第30話 タイム・エレベーター
少女が溶けた空間が、一瞬だけぼやける。
古びた石畳が一瞬だけ新品に戻り、同時に再び古びたように。
別々の映像を音もなく重ねて修正したような不気味なヴィジョンが、クロードの感覚には確かに映っていた。
「……クロード。俺たち、今誰かと話をしてたよな? かなり大事な話を聞いた気がするし、話の内容を覚えてもいるんだが…… 『誰と』話をしたのか、思い出せん」
『それは…… いえ、違います。私は覚えています、まず進みましょう』
少女が消えても、彼女の説明は覚えていたからだろう。
ニルたちはクロードの言葉に深刻な顔で頷き、早足で王城を目指す。
「これは……やばいな。何がやばいって、俺自身が今の状況に違和感を覚えていないのがやばい。どうなってるんだよ、これ」
「誰からも聞いた事がない知識が、なぜかある感じです。なのに、気持ち悪いとかじゃなくて、納得が先にあると言うか」
「でも、なんだかすごく腑に落ちない感じがします。納得ができないとでも言いますか……」
「……とりあえず、急ぐぞ。今はそれだけ分かってればいい」
自分自身のことが、分からない。
違和感を感じないという違和感。
果たして自分が、まだ間に合うのかどうかすら分からない。込み上げてくる焦りに急かされるように、ニルたちは足を速める。
『大丈夫です。きっと間に合います』
そしてニルたちに同意する様に——あるいは、自分に言い聞かせるように。クロードもニルに同意して、焦る気持ちを抑えながら王城へと急ぐ。
そして四人が崩れた王城の門をくぐると、いよいよそれが姿を現した。
――一目見た際の全体は、石造りの塔を囲う幾つかの金属製のリングを組み合わせた構造物、という印象であった。
まず、中心にはどう見ても石材だと思われる、荒い質感の石塔が立っている。風雨に晒されているからなのか、石塔には所々に年代を感じさせる細かい亀裂が走っている。しかし塔を支える基礎を含め、石塔そのものは継ぎ目を全く見つけられない不自然さも併せ持つ。
そしてそんな石塔を取り囲むように、幾つかの金属製のリングが、塔を上から下まで確認する様に、垂直方向にズレながらゆっくりと上下に浮遊している。
リングは、のっぺりとした一枚物の金属製リングもあれば、細かいギヤやネジが覗くスケルトンの懐中時計のような複雑で機械的なリングもある。その金属と機械が半々で、金属部分に何かしら複雑な紋様を刻んでいるようなリングもあった。
そんなリングは時折、脈打つように光ったかと思えば、逆に光を取り込んだように暗くなることもある。金属板の上下速度も一定していないようで、全くの不規則に独立して動くその様子は、【矛盾を解決できない】と口にした少女の理由を何となく察する事ができた。
『これは……石塔部分と周辺の金属で、構造が違う……?』
クロードは、タイムエレベーターに対してスキャンを実行していた。
しかしやはりと言うべきか、分かった事はあまりない。
どうやって城下町へ魔法を展開しているのかも、刻まれているであろう魔法も、その構造すらも分からなかった。
まるで【時間】を見ても過去から今に向かって、今から未来に向かって流れていることしか観測できないように。この構造物のスキャンには成功しているのだが、理解のできる情報として取得ができないでいる。
それはまるで、タイム・エレベーターという未知の機械が、クロードという観測者の限界を提示するかのようであった。
「これが、タイム・エレベーター……」
「たしかにこりゃ、普通じゃなさそうだな……」
「で、ですね。なんか、見ていると気持ち悪くなってくるんですけど」
「……実は俺も」
「おい、俺もなんだが」
『……皆さん、あの装置に近づいてくれませんか?』
まずは、現状を把握しなければ、と。
普段ニルたちが行うように、クロードはその装置についての理解を深めようと、タイム・エレベーターの前にある小さな機械に近づいて欲しい、と口にした。
「うん? あの制御装置にか?」
「クロードなら、使う前にもうちょっと見たいって言うのかと思ったわ」
「ですね! 最初は、だれが使いますか? 私は最後で良いですけど」
そして返ってきたその言葉に、クロードは戦慄した。
