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部屋に戻った私は、今生ではもうお別れかとでも言うように悲壮感を漂わせているお兄様の膝に乗せられた状態で、今にも泣きだしそうなメイドたちに念入りに両手を香油でもみ込まれ、それはもう長い時間をかけて髪を梳いて編み込もうとするクライブを笑顔で叱りつけていた。
過去というより、前回の人生というべきかしら。
ともかく巻き戻る前の人生で王立学園へ向かう朝も確かこんな様子だったように思う。
すべて覚えているわけではないけれど、寂しい寂しいと譫言のように言い続けるお兄様をなだめ抱きしめ、一生終わらないのではないかというぐらいゆっくりと、私の髪を結ったり足に香油を塗って丁寧に指を滑らせたりしているクライブを笑顔で叱りつけたりしていた。
あの時は結局支度に時間がかかり過ぎてしまって、ラファエル様を待たせる事になったんだったわね。
とはいえ愛しい私を待つ時間というのも幸福なのは間違いないので、それに関しては特に問題がなかったのだけれど今回は違う。
私はラファエル様の元へはいくつもりがないけれど、ラファエル様はまだシンシアさんの存在を知らないのよね。
今のところまだ無実のラファエル様は私を愛しているのだから、私がラファエル様との婚約を辞退するなどと言ったら王城にて話し合いの場を持つ事になってしまう。
どれほど私が素晴らしくとも公爵家は王家に逆らうことができない。そうなってしまえば、長い説得の時間を持たなければいけなくなってしまうだろう。
私の決断はラファエル様に対しては不義理になってしまうのかもしれない。でもこればかりは仕方ない。
先に私への愛を見失ったのはラファエル様なので、ここはお互い様ということで納得して頂きたいものだわ。
「クライブ、お兄様、そろそろ離してくださいまし。時は貴重でしてよ。魔族の国にいくためには、相応の準備が必要なのではありませんの?」
「ご安心を、私の女神。世界を繋げるのは、私たち魔族にとっては然程労力を要しないのです。しかし、伝承にある通り二つの世界には大いなる溝があり、世界を繋げる事は魔族の王への反意とみなされ、禁忌とされております。こちらに残り人に仕えている私も、異端とされ嫌悪されておりますので、リディス様の足枷になってしまうでしょう」
「元より、私は一人で向かうつもりでしたので、問題はありませんわ。私はあちらの世界を知りません。自分の目で見て学び、切りひらいてこそ意味があるのです。クライブ、あなたには公爵家を守るという責務がありますわ。お兄様も、私が去ってしまえば王家から叱責を受けることもあるでしょう。あとのこと、頼みますわね」
私はお兄様の膝から立ち上がった。
長い髪は綺麗に編み込まれている。立ち上がった私に、クライブが柔らかいふわふわとしたショールをかけてくれた。メイドの一人が私に、荷造りの終わった鞄を差し出す。
礼を言って受け取った私に、彼女たちは深々と礼をする。
「ラファエルには会わないつもりなの、リディ?」
「えぇ、お兄様。ラファエル様はお兄様たちと違ってまだ未熟でいらっしゃいますから、納得するまでにはきっと長く時間がかかるでしょう。先ほども申しました通り、時は貴重です。ラファエル様のお心を慰めるのは、私の役割ではありませんわ」
「そう。リディがそう思うなら、それで良いよ、私は」
お兄様は美しく微笑んだ。
過去ラファエル様がシンシアさんを優先していた時も、お兄様やクライブはラファエル様を責めなかったし、私が夜会の相手をお願いするとそれはそれは喜んでいたのを思い出す。
それは仕方のないこと。
彼らは私を愛しているので、いわば恋敵であるラファエル様と私の仲が壊れるのを歓迎してしまうのでしょうし。
私は平等に愛を返しているつもりだけれど、どうしてもそこに嫉妬がうまれてしまうのは仕方がない。
