2- AIと創作者の微妙な関係
ついこの前、AIが小説を書けることを知って衝撃を受けたわたしだが、よく考えてみれば、この技術はまだ発展途上だ。実際、前回書いたように、小説生成AIが急に空中浮遊を始めたり宇宙旅行に飛び出したりと、期待を遥かに超えるシュールな展開を繰り広げたことで、わたしは人間の作家として一旦胸をなでおろしたのである。
ところが、最近またぞろ気になるニュースが飛び込んできた。
『AI執筆の小説が文学賞に応募された』
これである。
しかも、それなりに審査を通過したという噂まである。詳しく調べてみると、どうやら日本の短編の文学賞での出来事らしいが、長編小説でも似たような話が出てくるのは時間の問題だろう。
正直なところ、わたしの中には複雑な感情が渦巻いた。小説家を目指す身として、AIが書いた小説が文学賞に応募され、審査員がそれを認め始めているという現状は、素直には喜べない。むしろ、ちょっと悔しい。いや、かなり悔しい。
「なんやねん、AI……わたしより目立たんといてや」
気づけば心の中でそんな愚痴をつぶやいてしまうほどだった。
そんなある日、わたしが小説仲間とオンラインのチャットをしていると、一人の友人がある記事を紹介した。そこにはAI生成の小説がどんな人に読まれているかを調査した結果が載っていた。
面白いことに、AIが書いたと知らずに小説を読んだ人々の多くが、それを普通に「面白かった」と評価している。なかには「感動した」「共感した」という感想まであるらしい。これは作家にとっては危険信号ではないか?
なによりもショックだったのは、記事に紹介されていたある読者のコメントだった。
『AIが書いたと聞いて驚いたけれど、人間が書いていないことを理由に作品の価値が落ちるわけではない。面白ければ、誰が書こうと関係ない』
わたしはしばらく黙り込んだ。たしかに一理ある。そもそも、文学の価値は作者によって決まるわけではない。物語そのものが持つ力で決まるはずだ。だとすれば、AIが書こうが人間が書こうが、面白いものが勝つ、というのは至極当然である。
だが、やはりどこか腑に落ちないのだ。
創作者としてのプライドなのか、それとも単なる嫉妬心なのか。その感情をうまく説明できないことが、なおさら気持ちをモヤモヤさせる。
わたしは小説を書くとき、自分の中に眠っている感情や記憶を掘り起こし、それを丁寧に言葉に紡いでいく。楽しい記憶、悲しい記憶、あるいはちょっと恥ずかしい記憶だって、小説を書いているときには大切な燃料だ。
小説を書くことは、自分自身を切り取って、紙の上にさらけ出す作業だとわたしは考えている。だからこそ、読者がそれに共感したり感動したりしてくれると、なんともいえない幸せな気持ちになる。
だがAIには、感情も記憶もない。ただデータを学習し、巧妙に組み合わせているだけだ。それなのに、人間が書いた作品と同じように読者の心を動かすことができるとすれば、わたしがこれまで大切にしてきた創作という営みの価値そのものが揺らいでしまいそうで怖い。
そんなモヤモヤを抱えつつも、興味は止まらず、また別のAI生成小説を試し読みしてみた。今度のテーマはシンプルだ。『猫と暮らす主人公の日常小説』である。
ところが、このAIはまたしても予想を超えてきた。いや、正確に言うと、驚くほどリアルだったのだ。
『猫は気まぐれだ。朝の六時に突然主人公の顔に飛び乗り、朝食を要求する。目覚まし時計は要らない。むしろ猫の気まぐれほど確かなものはない』
おいおい、ちょっと待ってくれAI。これはまさしくわたしの日常そのものである。わたしが猫のおもちに毎朝苦労している様子と一寸も違わない。もはや、誰かがこっそりわたしの日記をAIに読み込ませたのではないかと疑いたくなるほどだった。
妙な親近感と同時に、複雑な気持ちはより強まった。
AIが作り出したリアリティに共感している自分を認めたくなかったが、現実として目の前には魅力的な文章がある。そして、それを書いたのがAIだということに驚きながらも、そのクオリティを素直に認めざるを得なかった。
「AIってやっぱりすごいな」
認めた途端、肩の力が少し抜けた。
AIの小説を”認める”ことは、創作者としての自分の存在価値を否定することにはならない。むしろ、それを知ることで、わたし自身が書けるもの、わたしにしか書けないものをもっと探せるのではないかと気づき始めた。
結局、AIはライバルというよりも新しいタイプの創作者なのかもしれない。むしろ人間作家の視野を広げるための仲間に近い存在になりうるのかもしれない。
少しだけ気持ちが晴れた。いや、まだ完全には受け入れてはいないけれど、とりあえず”微妙な関係”を前向きに楽しんでみようか。
わたしはそう思い、今日もAIと適度な距離感を保ちながら、次の物語を書き始めることにしたのである。