異世界に来にて
視界の白がゆっくり溶け、足元に土と草の感触が戻る。
森の匂い。風の音。鳥の声。
日本ではない景色をもう一度見渡してうなずく。
「……本当に、異世界だ……」
呟きながら、自分の頬を軽く叩く。痛みは確かにある。夢ではないらしい。
思い出すのは、あの神を名乗った声だ。
――全ての魔法に適正を授ける。
「魔法、ねぇ……。やってみるか」
右手を前に突き出し、深呼吸。口を開く。
「火球よ、出でよ!」
瞬間、掌の上に小さな火球がふっと灯った。
慌てて手を振ると、炎は草の上に落ち、じゅっと煙を上げて消える。
「……出た。ほんとに魔法が出た」
心臓が跳ねる。次は言葉を短く。
「火球!」
ぼん、と今度はこぶし大の火球が生まれ、目の前に浮かぶ。
さらに息を呑んで、言葉を飲み込み、頭の中で炎を強くイメージする。
ぱちん。指先から赤い火花が弾けた。
「無詠唱でも……できるのか」
鳥肌が立つ。勢いに任せて、次々と試す。
水をイメージすれば掌からしぶきが飛び、風を思えば刃のような突風が草を裂く。
土を叩けば足元から石の突起が盛り上がり、光を念じれば掌に温かな灯りが灯る。影を意識すれば、周囲の影が濃く伸びていく。
「……本当に、全属性……」
夢中で試し続けて、気づけば一時間ほどが過ぎていた。
遠くに見える街の輪郭が夕日に照らされ、ほんのり赤く染まっている。
「行くか。とりあえず街へ」
◆
街道に出て歩き始めた矢先、前方から馬の悲鳴が聞こえた。
駆け寄ると、一台の馬車が数体の魔物に囲まれていた。狼のような魔獣が牙を剥き、荷台をかじろうとしている。御者台の男が必死に手綱を握っていた。
「くそっ、護衛が……!」
雇っていたであろう護衛に逃げられていた。
これは迷っている時間はない。俺は右手を突き出す。
「火球!」
轟、と赤い炎が魔物の鼻先に炸裂する。怯んだ隙に、
「風よ、刃となれ!」
鋭い風が狼を弾き飛ばし、
「土よ、足を縛れ!」
地面から盛り上がった泥が足元を固める。
魔法の連携で魔物は散り散りに逃げていった。
「……助かった」
馬車から降りてきたのは、上等な布服に身を包んだ若い男だった。
整った顔立ちに落ち着いた目。だが今は興奮で頬が赤い。
「危ないところを助けて頂いてありがとうございました。まさか護衛に逃げられてしまうとは思っていなくて...私はラウル。商人ギルドに籍を置く者です。あなたは……冒険者ですか?」
「...冒険者か。いえ、これから……その、登録しようかと思ってます」
「そうでしたか。ならばちょうど良い。助けていただいた礼に、町までお送りします」
促され、俺は馬車に乗り込んだ。
石畳の道を走る馬車の中、ラウルは興味深そうに俺を見つめていた。
「冒険者にとって、酒場は欠かせません。依頼も情報も、人の縁も酒場から始まる。……ギルドには併設の酒場もあります。登録を済ませたら、ぜひ顔を出してみてください」
その言葉に、不思議と胸がざわめいた。
俺が今まで生きてきた日々――話を聞き、冗談を返し、誰かと笑い合った時間が頭に浮かんだ。
やがて城門を抜け、町の中心にたどり着く。
ひときわ大きな建物の前で馬車が停まった。
「ここが冒険者ギルドです。……では、また酒場で」
ラウルが微笑み、馬車は石畳を走り去っていく。
俺は深呼吸して、その巨大な扉を見上げた。
「よし……登録しに行くか!」
新しい人生の一歩を踏み出すように、扉に手をかけた。