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迷いの森に、誰かが入り込んだようだと悩まし気にジルベルト様が言ったのは、翌朝の事だった。
私はベッドの上で目を擦りながら、ぼんやりとそれを聞いていた。
少しだけ体が重たいのは、昨日の夜長い間魔力を注がれていたからだろう。
私の手の平の刻印から茨の蔦が伸びて、手首をまるで楔のようにぐるりと覆っている。輝くような赤色はどことなく禍々しく、それでいて神聖さを感じさせた。
「森は広大なのでしょう、入り込んだことがすぐにわかりますの?」
「結界を張り巡らせてるせいで、魔力の揺らぎみてぇなものを感じるからな。……だが、これは……」
ベッドの上で上体を起こして、眉間に皺を寄せるジルベルト様を、私は覗き込んだ。
「どうされました?」
「王の気配がする。……エヴァンディアが、お前を迎えに来たようだ、リディス」
現エヴァンディア王は、ラファエル様のお父様であるサリエル・エヴァンディア様だ。
口数少なく温厚な方で、政はほとんど宰相のウィリス・アンバーに任せていて、最近は式典の時ぐらいにしか姿を見たことがない。
王妃様が三年程前にご病気でお亡くなりになってしまい、それから元気をなくされたという話だ。
ラファエル様はあまり落ち込んでいた様子はなかったように思う。共に葬儀に参列したけれど、少しだけ寂しそうに「しばらく前から伏せっていたから仕方ない」と言っていた。
「私にはリディスがいてくれるから、大丈夫だよ」と、微笑んでいた事を思い出す。
あの時の私は、ラファエル様が私以外の方に心を傾ける事など考えてもいなかった。
それにしても、サリエル王が自ら迷いの森に入るとは考え難い。
高齢ということもあるし、保守的な方だという印象が強いからだ。
だとしたら既にラファエル様に王位を譲られたのかもしれない。どの道ラファエル様は王立学園を卒業されたあと、私と婚姻を正式に結んだら王として即位することが決まっていた。
それが数年早まっただけなので、そう驚く事ではないのかもしれない。
「王とは、特別なのですか?」
「エヴァンディア王家は、女神エルヴィーザと、異種族の王ハインゾルデと共に神から創り出されたものだからな。かつての大戦で俺たちが負けたのは、王家の力のせいでもある」
「王家の力……」
「あぁ、封魔の力ともいう。人の王、王家の嫡子には、俺たちの魔力を消し去る力がある。つまり、王直々に迷いの森に入れば、結界は意味を為さずに森を抜けられるってわけだ。今までそんな物好きはいなかったが」
そんな話は聞いたことがなかった。
ラファエル様と、アンバー家のオーキスは知っていたのだろう。おそらく女神の器であるシンシアさんのことも。
ジルベルト様は私の手首を掴み引き寄せると、茨の楔へと唇を落とした。
「リディス、……お前を、エヴァンディアには渡さねぇ」
「私あなたにこの身を捧げると決めてまいりましたのよ。ラファエル様のお気持ちがどうあれ、あなたの側を離れたりはしませんわ」
「……顔を見たら、帰りたくなるかもしれねぇだろ」
「そんなことで不安になる程、私を愛しておりますのね?」
不服そうにジルベルト様が言うので、私はその頭を抱きしめてさしあげながら髪を撫でる。
ここまできて心変わりをするような不実な私ではないのだけど、私がラファエル様から離れた本当の理由をジルベルト様は知らないので、不安になるのも仕方ない。
ジルベルト様は私を甘やかすのも好きだが、私に甘やかされるのも好ましく思っているようで、頭を撫でたり抱きしめたりしても嫌がることはない。
しばらく癖のある髪の感触を楽しみながら、ラファエル様のことを考える。
ラファエル様がなんの当てもなく、ただ私を追い求めて迷いの森に足を踏み入れた、というのは考えにくい。
激情で行動するには日数が経っているし、ラファエル様はエヴァンディア王家を継ぐ自覚がきちんとあった筈だ。
ラファエル様がいなくなれば王家は潰えてしまうのだから、無謀な行動をとろうとしたらオーキスが止めるだろう。
