのに終わった。


 その事実が、まだ少しだけ場に馴染んでいなかった。


 荷受け場の倉庫番が、こちらを見つけて手を上げる。

「おい、そこの兄ちゃん」


 呼ばれたのは、当然のようにガルドだった。


「朝一の樽三つ、先に回せるか?」

「できる」

「話が早くて助かる」


 倉庫番はそう言って、荷札を放った。

 エルンが受け取り、ミラが受け渡し先を確認し、ガルドが樽へ向かう。


 カイルは少し遅れて、その後ろについた。


 もう誰も、順番を疑わない。


 前に立つのはガルド。

 計るのはエルン。

 繋ぐのはミラ。

 自分は、そこに混ざっているだけ。


 市場裏を抜ける途中、運び手の一人がガルドに声をかけた。

「昨日のあれ、見てたぜ」

「何をだ」

「あいつら。すっかり小さくなっちまってた」


 ガルドは樽を担いだまま、面倒そうに答える。

「勝手に揉めてただけだろ」


「それでもだよ」

 運び手は笑った。

「最近、あんたらが別口を拾い始めてから空気が変わった。面倒なのに従わなくていいって分かった。助かったやつ、多いと思うぜ」


 それは称賛だった。


 だが向けられているのは、あくまでガルドだ。


「……知らねぇよ」

 ガルドはぶっきらぼうに返したが、少しだけ歩幅が広くなった。


 昼前には、もう別の商人が話を持ってきた。

「次からも頼めるか?」

「日による」

「報酬は出す。遅れず、揉めずに回せるなら十分だ」


 話はガルドを中心に進み、最後にエルンが条件を詰め、ミラが次回の繋ぎを作る。


 誰もカイルには聞かない。

 いて当たり前の雑用係。

 気にするほどではない一人。


 だが、荷の積み方を少し変えたのも、

 誰に先に声をかけるか、視線の向きが自然に揃うよう調整したのも、

 受け取りの言葉が荒くならない場所に立ったのも、

 全部、カイルだった。


 誰にも知られないまま。


 夕方、仕事が一段落すると、四人は市場外れの古びた壁際に腰を下ろした。

 いつものように報酬を分ける。


「今日は多かったな」

 ガルドが銀貨を鳴らす。


「当然です」

 エルンが言う。

「無駄な中抜きが減った。流れが改善した結果です」


「言い方が冷たいなあ」

 ミラが笑う。

「もっとこう、勝ったー、とかないの?」


「ありません。事実を述べただけです」


 ガルドが小さく笑った。

 ほんのわずかだったが、それはこの男にしては珍しい、力の抜けた笑いだった。


「……まあ、悪くねぇ」

 そう言って空を見上げる。

「殴らなくても、どうにかなるもんだな」


 ミラが横目で見る。

「最初に言ったら怒ってたくせに」


「うるせぇ」


 空気は軽かった。

 ここしばらくの苛立ちが、ようやく抜けたようだった。


 その中で、エルンだけが帳面を閉じる手を止めていた。


「一つだけ、納得していません」


 場の温度が少しだけ下がる。


「何が?」

 ミラが聞く。


「崩れ方が、都合が良すぎる」

 エルンは視線を落としたまま言った。

「市場裏を避ける。それ自体は妥当です。ですが、その後の流れが妙に速い。倉庫番の反応、紹介屋の切り替え、内部不信の表面化。全部が最短に近い」


「たまたまでしょ」

 ミラが軽く返す。

「向こうも無理してたんだよ」


「それは理解しています。理解していますが……」

 エルンは言葉を切った。

「何か、一つズレれば成立しなかったはずです。なのに、毎回ちょうどいい位置に落ちる」


 ガルドは眉を寄せる。

「またそれか」


「ええ。またです」

 エルンは珍しく引かなかった。

「誰も指示していない。なのに、いつも結果だけが妙に収まる。自分たちはそんなに器用ではないはずです」


 その言葉に、ミラも今度は笑わなかった。


 カイルは銀貨を掌の中で転がした。

 冷たい。

 小さい。

 だが、十分に重い。


 エルンの疑念は消えていない。

 当然だと思う。

 数字を追う人間ほど、偶然の偏りに敏感になる。


 それでも、まだ届かない。


 届かない位置に、自分はいる。


「……運が、良かったですね」


 カイルは小さく言った。


 三人の視線が、ほんの一瞬だけこちらへ向く。

 だが、それだけだ。


 ガルドが先に鼻を鳴らした。

「まあ、そういう日もあるか」


「運、ねえ」

 ミラが口元を緩める。

「嫌いじゃない言い方」


 エルンだけが、少しだけ長くカイルを見た。

 何かを測るような、まだ形にならない疑問の目だった。


 だが結局、何も言わなかった。


 夕陽が傾き、四人の影が長く伸びる。

 前に出る影は、いつもガルドが一番大きい。


 それでいい、とカイルは思う。


 評価されるのは、あの男でいい。

 称賛されるのも、顔になるのも、全部あちらでいい。


 自分はただ、そこにいたことすら曖昧なまま、流れだけを変えていけばいい。


 誰にも気づかれず。

 誰にも恐れられず。

 誰にも、中心だと思われないまま。


 その形が、今日ようやく完成した気がした。


 市場の喧騒はまだ続いている。

 人が怒鳴り、笑い、運び、金が鳴る。

 世界は何も変わっていないように見える。


 けれど、その流れはもう少し前から、ずっと静かに歪んでいた。


 そして今も。

 誰にも見えない場所で、確かに動いている。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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