第8話 森の中の少女
無理やり肺に叩き込んだ空気という名の燃料を原動力に、湿った大地を蹴るのはまだあどけなさを残した少女だった。
御伽噺の夜空のような、深く色付きながらも透き通った紫水晶の瞳。
髪は夜空を切り取ったような黒色で、露出を嫌うようなローブの下から覗く肌は初雪のように透き通っている。ほんの少し微笑むだけで男女を問わず魅了する美貌はしかし、今は額に浮かぶ汗によって彩られ焦燥によって歪んでいた。
美貌の少女は可憐な見た目に似合わない、鬱蒼とした森の中を走っていた。
木の根、倒木、岩にぬかるみ。足を取ろうとするそれらを器用に避けて、時に飛び越えて、少女は薄暗い森の中を何かに追い立てられるように駆けていく。
――――いや、曖昧な物言いをせずとも、彼女は実際に追われているのだ。
少女を追い立てる様に、鬱蒼と生い茂った木々の向こう側から恐ろし気な咆哮が木霊して、草木が薙ぎ払われるようなざわついた音が森に響いた。
それらの音を生み出す元凶が、少女を追い立てる様に森の向こうから迫っている。
「――ッ」
錯覚か、そうではないのか。耳に届く音が徐々に近づいている感覚に焦りを覚えながら、少女は体を前へと走らせる。
疲労ではない理由で一段と早くなった鼓動にますます呼吸を乱されながら、少女は浮きかけていた顎を引き、きゅっと唇を結んで大地を蹴った。
乱れた呼吸を無視するように、限界に近づきつつある体に鞭打ち速度を上げ――――
――何故こんな事になったのか、と。
少女はいい加減にぼんやりとし始めた思考を働かせ、現状を打開するため記憶を探る。
――そうだ、あれは確か――――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――――事の始まりは日課となっている薬草採取に出かけた、たったそれだけの話だった。
朝露に濡れたような空気は肌寒く、薄い靄がかかった森の中は木漏れ日により照らされながら、時折気持ちばかりの風が肌を撫でる。まだ小鳥さえ眠っているのだろうか。溢れるような緑の深さとは裏腹に、さえずりの一つも聞こえない。
「~~♪ ~~~♪ ~~♪ ♪~♪~~」
そんな森の中を、一人の少女が鼻歌交じりに歩いていた。
年の頃ははっきりとしない。
艶っぽい唇に、色香の香る目元の黒子。顔立ちは可憐さと艶ややかさが同居した端正なものだが、一方で機嫌良く鼻歌を歌う子供っぽい雰囲気が妙に似合っている。
全身を覆うゆったりとしたローブは肌色の殆ど隠しているが、細い腰に巻かれた帯は女性らしい曲線を象っていた。背中で纏められた髪は長く、木漏れ日を吸い込む黒色が儚げな美しさを強めている。
「あ――」
小さな声を上げ、少女の歩調が早まった。
黒髪が揺れ、さらりと風に遊ばれ宙を泳ぐ。
少女が腰を落とした先には真っ白な花弁を広げた花が咲いていた。
小さくかわいらしい花だ。目を引く真っ白な花弁を下に向ける姿は、まるで見つけてくれた彼女にお辞儀をしているようにも見て取れる。
嬉しそうな笑みを浮かべた少女はポケットから小瓶を取り出すと、それを花弁の下へと持って行った。
彼女がゆらゆらと揺られる花に挨拶をするように、ちょんちょんと花の頭を叩いてやれば、首を縦に振る様に花が揺れて透き通った琥珀色の蜜が零れ落ちた。
ゆらりゆらりと蜜を零しながら揺れる花は、少女が持つ小瓶に入っていた同色の蜜と混ざり合って溜まっていく。小瓶に蜜が溜まるにつれて花は徐々に起き上がり、下を向いていた花弁がゆっくりと上を向いた。
「うん、いい感じ」
小瓶の中身が、小指の先ほど嵩を増す。
蜜を吐き出し終わった花は背筋を伸ばすように上を向き、朝霧のかかる森の中など気にもせず機嫌良さげに揺れていた。
そして、それは彼女も同じく。
目の前に持ってきた小瓶を機嫌良さげに眺めて揺らし、蓋をした小瓶を大事そうにポケットに仕舞って立ち上がる。
「~~~♪ ~♪ ――――」
花の蜜を見つけられたからだろうか。少女の鼻歌は先より機嫌良く弾んでいた。
とは言えそれでも薬草を摘む手の動きに危な気はない。
