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「さて」と、リアが呟いた。
私はお皿の上のフルーツを食べ終えていて、リアのワイングラスも空になっている。
話はこれでお終いということなのだろう。
彼の目的は分かったし、私としてももう尋ねるべきことはない。一先ずは、私は交渉の材料になるようなので、危害を加えられることはないはずだ。
リアは立ち上がり、私の隣にくると手を差し出した。立てと、言われているらしい。
拒否する理由はないので、その手をとって立ち上がる。
「リディスさん、不自由なことがあったらなんでも俺にいってくださいね。俺がいなければ、木精の皆さんで構いません」
「木精の方々は、リア様を慕っておりますのね」
「人狼族と木精の皆さんは共に森に住む種族として、古い馴染みなんです。俺と違い彼らは善良ですから、怖がらなくても大丈夫ですよ」
「私は、あなたの事も怖いとは思っていませんわ」
「それは良かった。怯えて泣いたり叫んだりするような人だったら、少し面倒だと思っていたんです」
廊下側とは反対側の扉をリアは開いた。
そこは寝室だった。壁にドライフラワーで作られたリースが飾られ、壁紙は白に蔓草模様が描かれている。
大きめのベッドが真ん中に置いてあって、姿見とクローゼットと化粧机が壁際に並んでいる。
一見して女性のものと分かる、華やかな雰囲気の部屋だ。もしかしたら、元々ここはアリアの部屋だったのかもしれない。
私は部屋の中に手をひかれて通される。部屋に入り立ち止まったところで、リアは徐に私の体を持ち上げた。それから、そっとベッドへと横たえた。
途端に立派なベッドの飾り細工がされた黒い鉄枠から、草の蔓のようなものがするすると伸びて、私の両手を拘束する。
両手を上に伸ばした無防備な姿で、私はベッドに繋ぎ止められた。
満足げにリアが私の姿を見下ろしている。
どうやら彼は柔らかな物腰と相反して、いたいけな美少女を拘束して楽しむ癖があるようだ。アスタロトもそうだったけれど、長年生きていると歪んだ趣味を持ってしまうものかもしれない。
長く生きているせいではなく、私という国すら傾けるほどの美しい少女に出会ってしまったから、という方が正しい気がするわね。
蔦が絡みついた私は、絵画に残るぐらいに耽美に違いない。
クライブなどが私の姿を見たら、「あぁ、私の女神、なんとおいたわしい……、すぐに助けたいところですが、その前に絵師を呼びますのでお待ちください」と言って本当に絵師を呼びかねない程に、蠱惑的な様相であることはまず間違いない。
「リディスさん、痛くないですか?」
蔓が絡み付いた手は、くいくいと引っ張っぱるとある程度は動くし、痛いということはない。
首を振ると、リアは安堵したように微笑んだ。
心配するならこういった行為に及ぶ事を考え直して欲しい。
でもきっと身動きが取れず無防備な姿を晒している私の艶やかさや色香はきっと止まる事を知らないので、リアが道を踏み外してしまう気持ちも理解できる。
私としては支配的な愛情も快く受け入れて差し上げたいところだ。
でも四六時中拘束されたら生活に支障をきたすので、難しいところね。
「リア様、ジルベルト様には……」
いつ交渉をするのかと気になったので尋ねてみた。
「ジルベルトは多分すぐ来ますよ。君がどこにもいないことに気づけば、まず俺を疑うでしょうから」
それは多分、その通りなのだろう。
ジルベルト様はあれこれ言っていても、私を気にかけているようだから、お城から私が消えればすぐに気付く筈だ。
ただそれをここで待っているだけというのも、情けないわよね。
私が今できることはリアと対話をし、彼を懐柔すること。
そしてジルベルト様との交渉を、なるだけ穏便に行ってもらうこと。できればリアとジルベルト様の関係が修復できたら一番良い。
リアが部屋を出て行こうとしているので、私は呼び止めた。
「あの、リア様」
「どうしました、なにかありますか、リディスさん」
「私、逃げたりしませんわ。この蔦を、外してくれると有難いのですけど」
引き止めるには良い口実だろう。
私は両手を差し出して、腕に蔦が絡んでいるのをリアによく見えるようにした。
私の白く細い腕に巻き付く黒に近い深い緑色の蔓は、同情を誘えるぐらいには残酷さが漂っている。
リアは目を細めると、暫くそれを眺めた。