『ニル、何故これが制御装置だと知っているのですか?』
「え? ……ほんとだ。いや、じゃないよな。だいぶ影響受けてるわ、これ」
『ガルスもです。この装置が使えるかどうか、私たちは知らない筈です』
「……だよな。でも、なんか使えるってことは分かるんだよなぁ」
『ステラもです。使うなんて話、誰もしていません』
「なんか、使う前提で話をしていました……」
『皆さん——』
クロードは、一呼吸置く。
そして、ハッキリと口にした。
『これは、極めて高度な魔力制御システムです。原理は理解できませんが、機能はしています。作った人物は、間違いなく天才です』
三人にも伝わる様にゆっくりと『ですが』と、は言葉を続ける。
『動いてはいますが、制御できていません。『矛盾は解決できない』という制約を。そして——おそらく。使うことで、タイム・エレベーターの影響下に入ることを』
「……どういうことだ?」
『この装置——まだ、稼働しています』
「誰もないのに?」
ニルの問いに、クロードは『目の前で少女が消えたじゃないか』と言いたい気持ちをぐっと堪えた。
きっと、それを言っても意味がない。理解はしてくれるだろうが、もしかすると次の瞬間には「その話を聞かなかったこと」になっているかもしれない。少女の語った通りである。
『はい。魔力が流れ続けています。まるで——』
だから、クロードは。
ニルたちにも伝わる様に。
同意が得られるように、言葉を選ぶ。
『——今この瞬間も、誰かが使い続けているかのように』
その言葉に——ニルたちは、ゾッとしたように顔色を変えた。
「……まさか」
ガルスが、周囲を見渡す。
人は居ない。しかし、居るのだ。
少女に言わせると、「見えないだけ」なのだ。
「この城下町の人間が、今も使ってるってことか?」
『私たちが使っていないのですから、それしかありえません』
クロードの言葉に、ステラが「でも……なんで?」と聞く。
『おそらく——自覚のないままに、です』
ステラの疑問に、クロードは言葉を区切りながら静かに言った。
『先ほど、あなたたちがタイム・エレベーターを使おうとしたように』
自身の言葉に、驚愕を浮かべる三人がまだ間に合うと信じながら。
『積み重なった矛盾の中に、【タイム・エレベーターを使う】という行為が入っているとどうなりますか?』
『自分の代わりに矛盾を引き受けてくれる人間を、もう消えてしまった【誰か】が探し求めているとすれば?』
クロードの言葉に——ニルとガルスは理解した。
「【自分が助かる】の結果を求めるには、【自分を助ける誰か】が存在しなければならない。だが、タイム・エレベーターは【どう助けるか】を勝手に補正する」
「そうなるよな。つまり【タイム・エレベーターを使った誰か】が必要なんだ」
ニルとガルスは納得しつつ……いや、納得したからこそ。
これはまずいぞと、冷や汗を流す。
「すみません、イマイチ分からないのですが……?」
「俺の理解ならだが……タイム・エレベーターを使わないと町の外には出られないが、タイム・エレベーターを使ったら城下町の一部になる」
『タイムエレベーターを使えば、矛盾を引き受けることになる』
「だよなぁ…… どうするかな……」
ニルの言葉に、クロードは少しだけ沈黙した。
そして——
『……私が、やります』
その言葉に、ニルは「え?」と聞き返す。
『私が、『タイム・エレベーター』を使います』
「お前が?」
ニルが驚いて聞き返すと、クロードは『はい』と答える。
『私は、この城下町の『時間』の影響を受けていません。つまり……私は、『タイム・エレベーター』の矛盾を引き受ける役にならず、使える可能性があります』
クロードの声に、決意が滲んでいた。
『私が、過去を——いえ、『現在』を変えます』
その言葉に、ニルは「……どういうことだ?」と聞く。
『旧文明の学説に、この状況と似たような場合を仮定した思考実験があります。私は今回の状況と照らし合わせ、解決方法をずっと考えていました』
そうして、クロードは静かに言葉を続ける。
『導き出した仮説は一つ。私がタイム・エレベーターを使い、【あなたたちは、この城下町に足を踏み入れなかった】ということにする。これならば矛盾は生まれません』
