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部屋に戻りドレスを脱いでクローゼットの中に戻すと、足首の下まで隠す作りになっている乳白色の寝衣に着替える。
結っていた髪を解いて、もう一度お風呂に入ろうかどうか考えて、明日の朝にしてしまおうと思いベッドに体を横たえた。
寝返りを打つと、ベッドの横の小さなテーブルに、手紙が置いてあることに気づく。
あまりお行儀が良いとは言えないが、横になったまま手を伸ばして手紙を手に取り、ぼんやりと眺める。
そこにはさらりとした手触りの白い紙に『リディスちゃん、美味しいご飯をありがとう』と流れるような黒い文字で書いてあった。
多分、アスタロトからのお礼の手紙だろう。
こちらの文字も、私の国のそれと同じであることに少し驚いたが、大戦の前は王国で共に暮らしていたようなので、言語も文字も同じだというのは納得がいく。
ジルベルト様が食事の場にアスタロトを招待しなかったというのは、私と二人きりになりたかったということだ。
それなのに。ジルベルト様の先程の態度は、長らく女性の相手をしていなかったとしても、褒められたものではないと思う。
国に帰った方が良いだなんて。
私は目を閉じる。怒ったり、不安になったり、私らしくもない。こういう時はさっさと眠ってしまった方が良い。
目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。
いつでもどこでもすぐに眠ることが出来るのは、私の特技の一つだ。
そうして私は、普段はめったに見ない夢を見た。
私の前に、瞳を涙で潤ませた、小柄な少女が戸惑ったように立っている。
彼女は学園の制服をきちんと身に纏って、肩までの栗色のふわりとした髪をハーフアップにして緑色のリボンを結んでいる。私はそのリボンがラファエル様から彼女に贈られたものだと知っていた。
それはラファエル様の瞳の色で、つまりは彼女に対する親愛の証だ。
それはそれで、別に構わないと思っていた。王が側妃を娶るのはよくある話。ラファエル様がシンシアさんにそういった感情を抱いているのなら、それを受け入れるのも懐の深い王妃としてこれから国の為に働く、私の仕事の一つだからだ。
王妃と側妃の折り合いが悪く嫉妬などによって国が乱れて統治の質が落ち、人々の暮らしにまで悪影響を及ぼした話というのは、長い歴史の中はそこここに見受けられる。
そうならないように心掛けなければいけない。
私はシンシアさんにラファエル様の心を奪われたという事については、怒ったりはしていなかった。
長らく私という婚約者しか見て居なかったラファエル様が、シンシアさんという珍しい出自の無力な少女に庇護欲を抱いてしまうのは、高級なお肉を食べ飽きて市場の露店の料理を美味しく感じるということに似ている。
「……ラファエル様、私、私」
おどおどとした少女の声に呆れ果てる。
私はそこでどうしてラファエル様の名前を呼ぶのかが良く分からなくて、首を傾げた。
「アナホリヤスデの方……いえ、シンシアさん。私はあなたとお話しをしておりますのよ。ラファエル様は今は、関係ありませんわ」
「あの、私……」
「皆さん、あなたの態度に困惑しております。私から王妃の座を奪いたいと、その心意気は認めておりますわ。けれどラファエル様だけではなく、他の方々の婚約者の男性にまで手を伸ばそうとするのは、少々強欲ではありませんこと?」
「そんなつもりはありません……!」
「節度を弁えるという意味を、学園でよくよく学ぶことです。まずは節度という言葉を、辞書で調べてみなさいな。辞書と言えば、メーザンヌ先生の書かれた王国用語辞典が一番詳しく分かりやすいですわ。シンシアさんは持っていないと思いますので、図書室になどいかれると良いと思います」
本というのは高級だ。
