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私は再び真っ白な部屋の中に戻された。
私の前にはなんだか見覚えがある少年が、球体の椅子に座ってふわふわと浮かんでいる。
「あら、ごきげんようカミシール様」
挨拶というのは大切な礼儀である。私は薄絹でできた寝衣の裾をつまんで優雅にお辞儀をした。
「ごきげんよう、じゃない。薄々気づいていたが、馬鹿なのかお前は」
「私、物の覚えは良い方ですの。学園が設立されて以来の秀才だと、教師の方々には言われましたのよ」
試験の順位は、学年単位の話では私は圧倒的な一位だった。他の追随を許さない程の一位。一位こそが私に相応しいというぐらいの一位。分かりやすく言うと満点である。
因みにシンシアさんは中の上といったところだった。勉強はあまり得意ではないらしい。
「そういう頭の良さとはまた別の次元の話だ。良いか、我は己の行いを反省して、もう一度やり直せと言った筈だ。もう一度、やり直せ、とな」
「二回おっしゃらずとも分かりますわ。しつこい男は嫌われますわよ」
「お前、そういう素直さがないところが、お前の身を破滅させたのだと何故分からないんだ」
カミシールの感情に合わせるように、球体の椅子がぐらぐらと揺れる。
なんて情緒不安定な神様なのだろう。こんなに落ち着きのない少年に作られたのが、私のいる世界だとしたら、情けない事だ。いっそ私があの椅子を奪い取って、神になってあげた方が世界が平和になるかもしれない。
「……おい、リディス。何か、よからぬことを考えていないか?」
「いいえ、カミシール様におかれましては、大変子供らしくお可愛らしいと、褒めたたえていたところですわ」
「我は子供ではない。この姿は何かと都合が良いから、この姿でいるだけだ。良いかリディス、死んだ人間の前に超絶美男子である本来の姿の我があらわれてみろ、皆我と離れがたく思い、輪廻転生を嫌がってしまうだろう」
「まぁまぁ、随分狭量な事をおっしゃるのですね。人には色々な趣味嗜好がございますのよ。全ての若い女が美男子が好きだと思ったら大間違いですわ。ちなみに私は、見目の麗しさよりは、その方の持ちうる力が好きですわね。力とは、権力、財力、軍事力、体力や知力、といった、総合的な判断ですのよ」
その意味ではラファエル様は妥当だった。
幼い時に親が決めた婚約者ではあったが、次期国王である。やや物腰が柔らかすぎて不安要素があったものの、優しいという事は悪い事ではない。ラファエル様に足りない部分は、私が補って差し上げれば良いのだ。なんせ私は自他ともに認められた完璧な美少女。それぐらいは簡単ですので。
「ちょっと待て。それなら我は神なのだから、お前の言う総合力をすべて満たしているという事にならないか?」
カミシールが初めて気づいたとでもいうように、俄かに目を見開いて言った。
「カミシール様が私を手に入れたいお気持ち、痛いほどよく分かります。十六歳のこの姿でも、私は類まれなる美貌と、愛らしさの持ち主なのですから。ですが、物事には節度、というものがございましてよ。そうですわね、どうしてもというのなら、指先ぐらいになら触れても構いませんわ」
カミシールはもしかしたら、私を惜しく思いもう一度ここに呼び出したのかもしれない。
私としては、一生この白い部屋に閉じ込められるのは遠慮したい。退屈そうだからだ。
神様業というのが楽しいものだとしたら、考えてあげても良い。そのあたりは、きちんと話し合わないといけない。
年端も行かない少女に自称神様が触れる事に葛藤があるのだろう、カミシールは両手を顔にあてると、暫く黙り込んだ。
指先だけでなくもっと触れたいと思っているに違いないわね。
神様を惑わしてしまうのも私が完璧な美少女として産まれてしまったから。私はきちんと受け入れなくてはいけないわ。
でも申し訳ないけれど、やはり節度は大切。そして、出し惜しみも大切。徐々に許可を与える事に意味がある。それが、正しい――調教というものなので。
「……ちょっと待て。そうじゃない」
「お気持ちは分かりますけれど、カミシール様。用があるのならお早く済ませてくださいな。私急いでおりましてよ。家人に知られる前に、娼館へと行かなければなりませんの」
「だからなんでそうなるんだ!」
大きな声を出さないでもらいたい。
二人きりだし、他に誰もいないのだ。普通に話しても十分声が届く。
「リディス、二度目の人生を使ってわざわざ理由もなく娼婦になろうとするんじゃない」
「娼婦の何が悪いのです。そもそも、娼館とは上流階級の方々か、戦で功を奏した軍人の方、余程成功をした商人の方ぐらいしか訪れることができない場所なのですよ。それほど高級で、守られた場所なのです。高級娼婦とは、国の王妃よりもある意味では権力を持つものですのよ」
「そんなことは知っている。だが、公爵家の令嬢であるお前がわざわざ目指すべきものじゃないだろう。ちょっと考え直せ。リディス、十六歳のお前はまだシンシアには会っていないし、王立学園にも入学していないんだぞ?」