「それって…… 俺たちは、この城下町に来なかったことになるのか?」
『はい』
クロードは、静かに答える。
『あなたたちは、この城下町を横目に見ながら——通り過ぎます』
クロードの声が、震える。
『そして——おそらくですが、この城下町で核心的な出来事を、忘れます』
最初から、それが当然であるように。
あの少女との会話を覚えているのに、少女の存在を忘れたように。
――まるで、少女と出会うことでニルたちはタイム・エレベーターの使い方を知り。
――タイム・エレベーターの使い方が分かったから、タイム・エレベーターを使おうとしたかのように。
――最初から全て、タイム・エレベーターを使うために配役されたような不自然さで。
その言葉に、ステラが「でも……それじゃあ……」と、僅かに声を震わせる。
「クロードさんは……どうなるんですか?」
『……私は、覚えていると思います』
ステラの問いに、クロードの声が静かに響く。
『私は、この城下町の『時間』の影響を受けていません。だから——私だけが、この出来事を覚えているでしょう』
「……待てよ、それって」
その言葉に——ニルは、歯噛みする。
ニルは、クロードに向き直る。
「お前だけが、俺たちの記憶にない出来事を抱え込むってことじゃないか」
『……はい』
クロードはニルの言葉を、静かに肯定した。
『でも——それしか、方法を思いつけません』
彼の声には静かな……しかし、絶対に譲らないという決意が滲んでいた。
『このまま放置すれば、あなたたちはいずれ、この城下町の一部になります。それは——私には、耐えられません』
「……クロード」
『ニル、お願いします』
迷っているようなニルの言葉に、クロードの真剣な声が響く。
『私を——信じてください』
「…………分かった」
しばらく考えていたニルだったが、クロードのその言葉に静かに頷いた。そして、いつものように笑顔を浮かべた。見る者を元気にするような、快活な笑みを。
「あの時とは逆だな。クロード、お前を信じるぞ。助けてくれ」
『はい。今度は、私があなたを……あなたたちを、助けます』
その言葉に頷いたニルは、クロードを『タイム・エレベーター』の制御装置に触れさせた。
「魔力を流せば、使えるみたいだ。準備は良いか?」
『いつでも』
「いや、こっちがまだだ」
「ですね。四人で! 一緒に脱出しましょう」
制御装置に立てかけられたクロードの刀身を触るニルを真似する様に、ガルスはクロードの刀身に触れる。続いて、ステラも。
『……ありがとうございます、皆さん』
クロードの感謝の言葉と共に、世界が揺れる。
音もなく。静かに。だが、確実に。
『あなたたちは——』
クロードの声が、静かに響く。
『——この城下町に、足を踏み入れませんでした』
その言葉と共に——――
世界が、白く染まった——————
◇ ◇ ◇
——その日、ニルたちは街道を歩いていた。
いや、歩いていた筈だった。
「……うん?」
ニルは、周囲を見渡す。
目の前には——廃墟となっている城下町が見える。
「……なんだ、俺たち……」
ニルは、混乱したように頭を振る。
「俺たち……あの城、見てたんだっけ? 街道を歩いてなかったか?」
「……そうの筈、なんだが」
ニルの言葉に、ガルスが答える。
しかしニルの言葉に答える彼の言葉にも、隠しきれない困惑が浮かんでいる。
「いや、見てた筈なんだが……なんで見てたんだっけ?」
「……なんとなく、気になったとかじゃないのか? いや。ガルスじゃなくて、これは俺が言い出したんだったか? ……いかんな、思い出せん。ロスタの町を出て、オルビアンに向かうつもりだったのは覚えてるんだが……」
「ですよね。私も、早く帰って休みたい、と思ってた筈なんですけど……」
混乱しているニルの言葉に、ステラも不思議そうに首を傾げている。ガルスも状況が分かっていないらしく、難しそうな顔で腕を組んでいた。
「まあ、いいか。先を急ごう」
「ですね。日が暮れる前に、オルビアンに着きたいですし」
そして、そんな三人の背中から声がかかった。
『……ニル』
「うん? どうした、クロード。もしかしてなんか覚えてるのか?」
『……いえ。私も覚えがありません』
「なんだ、クロードなら覚えてるかと思ったんだがな」
