プロローグにて
俺の名前は雫。三十二歳、独身。
人からは二十代後半くらいに見られることが多い。
振り返れば、俺の人生は「大きな成功はなかったけれど、悪くはなかった」と言えるだろう。
五歳から始めた野球は十八歳まで続け、高校は特待生で入学。甲子園には届かなかったが、レギュラーとして声をかけられる程度にはやれた。
けど競技を続けたのは高校まで。大学入試は、小論文が好きな題材に奇跡的にハマったおかげでスラスラ書けたし面接は野球好きのおじさんだった。
おかげで特段苦労もせずに自分の学力以上の大学に入ることが出来た。
大学生活は充実していた。アルバイトでは年上の人たちに可愛がられ、課題にぶつかるたびに助けてもらえた。
バイトは楽しくて、学校よりもバイトばかりの生活。
それでも成長を感じられる毎日に充実感を得ていた。
だが、大学は四年で自主退学。バイト先のレストランに社員として雇われたからだ。
そこで働いた経験は今でも支えになっている。月四百時間勤務なんてブラックも経験した。扉を拭きながら寝落ちしたり、過労で気付いたら鼻血を垂らして笑われたり……今なら笑い話だ。
恋愛も人並みにした。目立つ方だったからか、後輩や年下に好かれることが多かった。
それでも結婚をこの歳でしてないのは遊びすぎたなと反省もしている。
――だが、三十歳の時。勤めていた会社が倒産した。
仕事一筋でやってきた俺の自信は、音を立てて崩れ去った。
すぐ働こうと思ったのに、なぜか何もする気が起きず、三か月も空白の時間を過ごしてしまった。
そんな俺に、お客さんだった知り合いが声をかけてくれた。
「ダイニングバーをやってみないか」
基本ワンオペの小さなお店。仕込みも接客も片付けも全部ひとり。忙しいが、お客様と話しているときだけは生きている気がした。
相手の話を聞いて、冗談を返したり、真剣に答えたり、時にピエロを演じたり。
――なんでも器用にこなせる、それが俺の強みなのだと気づいたのも、その頃だ。
オープンから2年目に入ってお店自体も安定してきたとは思うが、それと同時に物足りなさというかこのままでいいのかという思いにも駆られている。
そんな思いを抱きながらグラスを拭いているとき、ふと――
『……雫』
「え?」
耳の奥に直接響くような、不思議な声。
『お前を、別の世界へ送り出す』
「……は?」
思わずグラスを落としかけた。
いやいや、待て待て。今なんて言った?
「別の世界? 送り出す? ちょっと待ってくれ、俺、酔ってるわけじゃ……」
『我は神。お前に全ての魔法属性の適性を授ける』
「は? 魔法!? しかも全属性!? ちょっと話が急すぎるだろ!」
頭が追いつかない。だが声は淡々と続ける。
『器用に生きてきたお前だからこそ、別の世界で役割を果たせる。そう定めた』
「いやいやいや、勝手に定めないでくれ! 俺の同意はどこいった!?」
冗談半分、本気半分で声に突っ込む。
だが返答はなく、代わりに視界が白くかすみ始めた。
「ちょ、ちょっと待て! 心の準備ってものが――」
眩しい光が消えると、俺は丘の上の草原の真ん中に立っていた。
風に揺れる草の匂い。丘の上からは、遠くに石造りの街並みが見える。日本では決して見られない景色だった。
「……マジで異世界に来たのか」
周りを見渡すと、木々と小川が広がり、空は鮮やかな青。
鳥の声も聞こえる──確かに、今まで見たことのない景色だ。
自分の手を見つめながら、息を飲む。
「……本当に異世界だ……」