辞書で調べろと言ってしまったが、シンシアさんが辞書を持っていなければ、ただ公爵家の資金力をひけらかしたに過ぎないので、それはいけない。
私はどうすれば良いのかをなるだけ丁寧に教えて差し上げた。
「ひどい、私、私の教科書は……」
「背筋を伸ばし、前を向いて話しなさい。ラファエル様の傍にいるということは、私と切磋琢磨し、王国の更なる発展を目指すということ。いつまでもジメジメツムリのように泣いて、アナホリヤスデのように土の中にもぐっていては、なにもはじまりませんわ」
「私は虫じゃ、ないです」
とても小さな声でシンシアさんが反論する。
反論するのは良い事だ。その調子で私に立ち向かってくれなければ、とても王城での暮らしには耐えられないだろう。ラファエル様の傍に侍る限り、シンシアさんは完璧に王妃の仕事を行う私と比べられてしまう。
国の人々からの税で国費は賄われている。それを頂いて暮らしていく以上、側妃といえども皆の見る目は厳しいものになってしまうので、このままのシンシアさんでは認めてなどもらえないだろう。
「ともかく、ラファエル様以外の方々から向けられる愛情は、きちんとあなたが拒絶なさい。名前は申し上げられませんけれど、学園の令嬢の方々はそれなりに地位がありますの。その方々の婚約というのは家同士の繋がり、領地を健やかに治めていくためのものですのよ。男性があなたに庇護欲を抱いてしまうのは、どうしようもないことですけれど、それならばあなたが誠意を持った対応をするべきですわ」
「私、ただここで、勉強をしているだけで、そんなつもりはなくて……、リディス様に迷惑をかけるつもりも、嫌な思いをさせるつもりも、なかったんです。……私が嫌いですよね。ごめんなさい」
「今は個人の感情の話はしていませんけれど、私としては別にあなたが嫌いとも好きとも思っていませんわ。立場のある者が、感情で物事を考えるのは、愚かな事でしてよ。それでもあなたの振る舞いで、感情が乱れてしまう方もいるのです。よく考え、己を振り返り、改めなさい」
シンシアさんはそこでどういう訳か、両手で顔を覆った。
また、泣いている。
私はとても理性的に、理論的に、優しさをもって指導していたつもりだった。この程度の言葉でも泣いてしまうようでは、どうしようもない。
それにしても、どの言葉がシンシアさんを傷つけたのだろう。
他の男性の方を拒絶しろと言った事だろうか、シンシアさんには今の状態が居心地がよく、それをするのがどうしても嫌だと、そういうことなのだろうか。
そうだとしたら随分と、気が多い方ね。
数多の男性を侍らせるのが好きだという変わった性癖をお持ちだとしたら、私にはどうする事もできない。
「リディス、そのぐらいでやめておいてあげたらどうだろう」
先程からシンシアさんの隣で私たちのやり取りを見ていたラファエル様が、困ったように言った。
「そうですわね。泣いている方は何を言われても、責められているようにしか感じられないのでしょう。きちんとした対話を望んでいたのですけれど」
「君の言葉は正しいのだろうけど、シンシアはまだ貴族社会に慣れていなくてね」
ラファエル様はシンシアさんを庇った。
公爵令嬢である私の立場は強く、男爵令嬢になったばかりのシンシアさんは弱い。学園で一番の権力を持っているラファエル様が立場が弱い上に泣いているシンシアさんを庇うのは、正しいのだろう。
私は溜息をついて、去っていく二人を見送っていた。先が思いやられると、少し頭が痛かった。
その後そのやり取りを見ていた令嬢の方々が「シンシアさんは許せない」「リディス様、傷つけられてお可哀想」などと言ってきたのだが、私としては特にそんな気持ちはなかったので、頷いて聞いておくだけに留めた。
令嬢の方々も善意で怒ったり同情したりしてくれているので、その気持ちを無下にする必要もない。
ラファエル様に庇護されている以上、彼女達も直接シンシアさんに何かを言う事ができないのだ。私を頼ってくるのは当たり前なので、どうにかシンシアさんには理解していただかないとと、思っていた。