可愛らしいとは思えど、そうなってしまうのは私の器が足りないのだろう。反省しなくてはいけないわね。
とはいえ、私は別に過去のラファエル様やオーキスを恨んでいるわけじゃない。
人は過ちを犯すもの。それを許すのもまた、至高の令嬢たる私の役割なので。
いつかラファエル様が過ちに気づき私の元へと帰ってくるというのなら、私はそれを受け入れるつもりだ。美しく愛らしく聖母のような私を愛してしまうのはごく自然の理なので、私はその愛を返す義務がある。その際、やはり世界の法を変える必要がある。
魔族の王が懐の深い方であれば良いのだけれど。
けれど世界に一つとないと言われているラジエル金剛石のように、希少な私に対して独占欲を抱いてしまうのもまた自然なことなので、私の愛は無限であってただ一人に注がれるべきものではないことを、ゆっくり教育していけば良い。
「リディ、私の天使。できれば閉じ込めておきたいけれど、そんなことをしたら私はリディに嫌われてしまうんだろうね、きっと。……気をつけて、行っておいで」
「はい、お兄様。心から、愛していますわ」
お兄様が私の体を抱きしめて、そっと髪に口付けた。
お兄様が離れると、遠慮がちにクライブが私の手を取って、手の甲に口付ける。
「リディス様、お許しを。もしあなたに何かあったなら、私は世界を壊すでしょう。ですから、どうか御身をお大事にしてください。私が、罪を犯さないためにも」
「クライブ、禁忌を犯すあなたの勇気に感謝します。使命を果たし戻ったら、御褒美に私の血を差し上げてよ」
「あぁ、私の女神……っ」
「さぁ、クライブ、頼みますわよ」
倒れ込みそうになるクライブの足を、私は強く踏んだ。
彼はうっとりと頬を染めた後に、気を取り直したように軽く頭を振ってから私の足元を指差す。
私の足元の床にはいつのまにか光り輝く魔法陣が現れていた。
光が徐々に強くなる。吸い込まれると思ったのと、勢い良く部屋の扉が開くのは同時だった。
視線を向けると光の狭間から、部屋の状況を見て驚いたのだろう。驚愕した様子でこちらに駆け寄ろうとしているラファエル様が見えた。
随分懐かしいと思う。私は彼の、輝くような金色の髪と、よく晴れた日の湖を思わせる緑色の瞳が美しくて気に入っていた。「リディス」と呼ぶ優しげな声も、気にいっていた。
今のラファエル様は、この先の事をなにもしらない。私に手を伸ばそうとする彼が、とても哀れだ。
「リディス、どういう事だこれは……、リディス!」
「ラファエル様。……ご安心を。あなたには近く、そのお心を癒してくださる方があらわれますわ。それでも私が欲しいとおっしゃるのなら、私の帰りを待っていてくださいまし」
「何故だリディス……、どうして……!」
伸ばされた手を私はとらなかった。
哀れだと思ったが、ひと時の感情に流されたりはしないのだ、私は。
これはラファエル様の試練でもある。手を伸ばしても掴めない私に恋焦がれて、ひとまわりもふたまわりも器の大きな人間に育って欲しいものですね。
「ごきげんよう、ラファエル様」
私は微笑むと、優雅にお辞儀をした。
頭の中で誰かが『なんて酷い女だ……』と言っていたような気がするけれど、たぶん気のせいだろう。
そして私は光の渦の中に取り込まれる。
お兄様やクライブや、メイドたち、ラファエル様の姿がぼんやりと歪んでいく。
私の胸は高鳴った。魔族の国というのは、魔族たちが沢山いるということで、つまりクライブのように不思議な力が使える者が沢山いるに違いない。
私は特別な力が好き。きっと魔族の国には王国には存在し得ない見所のある人材が沢山いるはずだわ。
彼らは勿体無いことに、世界の片隅に隠れて暮らしている。
きっと私のようなものが、その存在を見出すのを待ち望んでいるのだろう。受動的なのは好みではないけれど、それもしかたない。戦に負けた傷が癒えるのは長い時間がかかるのだから。
私は知らず微笑んでいた。
とてつもなく、楽しみだったからだ。