「というか、クロードも覚えてないならマジで何もなかったんだろ」
「そう言うことなんでしょうね。早く戻りましょうよ」
クロードの言葉に納得したのか、城下町を背に歩き出す。
誰も、振り返らない。
そんなもの、最初からなかったと言わんばかりに。
『ニル——私は。あなたと一緒にいられて、良かったと思っています』
「……なんだ、急にどうしたんだよ」
クロードの唐突な言葉に、ニルは苦笑する。
「まあ俺も、お前と一緒にいられて良かったと思ってるけどな」
いつものようにコツンと軽く柄を叩きながら呟かれたその言葉に、クロードは——いつものように静かに、呟いた。
『ありがとうございます』
そして——四人は、歩き続けた。
何事もなかったかのように。
いつもの日常へと、戻っていく。
——クロードだけが知る、秘密を抱えたまま。
◇
そうして廃墟から離れる様にしばらく歩いて街道にたどり着くと、そこには一人の老人がニルたちを待つように立っていた。
「……よう」
見覚えのない筈の老人が、ニルたちに声をかけてくる。
「ああ、おはよう」
「いい朝ですね!」
「ちょっと遅いけどな。なんにしても、おはようございますだ」
ニルたちが軽く挨拶をすると、老人は「ああ、いい朝だよ」と頷いた。
そうして老人は、ニルの背中を見た。
背負われた、空色の大剣を。
何かを言いたそうに空色の大剣を見ていた老人は、ふっと笑って首を振る。その様子に、ニルは疑問を浮かべるしかできない。
「……すまん、なんかあったか?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
老人は、そう言って——クロードに視線を向けた。
「……ありがとうよ、クロード」
『——!』
その言葉に、クロードは息を呑んだ。
老人が、自分の名前を知っている。
でも——
ニルは、特に気にした様子もない。
ガルスもステラも、何も言わない。
まるで——「自己紹介をしたから、名前を知っているのは当然」とでも思っているかのように。でもクロードには、この老人に——自己紹介をした記憶なんて、無かった。
『……あなたは』
クロードが、声を震わせる。
老人は——静かに、微笑んだ。
「……覚えてないんだ。ほとんど、な」
老人は、遠くを見るような目で呟く。
「何だろうな…… 小さい女の子を助けたかった気もするんだ。その所為か、ちと物忘れが激しくてな。四人組のやつらに忠告してやらないとって思って、漠然とここで生きてたんだ」
その独白が、果たしてどのような意味を持つのか。
それはきっと、本当の意味では誰にも分からないのだろう。
「ただ——お前の名前は、忘れなかった」
老人は、クロードを見つめる。
「お前が——俺を、助けてくれたからな。それだけは、覚えてる。たぶん俺が『ただの矛盾』でも、これを覚えていることに意味があったんだろ」
その言葉に、クロードは——何も言えなかった。
老人は、ニルたちに向き直る。
「じゃあな、若いの。気をつけて行けよ」
老人は、そう言って——去っていった。
「……なんだったんだ、今の?」
「さあ? 良い人だったけど」
「挨拶していただけ……ですよね?」
ニルもガルスもステラも、よく分からないと言った感じで首を傾げている。
三人ともあの老人が「クロード」と名前を呼んだことに、何の疑問も抱いていない。その後の意味深な会話も、まるでそれが当然のことのように受け入れている。
『……』
クロードは、黙っていた。
老人の背中を、見送りながら。
そして、その姿が。
ずっと見ていたはずの背中が、空に溶ける様に不意に消える。まるで、そんな人物がいない事の方が自然だとでもいうように。
『……ニル』
「うん? どうした?」
『……いえ、なんでもありません』
クロードは、何も聞かなかった。聞けなかった。
あの老人のことを覚えているのか、と。
だって。あの老人は、きっと——
—―いつか、ここに来たのだろう。
—―そして、城下町に足を踏み入れたのだろう。
そして——いつかのタイミングで、矛盾の一部として生まれたのだろう。
だが、確かめる術は最早ない。
空に還ってしまった風を、もう掴む事ができないように。
『皆さん、帰りましょう。オルビアンに』
