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少しの間だけ閉じ込められていた部屋や、にこやかに手を振るリアが霞んで見えなくなったと思ったら、私は一度訪れた事のあるジルベルト様の寝室へと抱えられたまま移動していた。
一瞬で別の場所に移動するというのは、魔族の方々なら誰でもできるのかしら。
便利だけれど移動の間の景色を楽しむなどができないため、情緒が無いのが玉に瑕だ。
時間はかかれど、自分の足で歩いたり馬車での移動もまた良い物だわ。
ジルベルト様は馬車に乗ったことがあるのかしら。移動手段に不自由していないのだから乗馬の必要もなさそうなので、こちらに馬車があるかどうかも疑問ではある。
私をベッドに座らせると、ジルベルト様はその横に腰を下ろして、私の腕をとってじっと眺めた。
リアの蔦での拘束は絶妙な力加減だったので、痛くもなかったし跡も残っていない。流石、倒錯的な趣味をお持ちの方は手慣れている。
「ジルベルト様、私謝らなければいけないことがありますの」
そういえば忘れる前にきちんと言っておかなければ。
有耶無耶にしてしまうのはよくない、昨日のことを謝ろうとすると、ジルベルト様は余程怒っているのか、じろりと私を睨む。
「謝らなければいけないってのは、どれの事だ。思い当たる事がありすぎるんだが」
「昨日のことですわ。私、怒ってしまいましたでしょう?」
「あぁ、あれか。……あれは、俺も悪かった。お前にだって、話したくない事があるんだろ。無理に聞き出そうとしたのが、良くなかったな」
「そんなことはありませんわ。疲れていたというのは、言い訳ですわね。折角食事に招待をしていただいたのに、取るべき行動ではありませんでした。申し訳ありませんでした」
すまなく思い眉尻を下げて目を伏せる。
「リディス、お前は強情なんだか素直なんだか良く分からねぇ時があるよな。別にお前の態度については、気にしてねぇよ」
許しを得られたので、私は安堵して微笑む。
こうして謝る機会が得られてよかった。
あのまま森の中で命を散らしてしまったら、私らしくもない後悔が残るところだった。
「……リアには、何もされてねぇのか?」
遠慮がちに、ジルベルト様が問う。
「ええ、何も」
「怖かっただろ。……あいつが俺を、王っていう存在を恨んでることを、話しておかなくて悪かったな」
「いいえ、良くしていただきましたわ。危いところを助けていただきましたし、傷も癒してもらいましたのよ。リア様は、丁寧で紳士的な方でした」
「それ本気で言ってんのか、お前。両腕を繋がれて、あのままあいつの玩具にされるところだったんだぞ?」
「仕方ありませんわね、私を前にしたら誰しもが私を手に入れたいと思うのは、この世の理というものですし」
私は眉根を寄せると、悩ましげに溜め息をつく。
そういったことに関する覚悟は、いつだってある。隣国の末姫が賊に襲われて姿が見えなくなったという話も聞いた事があるし、私だって今まで運が良かっただけで、同じ事が起こらないとは限らない。
覚悟があるというだけで、全く恐怖がないというわけではないのだけれど、完璧な淑女たるもの動揺した様子を見せてはいけない。
私の深い愛情をもってすれば冷たく凍えたリアの心を溶かす事など容易くはあるし、私の選択や覚悟は正しかったといえる。
ただその先は未知のことだ、怖くなかったといえば嘘になるだろう。
「でも……、私を助けに来てくださって、ありがとうございます。私、ジルベルト様には助けていただいてばかりいますわね」
「そう思うなら、俺の目の届くところにいてくれ。一人にするとろくなことにならねぇしな」
「そういうわけにはいきませんわ。ジルベルト様が、私に触れてくださるというのなら考えても良いですけど」
他の方に奪われようとしていた私を救ったジルベルト様と、傷ついた私が寝台の上にいるのだから、良く考えなくてもそういった雰囲気よね。
