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「いやいや、それは馬鹿げている!」
声を上げたのは叔父様でした。
「ランダルが何の罰も受けずに逃げおおせたら、社交界の口さがない連中が噂や中傷をさらに加速させるに決まってます。フォレット伯爵家は一方的に搾取されるがままの存在だとね」
普段は温厚な分怒り出したら止まらないらしく、叔父様はできる限り断固とした声で続けます。
「言うに事欠いて家宝のジュエリーセットを差し出せとは、普通では考えられないほど致命的だ。ランダルがますますアイシアを蔑むようになる前に、再教育を受けさせるべきだ!」
「たしかに、普通では考えられないほど致命的じゃのう」
ヴァニオン様がつぶやきます。
「男優位のこの国で、ジュエリーは母が娘に手渡せる数少ない財産じゃ。子のやらかしは親の責任──コンラッドよ、社交界のご婦人方から顰蹙を買ったな。婚約破棄を選んでも、アイシアに非のないことは明らかじゃよな?」
「御大……ですから、不愉快な思いをさせたことをお詫びし、私の方から処罰を提案させていただくしかないんですよ。まったく、これじゃ堂々巡りになってしまう」
ヴァニオン様を睨んだアクアノート公爵は、いらいらした口調を隠そうとしませんでした。
「派閥は種々あれども、貴族は現国王陛下に従って生きなければならない。前国王様に何年も忠実にお仕えしてきた私からすれば、エイドリアナ王女殿下が受けている扱いは不当だとしか言いようがないが……なにしろ現国王陛下の宰相という難しい立場だ。ランダルはたぶん、親孝行が少し行き過ぎてしまったのだろう。きっと、板挟みになって苦しむ私を助けようとしたんだ。私にだって、姪のデビュタントに救いの手を差し伸べる意志と、その準備はあったのに……っ」
長広舌をふるったアクアノート公爵は悲しそうに目を伏せ、口元に手を当てました。がっくりと肩を落とす姿から途方に暮れて悩み苦しんでいることが伝わってきて、思わず慰めの言葉をかけたくなるほどです。
「落ち目のエイドリアナ王女殿下の世話をせよと、ランダルに命じた時は辛かった……。王女の王族費は削減され、人員も減らされていた。エリート騎士として将来を約束されていた息子に、出世とは無縁の古ぼけた離宮へ行って王族にふさわしい環境を整えよと命じたんだぞ、私は! 中立派のキャントレ侯爵に、この苦悩はわかるまい」
「いやまあ、一番辛いところをあなたが引き受けたことは、わからないでもないが……」
叔父様はアクアノート公爵を不憫に思ったようです。困ったような目つきで公爵を見ています。
(フォレット領の人々を守ってくれた優しい救い主らしい顔。でも明らかに違いを感じる。叔父様にはその違いがわからないみたい)
「親なら、我が子が出世するのを願うものじゃないか。私の心が求めていたものは、まさにそれだったのに……」
「まあ、親なら誰でもそう思うな」
「せめて……せめて素晴らしい婚約者を与えてやろうと……。私にできることといったらそのくらい……」
「わ、わかった。お願いだから泣いたりしないでくれ……っ!」
アクアノート公爵の人間らしい一面を見せつけられて、叔父様は戸惑っています。さっきまで婚約破棄も辞さない構えだったのに、すっかり煙に巻かれてしまったようです。
(貴族令嬢の人生も貴族令息の人生も、大人の胸先三寸で決まるの? ねえランダル様。私たち、話し合わなきゃいけないことがいっぱいあるんじゃないですか?)
ランダル様に会って、過去と現在についてきちんと整理しておかないと、進むべき道を決めることなんてできないのに。誰も私たちを会わせようとしてくれない。
私は悔しくなりました。
そのときヴァニオン様が私に視線を流し、年老いた手の太い指を持ち上げて、沈黙を命じるように唇に当てました。同時に茶目っ気のあるウインクもしてきます。まるで「まかせなさい」とでも言うかのようです。
私は小さくうなずき、目の前の光景を観察することに集中しました。
「……では、私がランダルに申し渡す処罰を誠意だと思ってくれるか?」
アクアノート公爵が力ない笑みを叔父様に向けます。私にはそれが、とにかく絶対に叔父様を味方につけようとする公爵の、渾身の演技にしか見えませんでした。
「共通の目的はアイシア嬢を幸せにすること。ランダルを矯正施設に入れることで、ある程度噂も沈静化するはずだ。エイドリアナ王女殿下の手綱は私がとる。誓うよ、キャントレ侯爵。手足のように使っていたランダルがいなくなれば、王女も反省するさ」
公爵が「王女」と口にしたとき、不自然な響きが忍び込んだように思えました。悪意そのものに聞こえる響き。私は内心の動揺を顔に出さないように努力しました。
(婚約者をないがしろにして処罰を受ける息子。当然の報いを受ける王女。なんとか取り繕おうと必死な様子の父親。全体的には正しいのに……正しいと思えない。バラバラの断片の中に、不穏で不健全な印象がある)
私はきゅっと唇を結びました。