「そうだな。今度こそ、用事は終わりだろ」
「2、3日待って船使ってたら終わりの話だったけどな」
「いや、言うなって! 俺も後悔してるんだから!」
「まあ、なんかそう言う気分でしたからね~」
「そうだよ。ガルスだってこっちでいいって言っただろ」
「すまん、忘れたわ」
騒がしく足を動かす三人の会話には、もう『城下町に行こう』なんて話題は出てこなかった。その事に確かな安堵を感じながら、クロードは老人が消えた朝の空を少しだけ眺める。
『……知恵の樹が言っていました』
クロードは、静かに呟く。
『「不必要を獲得すること」が、生きることだと』
クロードは、前を向いた。
『この記憶は——私が選んだ「違い」です』
きっとこの経験は、ニルたちをこの先に待つどんな困難からも守り抜く、己だけの武器になると信じることにした。
「クロードは大げさだなぁ。海路じゃなくて歩きを選んだだけだろ」
「知恵の樹との問答したばっかだからだろ。空気読めって」
「そうですよ。ニルさんは空気を読めませんねぇ」
「なんだ、これは俺が悪いのか?」
『いえ、私はこういうやり取りがしたかったので』
いつも通りの三人のやり取りに、クロードは心が温かくなるのを感じる。
きっと、この違いは間違っていなかった。誰になにを聞かれようと、クロードは絶対にそう答える事ができると確信した。
「ほら見ろ、俺は悪くないって」
「はいはい」
「認めたから、オルビアンに戻ったらデウェさんところでガルスのおごりで飯な!」
「それ良いですね!」
「まじかよ、そう繋げてくる訳?」
そしてクロードは、再びニルたちと共にオルビアンに向かって歩き始めた。
いつもの日常へと、戻っていく。
——秘密を、抱えたまま。
◇
ニルたちが城下町を離れてしばらく歩いた時、クロードはそれに気が付いた。
『……ニル、少し待ってください』
「どうした?」
『……あの看板を、もう一度見せてもらえませんか?』
クロードの声に、不思議な響きがあった。
ニルたちが戻ると——入り口の脇に、看板があった。
古びているが、文字ははっきりと読める。
『立ち入り禁止——帰れなくなる』
「なんだ、こんなのがあったのか。何で帰れないのかの理由が分からんけど、入らなくて良かったっぽいな」
「ほんとだよ。全然気づかなかったな」
「私もです……」
ニルも、ガルスもステラも。
看板を初めて見たという顔をしている。
そして、当然クロードも。
こんなに分かりやすい場所に設置されている看板なのに、不自然なほどにその存在に気付けなかった。
『……私も、気づきませんでした』
クロードの声が、震えている。
『これは——』
クロードは、言葉を飲み込んだ。
この看板は、間違いなく最初からあった。それは確かに覚えている。しかし、誰も読んでいなかった。いや——あるいは、存在するのに読めなかった、とでもいうべきなのだろうか。
—―タイム・エレベーターが、認識を歪めていたから。
「誰が書いたんでしょうね?」
「さあ? それっぽい人は見なかったけど」
「地元の人なのは間違いないだろ」
『……恐ろしいですね』
“誰が”書いているのかさっぱりわかっていない三人の様子に、クロードはこの看板を書いたのが先ほどの老人であると確信した。
彼は、果たして知っていたのだろうか。
警告を書いても、誰も読まないことを。誰も読めないことを。
でも——しかしそれでも、老人はこれを書いたのだ。
ここを通る、“誰か”に向けて。
『……』
クロードは、黙って看板を見つめた。
そして——前を向いた。
「クロード?」
『……いえ、なんでもありません。行きましょう』
「なんだよ、なんか知ってるのか?」
『回答を拒否します』
「なんだよそれ、教えてくれてもいいじゃん」
『きっと、この推測は当たっていないと思うことにしました。それが、“クロード”の回答です』
「……つまり、どういうことだ?」
「話したくない、だろ」
ニルを揶揄うガルスに、ステラとクロードが笑う。
しかしクロードは、静かに心の中で誓っていた。
この記憶を——自分は絶対に、忘れないと。
そして、この大切な仲間たちと、まだ見ぬ次の街へ行くのだと。
クロードは静かに、胸を弾ませるのだった