「存じ上げておりますわ。私、王立学園にはまいりません。シンシアさんの面倒はもうみきれませんわ。ラファエル様がどういうおつもりか知りませんが、底が知れたというものです。私にとって価値のない人たちに、私の貴重な時間を使う気はありませんわ」
「……いやまて、リディス。……君は、ラファエルの事が好きなのではなかったのか?」
カミシールは気を取り直したように咳ばらいをすると、落ち着いた声音で私に問う。
いつの間にか「お前」から「君」になっている。どうやら彼は感情的になると、自我が出てしまうタイプの神様のようだ。
「あなた、愛だの恋だのと、随分と愛らしい事をおっしゃる神様ですのね。お気持ちお察し申し上げますわ。私との時間を存分に楽しみたいカミシール様におかれましては、私の想い人というのは一番の懸念事項なのでしょう。安心してくださいませ、私は大地の母のように愛情深い女でしてよ。私に向けられる愛情は全て受け入れる覚悟ができておりますわ」
「リディス。我としたことが、途中からお前が何を言っているのかさっぱり分からなかった」
「つまり、私は特別に誰かを愛さないということですわ。私は愛される人間ですの。愛された分、等しくお返しする。これはノブレスオブリージュと申しますのよ」
「たぶん違うと思うぞ。頭は大丈夫か、リディス。……ラファエルが可哀想になってきたな」
カミシールはぶつぶつと何かを言っている。
私はだんだん腹が立ってきた。用事があるのなら端的にすませてもらいたいものだと思う。
古来から、話が長い人間というのは頭の出来がよろしくないと決まっているのだ。けれど、どんなに曲がりくねって終着点がない話でも、微笑んで聞いてさしあげるのが淑女のたしなみというものである。
「カミシール様。ここは親愛を込めて、カミ様とお呼びしましょう」
「ちょっと馬鹿にしてないか、お前」
「いいえ、これっぽっちも、そんなつもりはありませんわ。カミ様、私は過去の栄光に縋るような愚かな真似はいたしませんの。シンシアさんと出会う前のラファエル様は、それはそれは私に尽くしてくださいましたわ。私の事を愛しくて仕方がなかったのでしょう。当然ですわね。私が愛らしく、純真無垢で、非の打ちどころのない天使だということは、公然の事実ですからね」
「誰がお前をそう評価してるんだ。公然ってのは、どの層にとって公然なんだ」
「お母様とお父様とお兄様です。執事のクライブも毎日私を褒めたたえましてよ」
「あぁ……、そうか……」
「けれど、カミ様。過去のラファエル様は、私ではなくシンシアさんを優先しましたわ。私は狭量な女ではありませんから、男性の移り気は受け入れましょう。けれど、他の女に目を奪われながらも、本妻にはそれなりに気を遣う。本妻が気を悪くしないように、いつもの百倍は気を遣う。そういったことが出来ない男は、仕事ぶりも期待できませんわよね。つまり、ラファエル様にはもう期待できませんわ。その上私に愛情をそそげない男なんて私には必要ないのですから」
「王立学園でのお前の振る舞いを僅かばかり温和なものに変化させれば、上手く行く事もあるだろう。そう思い、お前に時間を与えたんだがな」
「愚かな事をおっしゃるのですね。誰かに愛されるために己を偽れなどと!」
全ての人のありのままを受け入れるのが神様なのではないのか。
私が睨むと、カミシールは頭を抱えた。
「あぁ、くそ、お前と話していると頭が痛くなる」
「お可哀想に。私に触れたくとも触れられないもどかしさ、その切なさ、お察しいたしますわ」
「見た目だけは美しいのが尚更腹立たしいな」
「そうでしょう、そうでしょう。美しさとは罪深さですわ。私はその罪を背負って生きる覚悟はできておりましてよ」
「……リディス。頼むから、娼館には行くな。我が何のために時間を戻したのか、分からなくなってしまう」
「なるほど。カミ様は、私が不特定多数の男性に愛されることが嫌だとおっしゃるのですね。それなら、理解できましたわ。私は純真さを失うべきではない、ということですわね」
「理解してくれたのなら、もうそれで良い」
「分かりました。カミ様に誓って、私は娼館にはまいりません。巻き戻った時間をどう使うか、もう暫く考えてみることにしますわね」
確かに言われてみれば、私の純潔というのは天馬の涙と同じぐらい希少価値が高いものだ。
娼館には上流階級の者しか訪れないとはいえ、有象無象であることに変わりはない。自ら進んで捧げてしまうのは、世界の損失ともいえるべき非常事態だ。
希少価値が高いということは、利用できるという事だろう。なんせ創造神だの唯一神だのと言っているカミシールまで嫉妬を抱くくらいなのだから。
私は深く納得した。
「ではな、リディス。もう呼ばずにすむことを願っているぞ」
「用事があるときは呼び出さずに、そちらから私のところへ来てくださいませ。いちいち殺風景なこの部屋に呼び出されるのは、正直面倒ですわ」
「本当に、可愛げがない……!」
白い世界が、ぐにゃりと歪んだ。
そして私は意識を失う前と同じ自分の部屋の柔らかいベッドに、座っていた。