「君は恐らく賢い人で、それから多分気丈で強い人だ。逃げないという口約束は、俺は信用できませんね」
「私は……、今はアンネマリア公爵令嬢ではありませんから、家名に誓う事はできませんけれど、約束を違える事はしませんわ」
リアはもう少し会話を続ける気になったのだろう、部屋の扉付近に立っていたのだが、私の傍へと近づいてくるとベッドの脇に腰を下ろした。
長い脚を組み私の腕に視線を送ると、指先で蔦と皮膚の境目を辿った。
狼のような耳があるのだから、尻尾もある筈よね。黒い服の上から体を覆うマントに隠れて見えないのがとても残念。
私は動物の中では三角形の耳と長い尻尾があるものが一番好きなので、尻尾があるなら是非拝見させて欲しい。
「アンネマリア公爵家とは、エヴァンディア王国に古くからある、王家に近しい家ですね。確か血塗れクライブが拾われた……、外側から一瞬世界が繋がった時に、クライブの魔力の気配を感じたので、君はクライブの関係者だとは思っていたんですけど。君の家には、まだ彼がいるんですね」
「えぇ。クライブは、吸血族でしたわね。もう血を飲むことはやめたと言っていましたわ」
「ふぅん、あの彼が。それは随分と我慢強い事です。君は、クライブに騙されて此方に来たのではないんですか?」
「私の知るクライブは、私を騙すようなことはしませんわ。私が頼んだのです、魔族の王の元へ行きたいと」
リアは不思議そうに首を傾げた。
私の腕を彼は先程から指先で撫でているのだけど、くすぐったいからやめて欲しい。
「君はジルベルトの事を知っていたわけではないでしょう」
「知っていたのは、大戦があった事と、大戦の後に住む世界を違えてしまった事ですわ。私はジルベルト様のお心を溶かし、世界を繋げるために来ましたの」
「そんな君が、森の中で獣に追われていたのは何故ですか?」
それはこちらに来てから色々あったので話すと長い。
私はどこから話そうかと考える。
「掃除婦から転職して、最近、料理長になりましたの。火精の皆さんに頼まれて、森で食材を採集したり、湖で釣りなどをしていたら、襲われてしまったという事です」
「掃除婦。料理長。湖で釣りを……。まぁ、細かい事は一先ず良いとして、つまり君はジルベルトの伴侶では、未だ無いという事ですね」
「時間の問題ですわ。ジルベルト様は清い体を守り続けていたので、中々素直になれないのです」
「アリアとユールの事があった上に、俺たちとの揉め事も近くで見ていて、その上心無い魔族の女たちに体だけを欲されたら、嫌にもなるでしょうね。ジルベルトは、純粋で生真面目ですから」
「そうですわね」
ジルベルト様の抱えている過去については私は詳しい事は知らなかったが、純粋で生真面目という言葉は正しい。きちんとした評価をリアがしていることが、嬉しい気がした。
私があれほど許可をしていても、中々触れてこようとしないのはきっと生真面目だからだ。
それは評価するべきところであって、怒ってしまったのはやはり間違いだった。
食事の時の事を、謝らないといけないという決意を新たにした。
「リディスさん、という事は君もまた、未だ純潔ということですね」
「リア様、それはわざわざ女性に確認するべきことではありませんわ。私は純潔を守っておりますけれど、心無い方々にそれを散らされてしまう、力ない女性も多くいるのですよ。不用意な言葉は、知らず人を傷つけるものですわ」
「あぁ、すみません。つい、嬉しくなってしまって」
私が注意すると、リアは素直に謝った。悪意のない純粋な質問だったようだ。
年が下の女性から叱責を受けると腹を立ててしまう男性も多いのだが、リアはあまり気にしていないように見える。
「嬉しいというのは、よく分かりませんわね」
「それはこちらの話なので、忘れてください。君はまだジルベルトのものではないとはいえ、あの人間好きのアスタロトの居る城で君の存在が守られていたという事は、ジルベルトが君を守っていたということですね」
「アスタロト様は確かに、人間が好きだとおっしゃっていましたわ」
「色々な意味でね。それにしても、気にかけながらも未だ手を出さず、無理やり国に追い返すこともしないなんて、ジルベルトは余程君が気に入っているようだ。ジルベルトが俺のいう事をきくなら、君の事を返してあげようと思っていたけど、嫌になってしまったな」
リアの手が、強く私の腕を掴んだ。そのまま腕を引かれ、リアの方へと強引に体を引き寄せられる。
