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ふかふかの桃色の絨毯の上に裸足で立っている私は、ささっと服を脱がされて体を採寸されている。
今までのドレスは採寸なく体に馴染んでいたのを不思議に思って尋ねてみると、「アスタロト様やらメルクルがだいたいこんな感じって言うから、それどおりに選んだだけよ」とアイリスさんが教えてくれた。
「本当はちゃあんと採寸したかったんだけど、誰もリディちゃんを連れてきてくれないんだもん」と言って、アイリスさんは少し拗ねた様子を見せた。声は低いのだけれど、アイリスさんは気安くてとても話しやすい方だ。
手早く採寸が終わり服を着せてもらって、私は採寸室の白い長椅子に座るように促された。
長椅子の前のテーブルに、アイリスさんの羽が輝いた途端に白いティーカップに注がれたお茶が用意された。
香りと色合いからいって恐らく紅茶だろう。
「アイリスさん、ありがとうございます」
「まぁ、飲みなさいな」
アイリスさんが長椅子の私の隣に腰かける。レースをふんだんにあしらったスカートがふわりと撓んだ。
透き通る羽は、長椅子に座っても邪魔にはならないようだ。私の体にも少し触れているが、質量は感じない。不思議なものだと思う。
「ねぇ、リディちゃん。アンタの事情は知らないけど、本当にジルベルト様と結婚するつもりなの?」
「はい。楽しみにしておりますわ」
「本当に、良いの?」
悩まし気にアイリスさんが問う。
「あのね、アタシは立場上アリア様の事も良く知ってたんだけど、あの子はいっつも暗い顔をしていたわ。生真面目で言葉の少ない子だったんだけど、一度だけ教えてくれたことがあるの」
『ユール様は、手に入らないものを追い続けているの』
アリアは哀しそうに微笑んで、アイリスさんにそう言ったらしい。
『王の傍にいたのはリアだから詳しい事はしらないけれど、ハインゾルデ様からルシス様へと代替わりした時の祝いの席で、ルシス様はエルヴィーザ様をはじめて間近で見たそうよ。ハインゾルデ様は、公平な方だった。ルシス様もはじめはそうだったのだけど、いつしかエルヴィーザ様に恋焦がれるようになってしまったの』
アリアはリアと似た毛足の長い三角の耳を持った、可愛らしいというよりはどちらかといえば美しい女性だったようだ。
長く生きている為かどこか達観した処があって、あまり自分の感情を表に出さないような方だったのだという。
『エルヴィーザ様は、初代エヴァンディア王と仲睦まじくていらっしゃったわ。エヴァンディア王が天寿を全うしてからは、神殿で国を見守りながらひっそりとお過ごしになっていた。何度かお話をしたことがあるけれど、優しい方だったわ。だからたぶん……お嫌、だったのでしょうね。度重なるルシス様の求愛に嫌気がさして、ある時自らの命を絶ってしまったの』
私は首を傾げる。
求愛に嫌気がさして命を絶とうと考える意味が分からないわね。
女神なのだから愛されるのは当然だわ。
それは国民からの愛情であったり、エヴァンディア王家からの愛情であったり、もちろんルシスからの愛情を向けられてしまうのも致し方ないのではないかしら。
女神のように美しい、いえ、女神以上に美しい私だって、愛されてしまう罪を背負っている。
全ての愛情は受け入れて差し上げるべきだとは思うけれど、どうしてもそれが出来なければただ毅然とした態度で拒絶すれば良いだけの話だわ。
生きていなければ何もできないのだから、命を絶つというのは、いささか飛躍しすぎている気がする。
『ルシス様は、悲しんだのでしょうね。リアの話では、どうしようもなく愚かになってしまったということだった。それからしばらくして、エルヴィーザ様の生まれ変わりの人族の少女がみつかったの。彼女の額にはエルヴィーザ様を示す陽の刻印が浮かんでいた。ルシス様はもちろん、欲しがったみたいね。でも女神はエヴァンディア王家にとって、王国にとって重要な存在よ。当たり前だけれど、王家に保護されてルシス様の元へは来ることが無かったわ』
女神の存在を知らずに育った私にとって、女神がどれほどの重要な立場なのかはよく分からない。
ジルベルト様たちのように不可思議な力を持っているのかもしれないし、愛と平和をもたらす豊穣の女神なのだから、その存在があるだけで国に平和が訪れる――などといった存在なのかもしれない。
