この前のハーブにて
昨夜の騒動もあってか、今夜の酒場は落ち着いた雰囲気だった。
もちろん冒険者たちの笑い声は響いているが、先日のように荒れることもなく、心地よい喧騒が広がっている。
皿を運ぶ音、ジョッキを置く音、誰かの武勇伝に仲間がどっと笑う声――この世界の夜は、毎晩違う熱を帯びていた。
俺はカウンターの中で酒瓶を整えながら、ポケットから小袋を取り出す。
森で薬草を採取したときに見つけた、あのハーブだ。
現世で言えばミントに似た爽やかな香りがする。
「さて、試してみるか」
葉を軽く叩き、香りを立たせる。
清涼感のある香りがふわりと広がり、胸の奥までスッと抜けていく。
ほんの数日前まで日本にいた自分が、この香りに導かれて新しい一杯を作ろうとしている――その事実が妙に可笑しかった。
カウンターに腰を下ろしたのはガルドだった。
「よう、シズク! 今日も冷えたエールをくれ!」
「その前に、ちょっと試してみませんか?」
「お? 珍しいな。何か企んでんのか?」
俺は笑って、蒸留酒と炭酸水を注ぎ、ハーブを添えたグラスを差し出す。
「……なんだこれ?」
「飲んでみてください」
ガルドは怪訝そうに眉を上げたが、一口飲んだ瞬間、目を見開いた。
「……おい、なんだこれ! 口の中がスッとする!」
「森で見つけたハーブを入れてみました。香草……まあ、特別な爽やかさが出せるんですよ」
ガルドは豪快に笑った。
「ははっ! こりゃ新しい! ただ酔うだけじゃねぇ、気分まで軽くなる酒なんて初めてだ!」
その声に周囲の冒険者たちがざわつく。
「おい、ガルド! 何飲んでんだ!」
「シズクー、俺にもくれ!」
「女の子受けするぞ、これ!」
次々と注文が飛んでくる。
俺は慌ただしくグラスを並べ、同じように作っては差し出していった。
「なんだこれ、飲みやすい!」
「ふふ、爽やかで可愛い味ね。もっとちょうだい!」
「おいおい、これじゃ普通のエールが霞むじゃねぇか!」
酒場の空気が一気に華やぐ。
新しい酒の誕生に、まるで祭りのような盛り上がりだった。
「おいシズク!」
ガルドが笑いながら叫んだ。
「こいつには名前がいるだろ! なんて呼ぶんだ?」
「そうですね……《グリーンブリーズ》とでもしましょうか」
「いい名前だ!」
「グリーンブリーズ、もう一杯!」
「俺も!」
酒場中にその名前が響き渡る。
思わず笑みがこぼれた。
(まさか異世界で、こんなふうに新しい酒を生み出すなんてな……)
日本で働いていたころは、誰かに褒められるよりも先に、上司の小言やノルマが飛んできた。
だが今、目の前の冒険者たちは純粋に「美味い」と笑ってくれる。
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
カウンターの端に、ミナが座っていた。
静かに盃を指で弄びながら、こちらを見ている。
「……それを」
「はい、少々お待ちを」
俺は彼女のために一杯を作り、静かに差し出した。
ミナは小さく口をつけ、わずかに目を細めて小さく笑う。
「……悪くない。疲れが抜ける気がする」
淡々とした言葉。それでも十分だった。
彼女は褒めることに慣れていないのだろう。
その小さな一言が、逆に重みを持って胸に響いた。
深夜。
喧騒が少しずつ引いていき、残ったのはほろ酔いの笑顔ばかり。
俺はカウンターの中でグラスを拭きながら、今夜の余韻を味わっていた。
「ほんの数日前まで、日本で働いていたのに……」
思わず呟く。
だが今は、この酒場で「シズク」と呼ばれている。
器用貧乏だと笑われても、この瞬間だけは胸を張れる。
「……悪くない」
独り言は、ミントの爽やかな香りに溶けて消えていった。