一か所の群生地から摘み取る薬草は、どれだけ多くとも手が5回動くまでだ。摘んだ薬草を小脇に抱えた小さな篭に素早く放り込み、少し歩いてまた次へ。木々の隙間を縫うように森を歩き、少しずつ薬草を摘んでいく。
そうして少女が薬草を摘み始め、篭の半分ほどが一杯になった頃だ。
不意に煤の香りの混ざった大きな風が吹いた。
ざぁ、と。
枯れ葉が舞って葉々がこすれ、背の高い草がぶわりと揺れた。
少女の髪と、服の裾が風に遊ばれる。
彼女はとっさにそれらを抑えはした、が――――
「あっ――」
――――と。
そう思った時にはもう遅かった。
摘んだばかりの薬草の葉の幾つかが宙を舞う。
風に攫われた薬草の葉は背の高い草を越えて飛び立った。幸い風はすぐに止み森は静寂を取り戻したが、篭の中身は戻らない。
少女は慌てて篭を覗き込んだが、半分とまでは言わないが、一目で減ったと分かる程度の量が森の中に帰ってしまっていた。
「――はぁ……」
溜息を零し、少しばかり表情を曇らせた少女は薬草が飛んで行った方を見上げた。
「森の奥かぁ……」
――行った事が無い訳じゃないけれど、と。
そんな考えが頭を過ったが、彼女はすぐさまその考えを呑み込んだ。
そこは立ち行った事こそあるが、気軽に踏み込むには抵抗のある場所でもあったからだ。
そろそろ家を出てからの時間もそれなりになっている訳で、区切りとしては丁度良いと思った方が良いだろう。
「……うん、今日はここまでにしよう」
そう考えを纏めた少女は、少しばかり軽くなった篭を持ち直して森の奥に背を向けた。
湿気た空気は未だ変わらず、がさりと草を掻き分ければ出来始めた朝露が靴と裾を濡らす。湿った草むらを踏み締めて、森を後にしようと振り返り――――
がさりと。
そんな音と共に草を掻き分け現れた、一匹の怪物と目が合った。
シルエットだけで語るのならば、二足で立つ恐竜が最も近いだろう。しかし同時に、それが唯の生き物ではない事が一目で理解できる外観でもあった。
骨と皮膚が癒着したような、金属特有の光沢を放つのっぺりとした継ぎ目の無い外殻。外殻の隙間からは筋肉の代わりに編み込まれた無数のケーブルが覗き、生きているように赤黒く脈打ち、ぎちぎちと不気味な音を立てながら鉛色の関節を力強く駆動させている。
口元には恐ろし気な歯が生え揃った大きな顎。
そして大きな顔と釣り合いを取るためか、尻尾は長く足は太い。爪は太く鋭くて、特に足にある鉤爪などは、持ち主の攻撃性を示すように禍々しい。
機械である。同時に生物のようでもあった。
文字通りになるが“生きている機械”と形容するのが最もしっくりくるその怪物は、一見すればミスマッチでしかないはずなのに、緑溢れる森の中に当たり前のように存在していた。
「――――機械生命体」
殆ど無意識で呟かれたその言葉に反応し、機械の頭がゆっくり反応した。
赤い光を湛えた無機質な水晶がキュイーイと自身を映した事で、少女はようやく目の前の現実を受け入れた。そしてこれが現実なのだと受け入れたその瞬間、少女は異形の機械――アーティファクト・クリーチャーと呼んだそれに背を向け逃げだしていた。
同時に、飛び出した草むらの向こう側から、甲高い鳴き声が響き渡った。ほんの少し前まで静寂が支配していた森が不穏に揺れ始める。
――そうして彼女の命がけの鬼ごっこが始まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――――そして、今に至る。
現状を打開しようと事の始まりを思い返してはみたものの、そもそもこうなった理由などなかったわけで。
それでも言葉にすれば、成り行きとしか言えないだろう。
とは言えこうなった事に理由が無いのと同じように、この状況を終わらせる方法もまた少女には存在しなかった。
現状に行き詰まり始まりを思い出している内に、耳障りな鳴き声は近づいている。向こうは元気にこちらを追いかけているらしい。
「――っ」
湧き上がる感情を呑み込む様に、彼女はぎゅっと唇を結ぶ。
そうして走り続けていると、森を抜けて小さな河原に出た。
緑色の苔に覆われた遺跡の残骸が転がり、形を残したまま真っ白な灰となった木が生い茂る河原に。
それは比較的安全な普通の森の終わりであった。