今思いを遂げずにいつ遂げるというのですか、ジルベルト様。今こそその清らかな体を捨てる勇気を出してくださいな。
ジルベルト様は生真面目で誠実で、粗野な見た目と口調に反して奥ゆかしい方だという事は重々承知しているけれど、流石に今触れずにいつ触れるのかといった状況だ。
私が期待に満ちた眼差しでジルベルト様を見上げると、ジルベルト様は困ったように視線を逸らした。
「……俺に、聞きたいことがあるんじゃねぇのか?」
「聞きたいこと……、ジルベルト様は、リア様のように縛るのがお好きかどうかとか、そういった事ですの? やはり血筋というものはありますし、ジルベルト様がああいった私の姿に興奮なさるというのなら、私としては、はじめてはゆっくり優しくしていただけるのが理想ですけれど、受け入れさせていただきますわ」
「落ち着け、リディス。俺にああいう趣味はねぇし、今はそんな話はしてねぇよ。もう少し真面目な話なんだが、馬鹿らしくなってきたな……」
「私、落ち着いていますけれど。ということは、もっと特殊な、人にはいえない趣味があるということですのね。私、大丈夫です。どんな特殊な趣味にもきっと対応できますわ」
「俺を特殊な性癖の持ち主だと決めつけるのはやめろ。普通だ、多分。……お前みたいな変わった女に、惚れてるところ以外は」
小さな声で、とても嫌そうにジルベルト様が言った。
可愛らしいわ。きちんと言えて偉いわね。
褒めてあげるために私はジルベルト様の膝の上に座ると、正面からその体を抱きしめる。
抱きしめるといっても、ジルベルト様の方が大きいのでしがみついているようになってしまうのだが、なんとか体を伸ばしてその頭を抱き込むと、髪を撫でた。
硬そうな髪だけど、触ってみると案外柔らかい。
人狼族のアリアから産まれたのだから、リアのように獣の耳があれば良いのに。髪の中にはそういったものは見当たらなかった。
「……ジルベルト様、悩ましい過去は誰にでもあるものです。話したいときに、話してくださいまし。私からは、何も聞きませんわ」
聡明な私には、ジルベルト様の言いたいことは分かっている。
私の小粋な冗談で肩の力が抜けたようなので、良かった。
もちろんジルベルト様が本当に特殊な性癖の持ち主でも、きちんと受け入れるつもりなので安心して欲しい。
それにしても、過去の記憶を引き継ぐというのは厄介なものね。
二度目の人生を生きている私でさえ時々記憶に囚われることがあるのだから、ジルベルト様やユールの苦しみはきっと、私よりもずっと重いはずだ。
「リアから聞いただろ。大戦の王ルシスの、亡霊のようにつきまとう、女神の器への執着。女神エルヴィーザへの愛憎を」
「エルヴィーザ様とは、私たちの国の神ですけれど、実際その姿を見たなんて人はおりませんの。女神の器も初めて聞く言葉でしたわね。心配しなくても大丈夫ですわ、ジルベルト様。私は、女神よりもずっと美しく賢く優しい美少女ですから、万が一にでもあなたの前にそのような存在が現れたとしても、必ずあなたは私を選びますでしょう。それに私は、正々堂々戦って、女神に勝ちますわ」
だから、大丈夫。
私の脳裏に、ラファエル様の傍に寄り添うシンシアさんの姿が過る。
あれは私も油断していたのがいけなかった。
甘かった。拘束されて糾弾されることになるなんてこれぽっちも予想していなかった。
「リディス、俺は……、俺は、お前の過去を知りたい」
「愛する私の全てを知りたいということですのね」
「そうだよ。何を思ってお前が俺の元にきたのか、知りたい。そうじゃなきゃ、不公平だろ。お前はどうも、俺だけのものにはならなそうだしな」
私はジルベルト様の頭をぎゅっと抱きしめると、頬擦りした。
なんてよくわかっている方なの。ちょっと感動してしまったわ。
私の愛情が果てしなく大きいことを、何も言わずに理解してくれるなんて。
言葉に含まれている嫉妬心も、健気で良いわね。
「私の過去に、忘れられない誰かがいるのではないかと、不安なのですね?」
「いるのか?」