国の平和とはより良い施政者が作り上げるものであって、女神の力なんてなんだかよくわからないものがもたらすものではないとは思う。
それでもそういう風に世界ができているのだとしたら、受け入れるしかないだろう。
実際私は創造神だとか言っていたカミシールにも会っているし、二度目の人生を生きて居たりもするので、そういったことを否定できはしない。
そうだとしたら、確かにエヴァンディア王国に女神が存在するということはとても大切だ。
他国での女神の存在はどういったものなのかは知らないけれど、もしかしたらただそこに存在することだけが重要なので、秘されているのかもしれない。
『そのうちに、……あの頃は、人族の事を食べ物か何かだと思っていた吸血族の王であるクライブが、少女を攫う事を繰り返し始めたの。アスタロトも、まるで玩具のように人族で遊び始めた。酷い話よ。見るのも、関わるのも嫌だったわ。人族は魔族を嫌い、あっという間に大戦が起こったの』
作為的な何かを感じたと、アリアは言ったのだという。
『クライブは純粋に酷い男だったけれど、アスタロトは王に忠実だったから。魔族と人族との溝を更に深める様なことをしたのは、大戦を起こすためだったのかもしれない。考えすぎかもしれないけれど、エヴァンディア王家を滅ぼして、ルシス様の為に女神の器を手に入れようと思ったのかもしれないし、人蝶族や精霊たちや、美しいけれど力の弱いものたちは、人族に売り物にされたり奴隷のように扱われていたから、その腹いせだったのかもしれないわ』
その話はメルクリアから少し聞いた。
今も昔も残酷な人たちは存在する。それと同時に良い方たちもいる。
とても難しいけれど、そうならないように法を整備し取り締まるのが上に立つものの務めだ。
過去のエヴァンディア王家は、魔族を食い物にすることを許していたのかしら。
姿かたちが違うものたちを下に見る事は往々にしてあるものだ。
私は可愛いと思うアナホリヤスデを、不気味だと言って酷く嫌う人たちもいる。
そういう事なのかもしれない。
『私たち争いを嫌う者たちは、王の城の周囲にある深い森の中に隠れたの。ルシス様も私たちを守る気はあったのでしょうね、戦火はそこまでは及んでこなかった。外の世界がどうなったのかはしらないけれど、やがて魔族が多く住んでいた城を中心とした名前のない国を覆うように結界が張られた。……外に残った魔族もいたのでしょうけれど、その後どうなったのかは知らないわ』
アンネマリア家に保護されたクライブは元気にしているけれど、それ以外の魔族の方を私は知らない。
王国の中でひっそりと隠れ住んでいるのかもしれないし、他の国に逃れたのかもしれない。
大戦の憎しみの中、根絶やしにされてしまったという可能性もある。
良くは、分からない。
『結界の中、この国でもその後争いが起こったりもしたけれど、私は嫌だったから耳を塞いでいたわ。ルシス様は魔族の側妃を沢山作られたようだけれど、それが種族の争いにも繋がったようだから、嫌になるわよね。ハインゾルデ様がいなくなって、全てがおかしくなってしまったの。……ハインゾルデ様が、恋しい』
「アリア様は、ハインゾルデ様を慕っていたということですの?」
「さぁ、どうなのかしら。アタシはハインゾルデ様が居なくなった後に産まれたから知らないけど、アリアにとってはハインゾルデ様は父親になるんだから、そりゃ好きだったんじゃないかしらね」
アイリスさんはそう言って、一度深い溜息をついた。
『ユール様は、可哀想な方。生きる事が嫌になったルシス様が、それでも女神を諦められずに、その記憶と共に全てを押し付けられた。見たこともない女神の記憶に囚われて、女神の器を愛してしまっているのよ。馬鹿よね。女神なんて、この世からいなくなればいいのにね』
そんな風に言って疲れたように笑ったのが、アイリスさんがアリアを見た最後だったようだ。
「アリアは、可哀想だから傍に居てあげているんだと言っていたけど、ユールよりも長く生きてるから、その分プライドもあったんじゃないかしら。弱音を吐かない分、色々溜まっていって、あんなことになっちゃったのよ、きっと」
「……ジルベルト様に自らの魔力を全て受け渡したあと、身を投げたと」