同時にそこはかつての時代に滅んだ遺跡群が眠っており、数多の怪物たちが潜む『燻りの樹海』の入り口でもあった。
――――その光景は、逃げるためとはいえ、森の深い部分にまで足を踏み入れてしまっていた事の証拠でもあって。
その事実に僅かな動揺を覚えながら、少女は、ならばいっそと隠れられる場所を求めて河原を見回した。逃げ切れないなら遺跡に隠れた方が良いだろうとの判断だったが、同時に体力の限界でもあったのだ。
尽きかけた体力とは違い少女の運の方はまだ尽きていなかったらしく、辺りを見回すと足元が水に沈んだ遺跡を見つけられた。
後ろを気にする余裕などなく、苔に覆われた凹凸に手足を置き、少女は最後の力を振り絞って隙間へと潜り込んだ。
勢い良くばしゃりと膝下を水に浸しながら、殆ど転がるように滑り込んで、彼女はようやく息を吐く。
「はぁ、はぁ……たす、かった……?」
遺跡の隙間に逃げ込んで、少女はゆっくりと水面に映った己を見下ろす。
上気した頬、玉のような汗が浮かぶ額。
森の中を逃げている間に引っ掛けたのだろう。服は解れや破れが目立ち、森の匂いをさせる新しい染色が出来ていた。勢い良く跳ねた水は小雨にでも打たれたように服を濡らし、重たくなって肌に張り付いている。
――酷い恰好。
それでも生きている事に安堵する。
息を吐きながら体を滑り込ませた隙間へと目を向ければ、隙間の向こう側から覗き込む水晶の瞳と目が合った。
鋼の魔獣は唸り声を上げながら、鋭い爪で遺跡の隙間を引っ掻いている。
だがしかし、大型の個体ではないのが幸いした。鋭い爪は少女の柔肌など簡単に引き裂けるのだろうが、遥か昔からそこにある建造物を切り崩すには役不足であったらしい。何度も遺跡の入り口を削っているが、崩れる気配はなさそうだ。
――助かったのは助かったらしい。一先ずは、ではあったが。
「えぇっ!? 嘘でしょっ!?」
しかしそんな小さな安堵を打ち破るかのように。切り出せないなら押せばいいと、鋼の魔獣は遺跡の入り口を抉じ開けようとする。
機械に向き不向きなど関係ないのだろうか。切り裂く事にしか使い道の無さそうな前足を、器用に遺跡の凹凸に引っ掛け押している。爪が石に立たない事を逆手にとって、ぎゃりぎゃりと嫌な音を立てながら岩肌を押して徐々に隙間を広げているのだ。
ゆっくりではある。
しかし確実に入り口の隙間は広がっていた。
少女にクリーチャーと戦うなど出来ないだろう。
どこか別の隙間から逃げる事が出来れば鬼ごっこが再開されるだろうが、どう考えても今度こそ狩られてしまう。中途半端に休んだからというのもあるだろうが、完全に息の上がった体で森を抜けて町まで逃げるなど不可能だ。
――諦めるしかない? いいや、そんな事は絶対にない筈だ。
挫けそうになる心を克己し思考を回すも、打開策は浮かばない。
そうしているうちにも、機械生命体は隙間をどんどん開いていく。隙間を開く事に全力を出している怪物は無防備を晒しているが、それを気にしている素振りは無い。
「――っ」
事実として、少女は身を竦ませる事しか出来なかった訳で。
動きを止めた獲物をあざ笑うように恐ろし気な顎が小さく開くと、隙間を開ききろうとする怪物の視線がいよいよ完全に固定され、そして――――――
『機械生命体、中型。接近戦は危険と判断します』
「そっちは見りゃ分かるって! おいっ! 誰がいるか知らんけど、動くなよっ!」
――――何処からともなく聞こえるのは、中性的で柔らかで、しかし平坦にも聞こえる不思議な声音。
それに続くように男の声が響くと同時に、怪物の横っ腹が射抜かれていた。
――それを成したのは矢――ではない。
もっとずっと太く、長い。投擲用の短槍であった。それが機械生命体の側面に、深々と突き刺さっている。
相当勢い良くぶつかったのだろう。槍が刺さった衝撃でクリーチャーはバランスを崩し、開きかけた遺跡に押し潰されかける。
双方にとって予想外の方向へと傾いた天秤に追い打ちをかける様に、少女の視界に赤い髪とロングコートが翻る。
「――ぉぉおっ、っらぁッ!」
岩の間から逃れようと体を捻じるクリーチャーの首元を、振り下ろす様に振るわれた一閃が鈍い音と共に打ち据える。同時に男は滑る様な動きでクリーチャーへと肉薄し、倒れたそれに向かって二度、三度と武器を振り下ろす。