「私は、エヴァンディア王国、王太子ラファエル様の婚約者でしたの」
体を離して、ジルベルト様の顔を見上げた。
ジルベルト様の手のひらが、私の腰に回っている。
沈黙は、先を促しているのだろう。ジルベルト様は特に動揺した様子もなく、私の話を聞いている。
「十五歳で婚姻を結び、王家に輿入れする筈だったのですけれど、十六歳から十八歳までの貴族を受け入れる、王立学園で学びたく思い、先延ばしして貰いました」
「お前は今確か、十六歳だと言っていたな」
「はい。本来なら王立学園に行く筈でしたけれど、私はあなたの元に行くことを選びました」
「婚約者はどうなったんだ?」
「お別れを、言ってきましたわ。王家に嫁ぐよりも、あなたに会うほうが重要だと考えましたの」
「お前は、毒で苦しんでいるときに、また死ぬのかと言ったな。あれは、どういう意味だ?」
私は一瞬言葉に詰まった。
意識が朦朧として覚えていないが、言ってしまったのだろう。
話すべきなのかしら。
どうしようかと考える私を、ジルベルト様の金色の瞳が見すかすようにじっとみつめている。
彼はその印象とは違い、私が思っている以上に聡明なのだろう。
誤魔化したらきっと、見抜かれてしまう気がする。
「それは……、今は話したくありませんわ」
結局私は言い淀んだ。
言おうと思っても、喉の奥に言葉がつまって出てこなかった。
こんなの、私らしくないのに。
「お前にしては歯切れが悪い。……そんなに、辛いことがあったのか?」
「辛い、わけではありません。ただ……、私、なんて言えば良いのか」
「リディス。古きエヴァンディア王とは過去の大戦でルシスが戦い、負けている。お前は婚約者に頼まれて、俺に会いにきたのか?」
「それは違いますわ!」
ジルベルト様の言葉に、悲しみと疑いが感じられたので、私は首を振った。
「私は私の意思で、ここに来ました。まだ話したくないことがありますけれど、それだけは信じてくださいまし」
「何故、俺に信じて欲しいんだ。その方が都合が良いからか。お前にとっては、俺は何かの駒なんじゃねぇのか?」
「私、……私は……」
私はどうして、こんなに必死なのだろう。
ジルベルト様の伴侶になり、魔族の国を人の世界と繋げて、大陸の覇者になるのだと思っていたし、もちろん今もできればそうしたいと思っている。
けれど、何か、少し違う気もする。
それだけでは、ないような気もする。
「リディス……」
密やかに名前を呼ばれたと思ったら、触れるだけの口づけをされた。
「悪かった。疑ってるわけじゃない。お前が呆れるほど真っ直ぐなことは、よく分かってるつもりだ」
「いえ、……言えない私が、悪いのです」
「それぐらい辛い事があったんだろ。聞き出そうとして悪かったな。本当は、お前に婚約者がいようが、なんだろうが別にどうだって良いんだよ。それが打算だとしても、お前は俺を選んだんだろ。お前のためにまともに王をやるのも、そう悪くない」
それは今までとは違う、投げやりでもなければ嫌そうでもない、正直な愛の言葉だった。
自信に満ち溢れた表情で笑うジルベルト様の姿に、私は胸が高鳴るのを感じた。
「やっと、子作りしてくださる気になりましたのね!」
達成感で感無量になった私は、勢いよくジルベルト様をベッドに押し倒そうとした。
けれど大木と小枝ぐらいの力の差があるらしく、びくともしなかった。
ただ腹部に手を当てて、力を込めているだけの状態の私を、ジルベルト様は呆れたように笑いながら抱きしめた。
「リディス、せめてきちんと手順を踏ませてくれねぇか。二百年ぐらい怠惰に暮らしてたせいで、俺に不満を持つものも多い。人の世界とこちらを隔てる結界のことも含めて、色々考えてからお前を迎えいれたい。待っていてくれるか?」
「私、あなたたちと違って長くは生きられませんわ」
「そんなに長くは待たせねぇよ。俺も、早くお前が欲しい」
耳元で、低く囁かれる。
情欲のこもった声音に、頬に熱が集まるのを感じた。
何も言えず、ただ頷くだけしかできなかった。