3- AIと文体模倣の境界線
小説家になりたいと志すようになってから、自分の文体を意識するようになった。なにしろわたしは子どもの頃から、本を読み漁るのが大好きだったから、気づけばあれこれ影響を受けて、自分の文章が時々”誰かっぽく”なってしまうことがよくあるのだ。
大学時代、文学サークルに所属していた頃のことだ。わたしは初めて書いた短編小説をサークルの先輩に見せたところ、意外な反応が返ってきた。
「この文章、もしかして三浦しをん好きやろ?」
図星である。
確かにその頃は三浦しをんさんにハマっていて、寝る前にベッドで彼女のエッセイを熟読していた時期だ。しかも、それだけではなく、無意識のうちにちょっと似せてしまっていたようなのだ。
先輩の指摘は鋭かったが、ショックというよりむしろ少し誇らしかった。わたしの文章が憧れの作家に似ていると言われて、妙に嬉しくなったのを覚えている。ただ、同時に「このままではあかん」とも思った。
作家とは結局、自分だけの個性や味を文章に練り込むのが仕事だ。誰かを真似てばかりでは、いつまで経ってもわたしの文体は生まれない。
その後、わたしは色々な作家の本を読みつつ、ゆっくりと自分らしい文体を探すことに励んだ。好きな作家の影響を受けつつも、そこに自分自身の経験や視点を入れていくことで、徐々に自分らしい文章が書けるようになってきたのだと思う。
だがここ最近、この文体というやつがAIによって再び揺さぶられ始めている。
少し前に紹介したようなAI小説生成ツールは、文章を書く際、特定の作家の文体を再現する機能も持っているらしい。軽い気持ちでわたしも試してみたところ、思ったよりもはるかにリアルな”それっぽさ”が表現されていて驚いた。
例えば、『夏目漱石風に日記を書く』という指示をAIに与えてみた。
すると、こんな文章が出てきたのだ。
『吾輩は今日も猫と一緒に部屋に閉じこもって本を読むばかりである。近頃は社会との交流を絶ち、もっぱら小説を執筆することに精を出しているが、世の中は何と忙しいことだろうかと窓越しに眺めるのである』
ちょっと待ってくれ、AIよ。あまりにもそれっぽいではないか。わたしはつい吹き出してしまった。
面白がってもう少し試してみる。次は、大好きな東川篤哉さん風の文体で『コンビニで起きたちょっとしたミステリー』を書かせてみた。
『「あれ? 俺のプリンがない!」鈴木は冷蔵庫を開けて叫んだ。「さては、犯人はこの中にいるな?」しかし、狭いコンビニのバックヤードには鈴木以外誰もいない。「……俺か?」』
見事なまでに東川篤哉さん特有のコミカルな味が出ている。読んだ瞬間、わたしは自分でも書きそうだと感じたほどである。
もちろん、この文体模倣機能は精度にバラつきがあって、完璧とは言えないが、それでも一瞬でも本物っぽく感じてしまうということが問題なのだ。
さて、ここで大きな疑問がわいてくる。
AIがこうした文体模倣をしてしまった場合、それは”創作”なのだろうか。それとも、単なる”模倣”なのだろうか。
わたしが学生時代に無意識のうちに三浦しをんさんを真似てしまったのとは根本的に違う気もする。わたしの場合は、あくまで無意識で、そこには自分自身の体験や感情が加わり、自然に混ざり合ったものだったからだ。
しかしAIは、何万ものテキストデータからパターンを学習し、意識的に(正確にはAIに意識はないが)作家の文体を再現する。そこにオリジナリティや人間性はあるのだろうか?
正直なところ、わたしはこの問いにまだ明確な答えを見つけられていない。
確かなのは、AIの文体模倣は非常に便利だということだ。たとえば「岸田奈美さん風にエッセイを書きたいなぁ」と思ったとき、簡単に文章を生成できるなら便利に決まっている。ただし、そんなことを続けているうちに、自分の文体が薄れてしまう危険性もある。
だからこそ、この便利な技術とどう付き合っていくかが問題になってくるのだ。
模倣すること自体が悪いとは思わない。実際、わたしも好きな作家さんの文章を真似て、文章力を磨いてきた。しかし、それはあくまで通過点であって、最終的には自分自身のスタイルを作り上げなければいけないのだと思う。
そう考えると、AIは文体を真似する便利な道具以上の存在になることは難しいかもしれない。自分の中から湧き出る感情や記憶、独自の視点を持たない限り、どんなに巧みに文体を模倣できても、作家にはなれないのではないか。
ただし、それはあくまで現段階の話だ。AIが感情や独自性を持つようになったらどうなるのか……。いや、そんな未来の話はやめておこう。なんだか想像するだけで頭が混乱してしまうから。
とにかく、今わたしができるのは、自分の文体を磨き続けること、そしてAIを新しい可能性を広げる仲間としてほどよく使いこなすことなのだろう。
このAI時代に生まれた作家のひとりとして、そんな”境界線”をうまく見極めていきたいと、あらためて思ったのである。