86 越えられない壁はない
しばらくすると、ミッキーの様子がおかしい事に気が付いた。
への字に口を結び、眉間にしわを寄せている。
「具合でも悪い?」と、聞いたが
「いいえ」と、力無く答える。
だが、ついにしゃがみ込んでしまった。俯いた彼女の瞳には涙が溜まっている。
「ごめんなさい。私が頼りないせいで、こんな事になって……あの2人に万が一のことがあったら、私は調査員失格です」
「何を言っているんだい。君のせいじゃないよ」
「そうじゃ。悪いのは関谷じゃ」
ミッキーは両手で顔を覆いながら語った。
「実は、音楽室の鏡の前で、涌井さんが仰ったんです。自分の体はもう長く持たないだろうって。あのようにいつも戯けていますが、かなり冷静に状況を把握しています」
「まさか。そんなに悪い容態だったのか?」
「自分の死後、その身体を夢世界の研究に役立てられないだろうか、と涌井さんからご自身の献体を提案されたんです。もちろん、解剖学的に有益な情報は得られるでしょう。でも……私は……」
あの時、鏡の前で彼女達が話し合っていた内容が、そういう事だったとは。
肩を震わせ、指の隙間から嗚咽を漏らすミッキー。
「せっかくできたお友達なのに……死ぬなんて……」
チィも涙ぐんで、ミッキーの傍らに座り込み2人で抱き合った。
「夢の混信が、体力の弱っている涌井さんに悪い影響を与えるかもしれません。早く見つけてあげないと……でも、私の力が及ばず……」
無理もない。
立て続けにイレギュラーな事態が起こり、不安とプレッシャーに押しつぶされそうになっているのだろう。
「僕が言った『壁が』という言葉、実は有名な野球選手の言葉なんだ。社会人用の自己啓発本に書かれていたんだよ」
ミッキーが涙を拭きながら顔を上げる。
「そうなんですか?」
「なんじゃ。兄者がとても良い事を語ったと思ったのに、受け売りだったのか」
ミッキーとチィが涙を拭きながら苦笑する。
「誰しも先行きが不安で自信は無いし、失敗を恐れる。立ちはだかる目の前の壁から逃げたくなる。僕のように、こんなオジサンの年齢になっても、自信を持ってできることなんて少ない。そんな時に、頂点で戦っている人の言葉に勇気を貰うのさ」
「兄者でも自信は無いのか?」
「もちろん。特に初めて行う事なんてガクブルさ」
チイは驚いたような顔で「へえ」と言った。
「でも、僕らはラッキーだ。なんてったって孤独じゃない。たとえ自信が無くても、共に励まし合って力を補える仲間がいる」
私はミッキーとチイの手を取った。
「とりあえずみんなで八方手を尽くして色々やってみよう。何も動かずに後悔するより、動いた結果の反省の方が有意義だ。誰も君を責めたりしない。むしろ僕らは君と一緒に仕事ができる事を誇りに思っているよ」
「はい……はい。ありがとうございます」
ミッキーが顔をグシャグシャにして再び涙を流した。
「前言撤回じゃ。兄者は良い事を言う」
チィがニンマリと笑った。
殴ってしまった上司の事を思い出す。
彼に無理やり読まされた自己啓発本がこんなところで役に立つとは、と少しだけ感謝する気持ちになっていた。




