10
「……なんて、つまらないの」
愛らしい少女の声が、気怠げな言葉を呟いた。
アスタロトの腕の中からどうにか抜け出した私を、彼女は冷めた瞳で見つめている。
先程まで怯えていたシンシアさんが、まるで別人のように、堂々とした佇まいで腕を組んでいた。
「シンシア……?」
支えていた両手を邪険に払われたオーキスが、シンシアさんの名前を呼んだ。
「気安く私に触れないで頂戴。……本当に、つまらないわ」
戸惑いながら、オーキスが気圧されたように後退る。
「ひとつまえは楽しかったのに。せっかく時間が戻ったのに、これじゃあ茶番じゃない」
「時間が戻った……」
シンシアさんの時間も、私と同じく戻ったのだろうか。
思わず呟くと、彼女は嘆息した。
「戻ったでしょう? あなたが死んでしまったから、お節介な父が、戻したでしょう?」
私は言い淀んだ。
未だそれをいうべきか否か、決めかねている。
「……リディスが死んだとは、どういう事だ、シンシア」
訝し気にラファエル様が問う。
「あぁ、そうよね。覚えていないわよね。前回のそこの女、リディス……とかいったかしら。そこの女は、私を差し置いて女神とまで呼ばれていたから、その傲慢さを罰したの。婚約者を奪い悪評をばらまくのは簡単だったわ。でも、ちょっとした問題がおきたのよ」
シンシアさんは、彼女をシンシアさんと呼んで良いのかわからないが、ともかく悲しげな溜息をつく。
前回の私の評判はシンシアさんの自作自演だったのかしら。
最早確認する術はないけれど、それだけではないような気もする。
彼女に婚約者の方を奪われたように感じて悩んでいる方は沢山いたし、そういった方々がシンシアさんに悪意をぶつけてもおかしくはない状況だった。
シンシアさんと対立構造が出来てしまっていた筆頭が私だったので、私のせいだと思われても仕方なかったのかもしれない。
「リディス様が……」と一言誰かが言えば、それは真実になってしまうだろう。
「……王立学園で私を虐げた罪で、そこにいる男に糾弾させたまでは良かった。娼館に送り込んだ後に、そこの男はリディスを囲い込むつもりだったようだから、歪んだ欲望のはけ口にされて泣き叫ぶのも良い罰だと思っていたのに。事態を察した魔族の男に追われた馬車が崖から落ちて、その女は死んでしまったの」
「お前の言っている、意味が分からない」
ラファエル様は首を振った。
今の話を理解できるのは、この場においては私しかいないだろう。
オーキスも身に覚えのない事を言われ、戸惑った表情を浮かべている。
それにしても、シンシアさんを虐げた罪で娼館送りというのはおかしな話だと思っていたけれど、やっと理解できた。
娼館に囲い込めばいつでも私を好きなようにできる。オーキスも私に対する怒りや憎悪が、自身で私を貶めたいという歪んだ愛に変わってしまったのだろう。
とはいえ、私に触れたが最後私の魅力に堕ちて跪くのはオーキスの方だったと思うので、詰めが甘いというものね。
いや、私に欲望を抱いている時点で、すでに私を愛してしまっていたともいえるわね。
それも仕方ない。私は光り輝くような美少女なので、オーキスが私に歪な愛を抱いてしまうのもまた世界の真理なのだから。
馬車があんな風に乱暴に走っていたのは、追われていたからだという事も分かった。
魔族の男というのはクライブだ。
クライブは覚えていないだろうけれど、私を助けようとしてくれたのだろう。
お礼を言わなければいけない。
「そういう事もあったという話よ。……気づいたら時間が戻っていた。父がやったんだと、すぐに分かったわ。でも前回とは違って、エヴァンディアが私を魔族の国に連れて行くというから、それならまたルシスをからかって遊んであげようと思ったのに」
「……お前は、……エルヴィーザか」
忌々しそうに、ジルベルト様が呟いた。
そこには先程の粘つく様な執着は感じられない。
一体いつまでがシンシアさんで、いつからがエルヴィーザ様だったのかは分からないが、彼女の口調と話の内容からして、シンシアさんの中身がエルヴィーザ様だというのは間違いないだろう。
エルヴィーザ様は私の時間を戻したカミシールに造られている。
カミ様を父と呼ぶのも頷ける。
女神の方というのは、もっと穏やかで愛情あふれる慈母のような方なのかと思っていたけれど、どうやら違うらしい。
これなら私のお母様の方が余程想像の中の女神に近い。
「えぇ、そうよ。私が欲しいでしょう、ルシス。……エヴァンディアも、ハインゾルデも私のもの。それなのに、そんな何の力もないただの人間の女が愛されるだなんて、おかしいわね」
シンシアさんの姿をしたエルヴィーザ様は、本当に不思議そうに首を傾げた。
「それは私が、女神よりも美しく愛らしい完璧な美少女だからですわ」
分からないようなので、私は教えて差し上げた。
胸を張ってそう言うと、背後でアスタロトとメルクリスが「その通りだよリディスちゃん!」「そうですよ、リディちゃん!」と言って拍手をするのが聞こえる。
シュゼルとリアも、にこやかに微笑みながら頷いてくれる。
孫を可愛がる祖父のような視線だったけれど、彼らは私よりも随分年が上なので、感覚的にはそれに近いものがあるのかもしれない。
ジルベルト様は口元を押さえながら笑っている。
ラファエル様は、嫌悪するような厳しい表情を浮かべて、シンシアさんを睨みつけていた。
「なんと愚かな……、あなたたち人を作ってあげた、女神である私を愚弄するつもりなのね」
表情を失くした女神の指先が、私に向けられる。
