96 夢世界の崩壊
その時、涌井さんがうっすらと瞼を開けた。
「……北村くん。今まで、ありがとね」
「一緒に行こう。僕らと一緒に行くんだ!」
「無理よ。だって、長い入院生活で身体が限界なの。夢の中の高校と一緒に逝くわ」
「涌井さん。そんな……」
「みんなと最後の時を過ごせて楽しかったよ。何だか本当に、ジックリと青春時代を満喫できたわ。でも……」
涌井さんの瞳から滝のように涙が溢れ、私に抱きついて絞り出すような声を漏らした。
「まだ、生きたいなぁ……このまま死にたくないよ。怖いよ」
何も言えなかった。語りかける言葉が見つからず、私は涌井さんの身体を抱きしめた。
「……本当は新しい映画もテレビも漫画もたくさん観たい。病院のベッドから離れて、いろんな所に行きたい。皆といろんな事を経験したい。やりたいこと沢山あるのに……」
「涌井さん、僕に掴まるんだ。一緒に行こう!」
彼女を抱き上げると、塩原主任が目を見開いた。
「あなた、何するの?ホストは外の世界へ連れ出せないわ!」
鏡へ入ろうとしたが、はじき返される。だが、力任せにタックルしてグイグイと身体をねじ込んだ。
「向こうへ、行かせろぉぉ!」
頭が入り、肩まで入った。涌井さんを抱いたまま、相撲のように足と腰へ力を入れて踏ん張る。
「もうっ。世話の焼ける人ね。どうなっても知らないわよ!」
そう言った塩原主任が、私の背中を必死に押した。
胸、腰まで入り込み、そして全身が鏡の中へ飛び込んだ。
無重力の離脱空間が私達を包み込む。周囲には暗く静かな世界が広がっていた。
鏡の裏側が四角い窓のように空中へポッカリと開いている。その向こうでは、崩れ落ちる体育館の光景が見えた。
塩原主任が離脱空間へ入り込んだ次の瞬間、鏡が割れ落ちた。
涌井さんが私を見つめて微笑む。
その身体は徐々に透けていき、やがて消えてしまった。




