4
「汚らわしくて、下劣な男の息子! 悪魔のまわし者! 私を監視しに来たに決まってるわ」
「お前の話なんて聞きたくない、宮殿から出ておいき、出ていけっ!」
「地獄へ堕ちろ! 地獄の炎に焼かれて死んでしまえっ!」
エイドリアナは半狂乱でわめいた。初恋の相手に対して言う台詞など皆無だった(初恋の相手というのは推定)。
荒れ果てた離宮は、まるで霊廟のようだった。かつてはたくさんいたはずの、前国王夫妻やエイドリアナに仕えていた使用人たちは、他の職場を求めて辞めたり、引退したり。
おそらく父から派遣された数名の見知らぬ顔がいたが、落ち目王女の離宮に配属されたことでがっくりきているらしく、うんざりした顔でエイドリアナを眺めていた。
「お前の父親は、私から何もかも奪ってしまったわ。お父様を、お母様と弟だったかもしれないお腹の赤ちゃんを!」
「あいつは私たちをだましたのよ。お母様の妊娠が王弟派を刺激することはわかっていた。お父様とグレゴール叔父様の関係は、ずっとぎくしゃくしていたから。だから妊娠を秘密にしておいたのに、王弟派がそれを嗅ぎつけたってあいつは言ったわ。重大な危険が迫っているって。王弟派が何らかの攻撃を準備している兆候を掴んだって」
「あいつはお母様の身の安全のために、外遊に行くべきだと言った。その間に必要な根回しをするからって。王弟派の切り崩し工作をするって。でもあいつは、裏でグレゴール叔父様と結託していたのよ」
エイドリアナは吐き捨てるように言う。
(なるほど……嘘つきで貪欲な父の口車に乗せられて、ありもしない危険と別の危険とを交換してしまったのか……)
トークル国王派とグレゴール王弟派は諍いが絶えなかった。
それでもグレゴールの息子エイモスが王位を継承する可能性が高かった(叔母は妊娠適齢期を超えていた)から、両者の関係は微妙な均衡を保っていたのだ。
父とグレゴール新国王は、きっと昔から手を結んでいたのだろう。そして秘密が暴かれる心配はないと信じている。
父は何をするにしても、異常なまでに徹底していて完璧だった。
前王妃の妊娠を知っていた数少ない使用人は、エイドリアナから速やかに、かつ完全に遠ざけられて、行方さえ杳として知れないのだから。
「私は女だからというだけで、王位を継げない。お前に監視されなきゃ王族費ももらえない。お前たち親子は私の仇よ、覚悟はできているんでしょうね?」
エイドリアナがすさまじい目つきで俺を見た。
(俺はいわば、エイドリアナ専用のサンドバッグか……)
見事なほどお前にうってつけだろう、という父の高笑いが聞こえるようだった。たしかに、うってつけ過ぎると言っていいくらいだと思った。
エイドリアナは、俺と父の関係性をまるでわかっていない。俺が両親を殺した仇の息子(推定)である限り、説明したところで無駄だろう。何度も人間不信に陥ってきた俺は諦めが早かった。
それから十六歳になるまでの十か月間で、俺にできたことは少なかった。
「どうしてこんなに物資が少ないのよ! お前、私を貧しい暮らしに陥れて楽しいっ!?」
エイドリアナが金切り声でわめく。
俺が父に憎まれていなかったら、普通の貴族令息のように実家からの援助があれば、エイドリアナに物資を捧げることもできたのだが。
しかし父は相変わらず俺には必要最低限の金しか与えない(おそらく、俺とエイドリアナを分裂させようという魂胆なのだろう)。
王女付き騎士としての給金は年俸制な上、男子の成人年齢である十九歳までは自由に引き出せない仕組みだ(手続きをすれば可能だが、親の承諾が必要)。
エイドリアナは手を替え品を替え、俺に嫌がらせをしかけてきた。花瓶の水をぶっかけたり、足を引っかけたり、貴重な卵を投げつけたり。
(この娘は『内の顔』と『外の顔』が驚くほど違うな……)
俺や平民の下級使用人の前では青い目をぎらぎら光らせ、不満ばかりを口にする。しかし数少ない上級使用人や、たまに離宮を訪れる前国王派の貴族の前では、温厚篤実な王女の仮面を被るのだった。
公私ともにその場に相応しい、的確な立ち居振る舞いができるという点では、非常に王女らしいと言えるだろう。
(本質的に悪い人間ではないのだ。寂しいだけなのだ。次から次へと不幸に見舞われ、家族も、将来への希望も、何もかも失ってしまったのだから)
八つ当たりや愚痴のはけ口にされるたびに、俺はそう思った。「エイドリアナ王女殿下の望むことなら、できる限りのことをいたします」が俺の口癖となった。
(父や小隊長に比べれば、エイドリアナなど可愛いものだ)
幸か不幸か、俺は鞭で打たれ続けるような生活に慣れていた。エイドリアナがしかけてくる精神的・身体的暴力など大したことはない。
