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「とにかく、もう起きてしまったことだ。アイシア嬢、あなたは自分から婚約破棄を口にするなどという、はしたない真似はしないだろう?」
アクアノート公爵は翡翠色の目で、じっと私を見つめます。こちらの顔色を鋭く探るかのように。
「ランダルにはきちんと反省させる。親の責任として、息子に厳罰を科すことを約束しよう」
「え?」
私はぽかんとしてアクアノート公爵を見返しました。
「ランダルは恥ずべき失敗をした。仕事と私生活の境目が崩壊し、両方にうまく対処することができなかった。あなただって何らかの処罰を望むだろう、アイシア嬢?」
「そんな……」
私はぞっと身震いせずにはいられませんでした。騎士団の処罰がどれほど厳しいか、引きこもり気味の私ですら噂で知っているのです。
「あなたが考えているような罰じゃないよ、アイシア嬢。心配はいらない」
人の顔色を読むのが得意なのでしょう、アクアノート公爵が宥めるような笑顔を浮かべます。
「なにも鞭打って、身体に損傷を与えようというわけじゃない。いわゆる再教育、再訓練だね。とはいえ騎士団だから、粗野で苛酷なものにはなるだろうが」
「つまり精神的な罰……ということですか?」
「まあ、そうだね。デビュタント直前まで矯正施設に閉じ込める。公爵の息子だからといって、特別扱いを要求するわけにはいかないんだ。宰相として、親馬鹿に見られても困る。ランダルも、男らしく罰を受ける覚悟を決めているよ」
アクアノート公爵が穏やかに言います。
どう説明していいかわかりませんが、私は「何かがおかしい」と感じました。
フォレット領を救うために手を尽くしてくれたアクアノート公爵は、私の中では救世主。これまで彼の言葉に違和感を覚えたことはなかったけれど──。
(何かが、とんでもなく間違っているような気がする)
私はテーブルの上の書類に目を落としました。
何事にも几帳面なアクアノート公爵らしくない雑な文字。それはまるで、相手に不快感を与えるために書かれたかのようです。
そして、あまりにも簡素すぎる内容。息子に有利な情報を用意してあげようという親心など、一切伝わってきません。
「アイシア嬢、どうかしたかね?」
アクアノート公爵の優しい声に、私は顔を上げました。
公爵の誠実で率直そうな顔。相変わらずの穏やかな笑み。
私はその顔を見て「すべてまやかしなのでは」「何か隠された秘密があるのでは」と思えてなりませんでした。
「私……公爵様の罰するという考え方が理解できません」
ぎこちなく、内心の疑念を隠しきれない私の声に、アクアノート公爵が「どういうことかね」と首をひねります。
「先ほど、公爵様はおっしゃっていたではありませんか。『王族を守るという誓いは、あらゆる事柄に優先する』と。『騎士の名誉ある行動に対してつまらぬ文句は止めろ』と。『息子が可哀そうで身を切られるようだ』と」
アクアノート公爵が少し驚いたように目を開きます。私はのんびりして見えますが、生まれつき記憶力はよいのです。
私は目に力を込めて公爵を見つめ、さらに言葉を続けました。
「公爵様のお言葉を借りれば──ランダル様は、騎士として当然の義務を果たしたまでのこと。どうして公爵様が罰をお与えになるのかわかりません。それに騎士団の刑罰が、高貴な生まれの者にはめったに適用されないことを、私ですら知っています。公爵様がとりなせば、ランダル様は罰を受けずに済むはずです」
「…………」
アクアノート公爵から返事はありませんでした。
そして、私はたしかに見ました。公爵の目に激しい憎悪の色がよぎるのを。しかしそれは一瞬のことで、公爵の狡猾な目があれこれと算段しているように見えます。
私は意志の力を奮い起こして、畳みかけるように言葉を続けました。
「罰を受けなくてはならないのは、むしろ私の方です。私が騎士寮を訪問したために、世間に知れ渡ってしまった。軽率な行動をして、エイドリアナ王女殿下の評判を落としてしまった。どうあってもランダル様を罰するとおっしゃるなら、私にも『王族への尽くし方が十分ではない臣下』に対する処罰を与えてくださいますよう、お願い申し上げます」
アクアノート公爵はまたもや探るような目で私を見ます。何をたしかめようとしているのかはわかりませんが、その目に浮かぶ悪辣な光を私は見逃しませんでした。
「アイシア嬢、人の教育方針に口を出すものではないよ。しばらくの間だけだ。ランダルが心を入れ替えるまでの間だけ。息子を罰することは、私自身を痛めつけることでもある。しかし一国の宰相は息子にも厳しくあらねばならない。私だって辛いのだよ」
アクアノート公爵の声には、それまで聞いたことのない焦りが滲み出ているような気がしました。
「これ以上の話し合いは無意味だな。こちらの誠意はすべて伝えた。デビュタントについては後日──」
「待ってください!」
「まあまあ、待ちなさいコンラッド」
私と同時に声を上げたのは、ずっと黙っていた三人目の高位貴族──ジノービアちゃんの祖父、ヴァニオン・マッキンタイア前公爵です。叔父様の横に座る彼はさっきまで、安らかに眠っているようにしか見えませんでした。
「アイシアちゃんが困っておるなら、わしの出番ということになる」
「御大……」
立ち上がりかけたアクアノート公爵の顔が、たちまち用心深いものに変わりました。
社交界では『御大』と呼ばれている、先代の筆頭公爵ヴァニオン様は御年六十八歳。髪はもう灰色になっていて、顔には皺が多いですが、見るからにがっしりした体格で体力がありそうに見えます。
「今回の件は、わしの大のお気に入りの孫ジノービアのせいでもある。すまんことをしたのう。まさか騎士寮での暴露を、あれほど華々しく大胆にやってのけるとはなあ。あれは抜群に頭がよくて、おまけに度胸もあるのじゃよ」
ヴァニオン様は大きな笑みを浮かべ、皺だらけの顔の中で目を輝かせました。
「ちっとも謝罪に聞こえませんね、御大」
アクアノート公爵は椅子に座り直し、皮肉っぽく言い返しました。
ヴァニオン様は「まだ八歳の子供じゃからのう」と小さく肩をすくめます。
「しかし、わびのしるしに助け舟を出してやろう。わしには大勢の友人がいる。長年にわたって騎士団で働いた退役騎士も。お前の息子が罰を受けずにすむよう、可能な限り手を尽くしてやろう。お前だって本当は、息子が罰を受けるのは嫌なんじゃろ? そう言っておったよな?」
「御大にそのようなことをしていただくわけには……。それに、御大が権力を振るったのは、昔の話でございましょう」
「老人を馬鹿にしちゃいかん。わし、権力はないが人望があるんじゃ」
「…………っ」
ヴァニオン様の言葉を聞いて、アクアノート公爵が動揺したのがひと目でわかります。
(援助の手を差し伸べられたというのに、この上なく迷惑そう……)
私はもう以前のように、アクアノート公爵が善人とは思えなくなっていました。
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年内あと1回の更新を目指しておりますが、家庭内でインフルAが蔓延しており、できなかったらごめんなさい……!
このインフル、胃痛と吐き気がきついです。