ドレスの裾がはだけて足が付け根の方までむき出しになってしまったが、自由が利かないのでなおすこともできない。
特に見られて困るところのない、白くたおやかで非の打ちどころのない形をした足なので別に良いのだけど、両腕を拘束されて無理やり引き寄せられるなど、中々倒錯的な状況ではあるなと思う。
娼館で働いたとしても、中々無い経験をしている気がする。世の中には色々な趣味の方がいるものだ、大変勉強になる。
「ユールが俺から姉さんを奪ったように、俺もジルベルトの大切なものを奪ってやりたくなりました。君が俺のものになったら、ジルベルトはとても傷つくのでしょうね」
「お姉様を失って辛いお気持ちはお察ししますけれど、ジルベルト様は、ユール様ではありませんわ」
「王はハインゾルデ様の力を継いだときに、記憶も受け継ぐんですよ。ジルベルトは、ハインゾルデ様であり、ルシスであり、ユールなんです」
「記憶を継いだとしても、成り代わるわけではないでしょう。リア様たちは同族意識が強いとおっしゃいましたわね、ジルベルト様はあなたのお姉様の子供、あなたにとっては大切にするべき同族の一人ではありませんの?」
「どうでしょうね。ジルベルトには直接の恨みはありませんが、姉さんや同族を失ったのは、ルシスやユールのせいには違いありませんから、王に復讐をするとしたら王が大切に思っている君を傷つけるのが、一番早い。それに俺は君の事を割と気に入っているんです」
それはそうだろう。
人質のつもりで傍に置こうとした私と話すうちに、つい心惹かれてしまうのはごく自然な事なので仕方ない。
リアはアリアの復讐という大義名分を掲げているけれど、私の事が欲しくなってしまっただけだと正直に言ったとしても、私は優しいので軽蔑したりはしない。
「リア様、私のような聡明で思慮深い美少女を手に入れたいと思うあなたのお気持ちは、よく分かります。私を前にすれば、それは誰もが抱く欲望でしょう。けれど、それでは寂しいあなたの想いは埋まりませんわ。私の心を手に入れたいなら、順番は守ってくださいまし。ジルベルト様にこの身を捧げると約束した私は、それを果たさなければなりませんの」
「約束は守ると、先程も言っていましたね」
「ええ、私は一度言ったことはやり遂げることに決めておりますの。リア様の事も、その後でなら存分に愛して差し上げてよ」
「俺の事、も? まだ誰かいるんですか。あぁ、もしかしてアスタロトにも同じように言いましたか?」
「えぇ。リア様、大丈夫ですわ。私の優しさや愛情は、尽きるということはありませんのよ」
私はシンシアさんの様に数多の男性を侍らせる趣味はないのだが、お兄様やクライブ、アスタロトやリアが私の傍に居たいというのなら、それを受け入れる器の大きさは持ち合わせている。
彼らが私を愛し、ジルベルト様の傍に居る私の為に尽くしてくれるというのは、王となったジルベルト様の為にもなるのでそう悪い事ではないだろう。きっと理解してくださる筈だ。
リアはくすくすと笑った。笑うと切れ長の目が更に細くなり、余計にユキキツネに似ている。
「クライブを従わせ、アスタロトを軽くあしらえるなんて、本当に強い人ですね。姉さんも君の様に強い人であれば、消えずにすんだかもしれません。……でもね、リディスさん。俺は、悪い狼なんですよ」
「悪い狼と言ったのはアスタロト様で、私は命を助けて頂きましたし、親切な方だと思っておりますわ」
「君の気持ちを裏切るのも、俺にとってはなんてことはないんです」
私の首筋を、犬歯の尖った歯がかぷりと噛んだ。
痛みに眉を寄せる。皮膚に尖った牙が食い込んでいるのが分かる。
動くことが出来ずに受け入れるしかない私に覆いかぶさると、リアは一度離れて私の顔を見下ろした。
彼はにっこりと微笑んだ。
「数日待とうかなと思っていたんですよ。でも、君が俺を引き留めるから、我慢できなくなってしまいました」
「お行儀の悪い方は、あまり好ましくありませんわ」
「構いませんよ。俺を恨んで、泣いて、喚いてください」
噛み痕に唇が落ちる。
私の視界には彼の狼耳がうつり、そう悪い光景ではない。ふさふさしていて可愛らしい。
どうしたものかしら。
対話をして心を解そうかと思ったけれど、余計な事をしたのかもしれないわね。
何と言って説得しようか迷っていると、部屋の外から木精の方々の「お客様です」「お客様です、リア様」という声が部屋に響いた。