「えっ……?」
首、顎、駆動部にケーブル。
目の前で見たはずなのに、少女は青年の剣閃からはおそらくそう言った部分を壊したのだろう、という想像しか出来なかった。しかしこれだけは理解できる。一連の動作が恐ろしく素早く、手慣れていたという事だ。
事実動くなと声を掛けられた少女が反応するよりも早く、赤髪の青年は厄介なはずの機械生命体をいとも容易く制圧してしまっていた。
『駆動の停止を確認。遺跡内の生体反応も途切れていません』
「ぎりぎり間に合ったな。怪我は無いか?」
動かなくなったクリーチャーから視線を外し、青年が改めて少女に向き直る。
「え、ええ。どうにか……」
そんな早業を成した彼は、ロングコートの下に皮鎧を身に着けた、夕焼けのように鮮やかな紅い髪が特徴的な青年だった。
特徴のない外見であるし、おそらく人種なのだろう。
人種として見れば背は高く、しかし巨人種ほどの巨躯ではない。服の上からでも見て取れる体格の良さは、戦闘を生業とする者特有の力強さを連想させる。
その考えを助長するように、青年はクリーチャーを屠った長剣の他にも、背中には空色の燐光を放つ大剣を背負っていた。分厚い腰帯にはナイフや水袋、ウエストバッグといった旅道具も見て取れた。
目鼻立ちは凡庸。しかし内面から溢れる生命力が、快活な笑みに良く似合っている青年であった。
「そうかい? そりゃよかった」
引き抜いた短槍と長剣に付着した赤黒い油を払った青年は「なら、助かったついでにちょっと手伝ってくれないか」と、ある方向を指さした。
「……クリーチャーを?」
「朝飯をまだ食ってなかったんだよ。せっかくだし、焚き火に使わせて貰おうと思ってさ」
どうするつもりなのだろうか、と。
それを聞いたつもりの少女の言葉に、青年はやる事は一つしかないとばかりに頷いた。どころか「君もあったまるもんは必要だろう?」などと少女の服を指さしている。
――焚き火にする? この青年は機械生命体を焚き火にすると言ったのか?
少女の疑問を置き去りに、青年は慣れた手つきで場を整え始めた。
奇麗なスクラップとなったクリーチャーから流れ始めた赤黒い液体に火を着けると、ウエストバッグから干し肉を取り出した。どうやら本気で、アーティファクト・クリーチャーから流れる油を料理の火種として使うつもりらしい。
「え、ええ。分かりました……?」
それに少女は二人が会話をしているように聞こえたのに、森の中の人影は青年しか見当たらない。遠距離で会話でもしているのだろうか?
――いや、違う。
ステラは、青年の背中に目を向けた。
空色の燐光を放つ大剣が、脈打つように光っている。
――もしかして、あの剣が喋っているのか?
もう、何が何やら。
浮かんでは消える胸の内にある思いは、果たして何と言うべきだろうか。
安堵? 困惑? それとも恩義? もしかすると、いきなり現れた怪しい青年への警戒なのかもしれない。
どれでもあってどれでもないような、支離滅裂なまま纏まらぬ思考のままに、雰囲気に流された少女は青年の後に続き。
「あの……」
「……ん?」
「えっと……その、まず、ありがとうございます。私の名前はステラ。貴方の名前を教えてくれませんか?」
まず初めにこれだけは聞いておかなければと、彼女は頭を下げながら青年の背中に声を掛けた。
赤い髪の青年が不思議そうに振り返ると、少女――ステラの言葉を聞いて、ようやく思い至ったとばつが悪そうに小さく笑った。
「そうだった、最初は自己紹介だよな。俺の名前はニルヴァード。気軽にニルって呼んでくれ」
『私はクロード。ニルの相棒です』
――やはり、あの剣が喋っている。
ニルヴァード――ニルと名乗った青年の後に付いたその言葉に、ステラは驚きと納得を同時に覚え、申し訳ないという感じで声の主にも頭を下げた。
「やっぱり…… すみません、気付くのが遅れてしまって……」
『いえ。私は“珍しい”に分類される自覚があります。気にしないでください』
そうして、この日。
ステラは、これから長い付き合いになる二人と出会う事になるのであった。