「いま婚約破棄したとして。デビュタントまでの一か月で、ランダルに代わる諸条件を満たした青年を見つけることは至難の業だろう?」
「まあ、それはそうなのだが……」
「そういえばジノービアが、見込みのありそうな青年を見つけたと言っておったのー!」
ヴァニオン様が不自然なほど大きな声で、叔父様とアクアノート公爵の会話に割り込みます。
「たしかステヴァートン伯爵家の嫡男で、名前はクロードとか言ったかのー。本人もまんざらではなさそうだったらしいのー」
あの日のクロード様は、全然まったくそんな感じではなかったのですが──ヴァニオン様が場をかき乱そうとしていることは明白だったし、何らかのお考えがあることに疑いはなかったので、私は口をつぐむことにしました。
「ジノービアがのー、ランダルはアイシアちゃんにふさわしくない、もったいなさすぎる、もっと心ある青年と婚約するべきだと言うので調べてみたのだが、クロードはまだ婚約者がおらんらしいのー。あそこの家は昔は貧乏じゃったんじゃが、ここ数年で領地特産の酒の販路を切り開いたらしくての、いまでは金持ちじゃよー」
「ステヴァートン伯爵家……サレイジュ王弟殿下派か」
扉にノックがあったのは、アクアノート公爵がすっと真顔に戻ってつぶやいた次の瞬間でした。
執事のニコラスが扉を開けると、アクアノート公爵家のお仕着せ姿の男性が、なんとなく罰が悪そうな顔で立っていました。
公爵が「何か用か?」と鋭く問いかけます。
「お邪魔いたしまして申し訳ございません。どうしても公爵様のお耳に入れたいことが……」
アクアノート公爵の目配せで使用人らしき男性が歩み寄り、膝を折ってそっと耳打ちします。すーっと顔色を変えた公爵に、誰もが気づいたことでしょう。
「どうかしたかね、コンラッド」
「……ちょっと不測の事態が起きましてね」
ヴァニオン様の問いに、アクアノート公爵は若干上擦った声で答えます。
「急いで王宮に戻って対処しなくてはならない。今日はこれで失礼する」
「そうかい? 宰相とは忙しい身じゃのう。この三日トラブル続きじゃと聞いておるぞ。ランダルの処罰が寛大なものになるよう、退役騎士に働きかけるから心配せんでええ。老人にも新鮮な空気とちょっとした運動が必要じゃ」
「よけいな……いえ、ありがとうございます。ちなみに、どなたを念頭に置かれているので?」
「ヘイワード、ダマティ、バーバー、マッキャブ、キルホフあたりかのう」
「なんとまあ古い方々ですね」
アクアノート公爵はおおらかな口調でしたが、その声に隠された侮蔑を私は聞き逃しませんでした。
「まだ生きとったのかと言いたいだろうが、みんな元気じゃぞ。ああそうそう、キャントレ侯爵がステヴァートン伯爵に会うのは自由じゃよな?」
「社交界に余計な噂をまき散らしたいのであれば、お好きにどうぞ」
公爵は怒りで鼻を膨らませ、さっと立ち上がると私を睨みおろしました。
「アイシア嬢、私の言うことはすべて正しい。私の言う通りにしていればいい。ランダルを信じなさい。いまあなたにできることはそれしかない」
それは私の行動や思考までもコントロールしようとする言葉でした。この人は二面性を持っている、その疑念が確信に変わった瞬間です。
私は慎重に「はい」と答えました。
ここで返事を拒むのは得策ではないと思ったのと、ランダルを信じなさいという言葉にだけはうなずけたから。私が信じるランダル様は、公爵のそれとは確実に違うでしょうが。
「いい子だ」
公爵は満足げにうなずくと、踵を返して応接室を去りました。
叔父様が顔を輝かせてヴァニオン様の手を握り、上下にぶんぶんと振り回します。
「御大、よい情報をありがとうございます。いますぐステヴァートン伯爵に面会希望の手紙を書きますよ。アクアノート公爵が何と言おうが、他に可能性があるなら当たってみるべきだ!」
「そうせいそうせい。アイシアちゃんはデビュタントまでこっちで預かるぞい」
「いいアイデアですね、ジノービアちゃんと楽しく過ごせば一か月なんてあっという間だ。アイシア、大人同士で話を詰めてくるから待っていなさい」
そう言って叔父様は、上機嫌で部屋を出ていきました。まず私の気持ちをたしかめてから行動を起こしても遅くはないでしょうに。
愛情ゆえのことだとわかっていますが、腹立たしくはなります。私の将来なのに、私に将来を左右する力がないのは、やはり嫌なのです。
「さあて、これでアイシアちゃんに関わる大人たちは、あっちに行ったりこっちに行ったり大忙しじゃ。ジノービアや、これでよかったかのう?」
「ばっちりよおじい様っ!」
叔父様たちが出て行ったのとは違う扉──隣の使用人控え室に続く、壁際の扉が勢いよく開きました。
転がり出てきたのは、リボンいっぱいのドレスと縦ロールが愛らしいジノービアちゃんでした。もちろん、天使のごとき美少年シルチェスターもいっしょです。
「あのねおねえ様、これはクロード様に頼まれたことなの!」
「あのねアイシア、これはランダルに頼まれたことなんだ!」
お揃いの聴診器を首から下げた二人が、同時に叫びました。