「「リディス!」」
女神の作り出した氷の矢が、私に向って真っ直ぐに放たれる。
ジルベルト様とラファエル様の声が聞こえる。ジルベルト様は私を庇う様に私の前に躍り出て、輝く盾のようなもので氷の矢を弾き飛ばした。
ラファエル様が、女神の腕を無造作に捻りあげている。
優しく穏やかなラファエル様の行動とは思えないほど、見た目だけは小柄で愛らしいシンシアさんを乱暴に拘束していた。
「や、やめてください……、痛い……!」
涙を湛えた瞳で、女神はラファエル様に縋った。
それはいつものシンシアさんのように見えたけれど、今更彼女がシンシアさんだと思う者はここにはいないだろう。
「……エヴァンディア王家の後継者には、魔力は通じない。……婚約者を奪ったと、お前は言ったな。俺がお前に惑わされたことなど、一度もない筈だ」
「ええ。前回のあなたは、最後まであの女を信じていたわよ。女神の器だったシンシアを庇護していたのは、義務感だけだった。シンシアはあなたが好きだったのに、残酷な事。だから、あなたがいないときを狙ってあの女を貶めたのに、全部台無しだわ」
「お前のせいで、リディスは一度死んで……、だから、俺の傍から離れたのか。お前のせいで、あの男の元に……?」
言葉と共に、締め上げが強くなっているのだろう。
シンシアさんの顔が苦痛に歪み、哀れな表情でオーキスを見上げる。
「助けて……、助けてください……!」
「シンシアは、心優しい人だった。……お前のような醜い女じゃない」
「どうして、なのかしら……、皆、女神の私を愛するべきでしょう。前回はそうだったのに、今回はどうして、なのかしら。もう一度その女が死ねば、時間が戻るのかしらね」
「エルヴィーザ様。もう一度繰り返したとしても、私が至高の美少女であり、愛情深い聖母であるのは変わらないので、皆が私を愛してしまうのは仕方がない事ですわ。諦めてくださいまし。エルヴィーザ様の全ての男性に愛されたいというお気持ちはよく分かりましたわ。私が男性ならば、その欲望を叶えて差し上げる事ができるのでしょうけれど……、でも、愛の前に性別などは無意味ですわよね。愛情が欲しいなら、私が愛してさしあげましてよ」
エルヴィーザ様は余程愛に飢えているのだろう。
ジルベルト様達が私を愛してしまうのは、当然の事なので仕方ない。
ジルベルト様達に愛されている私が、エルヴィーザ様を愛することで彼女はきっと満足できるだろう。
私は愛情深い美少女なので、愛に飢えた女神の愛を満たす事など造作もない。
繰り返す事の無意味さに気づいてほしくて、両手を広げてみる。
「馬鹿女、ちょっと黙ってろ!」
ジルベルト様になんだか懐かしい叱られ方をされた。
エルヴィーザ様が私を睨みつける。そんなに熱いまなざしを向けなくても、私は逃げたりしないので大丈夫なのだけれど、余程私の言葉に感銘を受けたのだろう。
「ふざけないで……!」
このやりとりもなんだか懐かしい。
クロネアさんがこんな感じだったなと、この城に来たばかりの頃の事をしみじみと思い出した。
今でこそ穏やかで、私が訪れると嬉しそうに湖から顔を出してお話をしてくれるクロネアさんだけれど、ミズイロウミウシだったころのクロネアさんは、今のエルヴィーザ様のように良く怒っていた。
女神の周囲に、先程よりも大量の氷の矢が浮かび上がる。
締め上げているラファエル様の手を、女神を中心に巻き起こった風が弾き飛ばした。
「血が薄れた人の王が私に敵う筈もなく、世代を変えた魔族の王が私に敵う訳もない。神を愚弄した罪、その身をもって償いなさいな」
オーキスがラファエル様の前に庇うように立つ。
彼の周りには、光の壁が出来上がる。女神はその様子を見て、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ハインゾルデの薄れた血筋。ただの魔導士ごときが、無駄な事はやめなさい」
「俺は、思い違いをしていた。……リディス嬢以上に、傲慢な女がいるとは」
「魔族の血筋であることを指摘し受け入れ慰めるだけで、堕ちる様な簡単な男。以前のお前は私の操り人形だったのよ。あの女を娼館に落とし、辱めようとしていた薄汚い、オーキス様?」
「黙れ!」
オーキスが怒鳴り声をあげる。
「リディスちゃんてば、よく分からないけど娼館に行くところだったの?」と小さな声でアスタロトに問われたので、私は小さく頷いた。
「娼婦のリディスちゃんか。それはそれで」
「そんなリディスさんもまた、素敵だったでしょうね。でも俺たちとの時間が少なくなってしまうのは頂けません」
「私ならばきっと、娼館においても頂点に立つことができましてよ」
「うん、そうだね。リディスちゃんなら頂点に立てちゃうかもね。もしそうなったら僕が一番のお客さんになるよ」
「俺が必ず買い取りますから、もしそうなったとしても安心してください、リディスさん」
「……アスタロト、リア、うるさい」
エルヴィーザ様の様子などまるで興味がなさそうに雑談をはじめるアスタロトとリアを、シュゼルが注意する。
「だってつまらないんだもん」「女神の戯言を聞くより、リディスさんと話していた方が有意義ですし」と言って、二人は肩を竦めた。
「シュゼル!」
唐突に、ジルベルト様が厳しい声で名を呼んだ。
シュゼルが私とメルクリスを抱くように手を伸ばす。私たちの周囲を、煌めく宝石の壁が覆った。
アスタロトとリアが、一瞬でジルベルト様の隣に並ぶ。
「消えなさい」
女神の言葉と共に氷の矢が、私に向って一斉に降り注いだ。