「らしいわね。詳しい事は知らないけど、メルクリスが泣きながら話してたから、何となくは知ってるわ。ジルベルト様は悪い方には見えないけど、ルシス様の馬鹿げた執着とユール様の苦しみの記憶を継いでいるし、女神を恨んでいたアリアの魔力もその身に受けてしまっているから、良く普通に生きてるなって思えるぐらいの立場にいるわ。そんな方と、あんたみたいなまだ若い子が無理をして結ばれることはないんじゃないかしら」
とても心配そうに、アイリスさんは言う。
アイリスさんはメルクリスから聞いただけで直接見た訳ではないのだろうけれど、間接的に聞いただけの方が状況が分かるという場合もある。
親切心で私の行く末を気にしてくれているようだ。有難いとこだと思う。
「アイリスさん。ありがとうございます。私はひとめみただけでは儚く無力で可憐な少女に見えてしまうでしょうけれど、アンネマリア公爵家に産まれたリディス・アンネマリアですわ。私の責務は、ジルベルト様の良き伴侶となって、過去の大戦で別れてしまった二つの国を、再びつなげる事ですの。私は争いは嫌いです。憎しみあうのは無益なことです。私ならば、ジルベルト様と共に理想の国を築き上げ、他国の指標となることができますわ」
私はジルベルト様を恋しく思ってしまっているけれど、根底は変わっていないつもりだ。
二度目の人生を歩ませてもらっている分、よりよい世界を作るために力をふるう必要がある。
大丈夫だと微笑むと、アイリスさんはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「リディちゃんてば、お上品な子だと思っていたけど、面白い子ねぇ」
「アイリスさん、私いくども、女神の器にジルベルト様を奪われることが怖くないかと、問われましたの」
「そうなのね。じゃあ、余計なおせっかいだったかしら」
「いいえ、心配してくださるのはありがたいことです。……大切なのは愛や恋ではなく、責務を果たす事だと考えていた私は、そういったことはとくに気に病んでおりませんでしたの。……でも、正直、今はわかりませんわ」
アイリスさんになら、言っても良いような気がした。
多分それは、過去の事について隠さずに全て教えてくれたからだろう。ここで私が嘘をつくのは、間違っていると思う。そうまでして感情を隠すのは、不誠実な事だ。
「ジルベルト様が好きなのね?」
「えぇ。……最初は、粗野で怠慢で、王の心得が無い困った方だと思っておりましたけれど。……今は違いますわ」
「リディちゃん……」
アイリスさんが私の手を強く握る。かなり力強いため、ちょっと痛い。
心なしかうるうるしている瞳を、真っ直ぐに見返した。
「動揺は、してしまうかもしれません。悲しく思ってしまうかもしれません。……けれど私は、私のできることをしますわ。私は女神にも負けず劣らす美しく聡明な、神が齎した奇跡のような美少女ですもの」
「良いわ、良いわよリディちゃん!」
歓声を上げながら、私を抱き上げてくるくる回るアイリスさんに、かつてよく私を抱き上げてお嬢様尊いの舞いを踊っていたクライブを思い出した。
クライブの過去がどうであれ、今の彼は私にとって面白おかしい愛すべき執事長だ。
過去に囚われてしまっては前に進むことなどできない。
恐らく女神の器であるシンシアさんに、以前の私はラファエル様を奪われてしまっているけれど、だからといって恐れる必要はない。
私はどう考えてもどこからどう見ても、シンシアさんよりも美しい。
「アタシ、自分のドレスを着せるからには、リディちゃんには幸せになってもらいたいの。でもどうしても駄目なときは、いつでもいらっしゃい。アンタは立派な公爵令嬢かもしれないけど、まだ若い女の子でもあるのよ。たまには、ただの女の子に戻りなさい」
「……ありがとうございます」
抱き上げた私を降ろしながら、アイリスさんが言う。
ジルベルト様に甘やかされている時、自分が自分でなくなるような感覚になる理由がやっとわかったような気がした。
私は愛されていたし、皆が「リディスなら大丈夫」だと言ってくれた。それは信頼の証だ。
でも、ジルベルト様だけは違う。
私は常に誇り高い公爵令嬢リディスなのだけれど、ジルベルト様がただ無力な少女のように私を守ってくれようとするから、時々それを忘れてしまいそうになるのだろう。