勝算があるとするならば—―たぶんきっと、女神の器を、シンシアさんを連れてきている。
それにしては、ジルベルト様の反応が薄い。
エヴァンディア王の気配が分かるのであれば、エルヴィーザ様の魂を持つシンシアさんのこともわかりそうなものなのだけど。
「世界を繋ぐ。お前の望みを叶えるなら、どうせそのうち、向き合わなきゃならねぇことだった。……良い機会だ、向こうから来てくれるんなら、丁寧に出迎えてやるか」
体を離した私をじっと見据えて、ジルベルト様が言う。
強い意志を感じさせる瞳は自信に満ち溢れ、燃え立つように輝いている。
「はい。ジルベルト様……、私を離さないでくださいまし」
ふと過る嫌な予感は、過去の記憶を思い出してしまったからだろう。
学園の日常でも、夜会でも、学園の式典でも――ラファエル様の隣には常にシンシアさんが、彼に守られるようにして侍っていた。
あの時は分からなかったけれど、私がシンシアさんを虐げていたという身に覚えのない罪を、オーキスのようにラファエル様も信じていたのならば、シンシアさんを私から守るように傍に置いていたということも理解できる。
影でシンシアさんを虐げながら、表では堂々とシンシアさんに話しかけて意見をする私は、さながら稀代の悪女といった様相だっただろう。
もちろん私は影でこそこそとシンシアさんを虐げる様なことはしていないのだけど、皆が信じてしまえばそれは真実になってしまうのだから仕方ない。
今回のラファエル様は、シンシアさんに心を奪われてはいないのだろうか。
去る者ほど追いかけたくなると聞いたことがある。
私が離れようとしたせいで躍起になっているだけなのかもしれない。
「……リディ」
低く甘い声で名を呼ばれたと思ったら、体をベッドに押さえつけられていた。
優しく触れた唇の狭間から、熱い舌が私の唇を割って入ってくる。
呼吸が苦しい。なにもかもを奪い取られるような激しく長い口づけが終わったころには、私は酸欠で息を切らしながら、ベッドの上でくたりと体の力を抜いていた。
溢れた涙を、ジルベルト様の指先が拭う。
「……何があったのかはもう聞かねぇが、お前がエヴァンディアから逃げてここに来たんだとしたら、怖いんじゃねぇか。無理はしなくて良い、部屋で待ってろ」
そういう訳ではないので、大丈夫だと首を振った。
「私も、一緒に」とお願いすると、ジルベルト様は困ったように笑った後、頷いた。
ジルベルト様がリアやアスタロトと話をするといって身支度を整えると部屋を出ていき、変わりに入ってきたのはメルクリスだった。
彼女は「お城の中、いつもと様子が違うみたい」と不安気に言いながら、私の着替えを手伝い髪の手入れをしてくれた。
黒と深い赤のドレスに着替えた私の左手に恐る恐る触れながら、メルクリスは慈しむように手首に纏わりつく茨の楔を撫でた。
「あぁ、なんてひどい……、リディちゃん、痛くはないのかしら?」
「いえ、特になんともありませんわ」
「もし王の魔力をここまで浴びたら、私達ならきっと気がおかしくなってしまうのよ。ここまでする必要があるのかしら……、ジルベルト様はリディちゃんを、魔族にしたいのかしら」
「人が魔族になるのですか……?」
そんなことはできるのだろうかと、私は首を傾げる。
「ごめんなさい、私には分からないのだけれど、そんな気がしたの。だって今のリディちゃんの体から、強い魔力が感じられるのだもの」
私はまじまじと手の甲の刻印を眺めてみるが、全く分からない。
集中が足りないのかもと、意識を極力向けてみるけれど、ただ紋様があるだけでそれ以上の事はなにも起こらなかった。
ジルベルト様に部屋から私を出さないように言いつけられているというメルクリスに促されて、部屋で簡単な朝食を口にした後、紅茶を飲みながら、椅子に座って他愛のない話をした。
メルクリスは私の国ではどういったドレスが流行っているのかを聞きたがり、紅茶の種類や、菓子の話など色々尋ねられた。
「リディスさん、一緒に来てください」とリアが呼びに来たのは、暫くしてからの事だった。