俺以外の王女付き騎士は下級貴族かその親戚で、少数精鋭にもほどがあった。十五歳の俺の肩には上官としての責任がのしかかっていた。
金がない分、俺は何でもやった。庭園の枯れ木を切り倒した。エイドリアナの部屋も応接室も修繕したし、希少な騎士仲間の控え室も直した。
「エイドリアナ王女殿下は、ランダル様にだけ心を許していらっしゃいますね。こんなときって、年上の従兄を頼りたくなるんだろうなあ」
「アクアノート公爵もお心が広い。新国王陛下の宰相という難しい立場なのに、嫡男をエイドリアナ王女殿下に奉仕させるなんて。お父上は前国王派と新国王派の架け橋になろうとして、昼夜を問わず努力しておられるそうですね」
「ランダル様は立派だ。純粋で一本気だ。心の底からエイドリアナ王女殿下を大切にしておられる。じゃなきゃ公爵令息の身分で、こんなことできませんよ」
俺が修繕した騎士控え室で、騎士仲間がそう言いだしたときは、馬鹿馬鹿しくて笑うしかなかった。
(俺の行動にエイドリアナへの愛情なんて、ない。八年以上前は可愛い従妹で、妹みたいなもので……年に数回しか会えなかったけど、あの頃は本当に楽しかったな)
最初のうちはほとんど毎週のように離宮を訪ねてきた前国王派も、俺が十六歳になった頃には訪問してくる頻度はめっきり減ってしまっていた。
痛かったのは、新国王との敵対も辞さないだけの気骨があった老伯爵が、血管が破裂してこの世を去ったことだ。
「証拠がないのでは、どうにも……」
「今の状況では多勢に無勢。告発した側が咎めを受けることになりかねません」
他の前国王派も、エイドリアナに背中を向けて去っていく。彼女にとっては手足をもがれるのと同じだった。
新国王グレゴールは残酷な男で、誰もが恐れおののいて彼を見る。おまけに父が親切を装って「エイドリアナ王女殿下についている限り、あなたの身は安全ではない」と忠告するのだから、前国王派は早々に瓦解した。
忠臣であり、味方だと信じていた者たちに裏切られ、エイドリアナが心穏やかでいられるはずがない。
「このポンコツ! 何もかもお前のせいよっ!!」
エイドリアナは俺の胸を殴りながら泣いた。彼女の目に浮かぶのは怒りと、すべてを焼き尽くす憎しみ。だが、俺以外には見えない。
(このままでは駄目だ。エイドリアナを助けたいと思う一方で、逃げたいと思う自分がいる。いずれにしろ証拠が必要だ。それに味方も)
十六歳になった俺は、徐々に覚悟ができていた。父の操り人形であること、それだけが一生の仕事なんて嫌だ。命を捨てることになるかもしれないが、犬死は嫌だった。
ちょうどその頃、唯一の友達であるクロード・ステヴァートンが王弟サレイジュ付きの騎士になった。俺と同い年のサレイジュ殿下は先々代の王が晩年に愛妾との間にもうけた男子で、三年の遊学の旅に出ることになっていた。
サレイジュ殿下の遊学先のひとつは、前国王夫妻が『不幸な事故』にあったクランデル王国だ。証拠のなさという急所を何とかするため、俺はクロードに協力を要請し、彼は快諾してくれた。
(クロードが戻るまで三年……長いな。俺は俺で動かなくては。証拠なんてそう簡単に見つかるわけがないが。エイドリアナと和解は無理にしても、共通の脅威と共通の利益で結ばれた関係を構築する必要もある)
悟られないように、内密に証拠を手に入れるためには、どうすればいいのか。悩んでいた矢先、父から王都のタウンハウスへの出頭を命じられた(決して帰省ではない)。
「お前の婚約者を決めたぞ。二か月以上前にな」
「は?」
父の言葉に、俺はとにかく度肝を抜かれた。実にポンコツらしい表情になっていたことだろう。
呆然とする俺に、父は書類を一枚投げてよこした。
(アイシア・フォレット伯爵令嬢。✕✕✕年六月四日生まれ。十四歳。女相続人。婚約時の約束事として、月に一度フォレット邸にてお茶会を開くこと……)
殴り書きしたようないいかげんな書類には、そんなことが書いてあった。
「お前はもう二回、お茶会をすっぽかしたことになっている。お前に対する印象は最悪だろうが、それでいい。今のアイシア嬢に必要なのはアクアノート公爵家との繋がりだけだ」
自分の言うことはすべて正しい、という表情で父は言った。きっとお得意の分断工作なのだろう。
俺はもう一度書類を眺めた。
アイシアという名の娘は敵なのか味方なのか──教えてくれる人間は誰もいない上に、多分もう嫌われている。
そしてエイドリアナは『仇の息子の幸せ』を決して許さず、全力で邪魔しに来るだろう。
ただでさえ複雑な俺の人生は、このとき一層こんがらがったのだった。