綺麗な魔法にて
昼下がりの酒場には、いつもの穏やかな時間が流れていた。
カウンターの中ではシズクが仕込みを進め、リリィはその横で慣れない手つきながらも一生懸命グラスを磨いている。
「リリィ、それもう少し優しく持った方がいい。力を入れすぎると割れちゃうよ」
「は、はいっす! すみませんっす!」
慌てて手を緩めたリリィの動きがぎこちなく止まり、シズクは苦笑を浮かべながら新しいグラスを手に取った。
「こうやって――ほら」
シズクが軽く指を鳴らすと、磨かれていたグラスがふわりと宙に浮き上がる。
同時に、清涼な風がグラスの表面をすり抜け、水滴や曇りを瞬く間に消していった。
光を受けてきらりと輝いたグラスが、まるで宝石のように見える。
「すっげぇ……! これ、魔法っすか!?」
「うん。まぁ、簡単な風魔法と清浄の組み合わせだけどね」
「簡単って……あんなにきれいに浮いてるのにっすか!?」
リリィの目が丸くなる。
シズクは笑いながら、今度は火の魔法でフライパンを温め始めた。
「ほら、これもそう。火加減を魔力で調整してる。温度を一定に保つのが大事でね」
「うわ……料理にも使えるんすね! わたし、火魔法はいつもボッて燃やしちゃうだけっすよ!」
「そうなる子、多いよ。コツは“燃やす”んじゃなくて、“温める”つもりで魔力を流すことかな」
シズクがやんわりとした口調で説明しながら、次に棚の上のボトルへと手をかざした。
ひとつ、またひとつとボトルが宙を滑り、正確にカウンターへ並んでいく。
「うおおっ!? これも魔法っすよね!?」
「そう。重力軽減と浮遊の合わせ技。こうすれば取り出す手間も減るし、壊す心配も少ない」
「すご……。酒場って、こんなに魔法使うんすね……」
リリィの声には、驚きと少しの尊敬が混じっていた。
シズクは苦笑しながら答える。
「別に“使うため”に使ってるわけじゃないんだ。ただ、便利だから自然とね」
「便利……。わたし、魔法って戦うためのもんだと思ってたっす」
「うん、昔の俺もそうだった。でも、こうして生活の中で役に立つ魔法も悪くないよ」
そう言って、シズクはそっと指先に微細な氷の粒を生み出す。
それをグラスの中に落とすと、カラン、と澄んだ音を立てて透明な氷が溶けていった。
「……こうやって冷たい飲み物を出せるのも、魔法のおかげ」
リリィはその光景を見つめたまま、小さく息を呑んだ。
「なんか……すげーっす、シズクさん。魔法が、ぜんぶきれいっす」
「きれい、か」
シズクは少し照れたように笑う。
「そう言ってもらえると嬉しいな。リリィもきっと、使い方を覚えたらすぐ出来るようになるよ」
「マジっすか!? がんばるっす! ぜってぇ、わたしも“きれい”って言われる魔法使いになるっす!」
元気よく拳を握るリリィを見て、シズクは思わず笑みをこぼした。
「うん、その意気でいこう」
夕方。
リリィは片付けの合間に、こっそりとシズクが見せた浮遊魔法を真似していた。
まだうまく浮かず、グラスが数センチ持ち上がってはすぐに“コトン”と落ちる。
けれど――彼女の瞳は、失敗を悔やむよりも、次を楽しみにしている光で満ちていた。
その姿を遠くから見ながら、シズクはカウンター越しに小さく呟く。
「……本当に、明るい子だな」
夜が深まり、酒場の灯が柔らかく揺れる。
リリィが新しい風を吹き込んだこの店は、今日も少しずつ、確かに変わり始めていた。




