72 帰りたくない
音楽室の一角に、鏡ばりの壁がある。私たちは、その前に立った。
緊張した様子のミッキーが、フウと大きく息を吐き出すと、鏡面に向かって恐る恐る右手を近づけた。
水面のような波紋を広げながら、スルスルと手首まで飲み込まれる。
「間違い無くリアルワールドへのゲートです。これで元の世界へ帰ることができます」
ミッキーが安堵の表情を見せた。
だが、チィは眉間に皺を寄せ、鏡をジッと睨んでいた。
「……ここを通って、あちらへ帰るのか?」
「そうです。無事に任務完了しました」
ニコニコしているミッキーの傍らで、チィの顔色は急速に青ざめていった。
「私は帰らない!」
その叫びに、皆が驚く。
「この鏡は伝説の暗黒結界!光の戦士である私が、この汚れた門をくぐる訳にはいかないっ!」
彼女がバトンを取り出して構えた。
「ちょっとあんた、まだそんな事を言ってるの?」
涌井さんがチィの頭をガシッと掴んだ。
「いつまでもここにいたら、病気になるってミッキーが言っていたでしょう?このゲートを通って帰るのよ」
「いやっ」
口を尖らせたチィが駄々っ子の様に涌井さんの手を振り払った。
「元の世界なんて嫌。せっかく憧れの国に来れたと思ったのに。せっかく夢が叶ったと思ったのに……クラスのみんなが、私の事をオタクだってバカにするの。誰にも迷惑かけていないのに……だから、お願い。ずっとここに居させて」
祈るように懇願するチィの姿に、涌井さんとミッキーは困ったように顔を見合わせた。
こんな時には何と言って良いのか、彼女にはどんな言葉をかけるべきなのか、私は頭の中で過去の経験をグルグルと探っていた。
新入社員を指導し、励ましていた時のこと。会社の同僚や友人の愚痴や憤りを聞いた時のこと……。
説教や叱咤激励で人の心はなかなか動かないものだ。大切なのは相手の目線に立って共感し、応援する事だ。
「妹よ。お前は既に難しい修行の一つを乗り越えてた事に気づいているか?」
「私が、本当に?」
涙目のチィが顔を上げた。
「そう、ここは夢の中。真の自由だから何でもでき、この男の様に自分の欲の赴くままに生きる事も可能だ。お前が望む戦いごっこに明け暮れることもできたのだ」
チィは涌井さんの側で項垂れている関谷を見た。
「しかし、お前は誘惑に打ち勝って、我らと共に生きる事を選んだ。偉いぞ」
「私はいっしょに遊んでくれる友達ができて、嬉しかっただけだよ」
チィが照れながら頭をかいた。
「お前には次なる使命が待っている。それは、リアルワールドで徳を積むための修行に励むことだ」
私はチィの頭を撫でながら、さらに語った。
「人間社会での修行は、時には辛く悲しい事もあろう。だが、一つ一つ乗り越える事で確実に成長する。お前は孤独ではない。心の中にいつでも我らがいる」
チィが潤んだ大きな瞳で私を見つめた。
「妹よ。お前は強い。ここでの出来事を思い出し、少しづつでも良いから前進するのだ。私達を暗淵から救い、欲に溺れず誘惑に負けぬ程の力を持つお前だ、きっとやり遂げられる。リアルワールドでもお前の理解者は現れ、幸せになれるだろう」
チィがポロポロと涙をこぼした。
「こんなに優しいこと言われたの初めて……」
なぜか、涌井さんとミッキーも涙ぐんでいた。
「あんた、いいこと言うじゃない。兄というよりお父さんみたいね」
「素敵です……北村さん」
「さあ、共に帰ろう」
私の言葉に、チィは涙を拭いて答えた。
「うん。わかった」
大きな瞳には、先程とは違う、強い光が湛えられていた。