また、一つ前の私のことを思い出してしまった。
夢を見てしまったのだから、どうしようもない。夢というのは自分で操ることができないのだから、これは不可抗力だ。
私はすっきり目覚めて軽くなった体をベッドから起こすと、窓の外を眺める。
薄暗いのは変わらずだが、夜が明けたようだった。
ジルベルト様に対する憤りは嘘のようにおさまっている。
なんだか理不尽に責めてしまった。怒りを露わにして強い口調で責めるなんて、私らしくもない。
それに、「ずっと料理長のままでいる」だなんて、まるで料理長の仕事がジルベルト様の傍に侍ることよりも下位であるような言い方をしてしまった。
これでは、料理人の方々に申し訳ない。やはり、きちんと休息を取らずに疲れたまま活動するのは、何も良い事がない。
ジルベルト様には、会ったら謝らなければいけないわ。
それに料理長として私は一度しか料理をしていない。これではいけない。まずは何よりも、自分に与えられた仕事を確実に行う事が大切だもの。
私には落ち込んでいる暇なんてない。
私はさっさと湯浴みを済ませて、ついでに汚れた服を洗って浴室の壁にあるフックに一先ず干すと、使用人の服装に着替えた。髪を結って、部屋を出る。
あまり良い夢を見たとはいえなかったが、過去の事ばかりを思い出していた私を夢が咎めてくれたということだろう。もう思い出さなくて良いと、言われている気がした。
「ごきげんよう、火精の皆様。私、早起きなのですけれど、皆様はもっと早いのですね」
調理場の扉を開くと、火精の方々がざっと見渡して十名弱ほど、忙しなく動き回っていた。
私の昨日作ったスープは煮込まれて、イッカクツノウサギの残りのお肉は綺麗に切り分けられ、干し肉や腸詰にも加工されているようだった。
「おはようございます、リディス様。リディス様は、もっと眠っていても構わないのですよ」
「お疲れでしょう、朝食を運びますので、お部屋で休んでいてください」
火精の方々が、口々に言う。
私はそういう訳にはいかないと、首を振った。
「私、料理長リディスと名乗った以上は、皆様と一緒に働きますわ」
「リディス様、お気持ちは嬉しいのですが、私たちはこれまで随分と役目を放棄してきました。私たちは王の心を慰めるために、長く続く魔族の生に彩りを与えるために、私たちにできることをしていたのです。でも、飽きてしまったのか、嫌になってしまったのか、今となってはよく分かりませんが、ユール様の治世がはじまり、ジルベルト様がおうまれになる前に、私たちはやめてしまったのです」
「人の生は長くても五十年ほどで終わります。私たちは、大抵の場合四十を超えると、病などでこの世を去りますわ。あなたたちは、千年前の大戦の後からずっと働いていたのでしょう。嫌になることも、疲れてしまう事もあるでしょう。同じことを繰り返す日々の大変さ、少しは理解できるつもりです」
私にもここに来た時には、一度目の人生をまた繰り返したくないという思いがあった。
ジルベルト様の言うように、その意味では確かに私は逃げたのだろう。
学園から、シンシアさんから。そして、ラファエル様から。
後悔はしていない。それが間違っているとも思わない。私は私の思うように生きるだけだ。
ジルベルト様にお会いして、こちらで暮らして数日。学ぶことは多く、充実している。私の選択は正しかったように思う。
もし学園に行くことを選んでいたら、私は再び同じようにシンシアさんに指導をしていただろう。結末を知っていたとしても、自分を偽ってまで生きることにしがみつこうとは思わない。
「リディス様、ありがとうございます。私たちは、今までの分を取り戻さなければいけません。リディス様の料理は素晴らしい。料理がというよりは、込められた思いが素晴らしい。頑なに人の文化を拒んでいたジルベルト様のお心を揺り動かしたのですから。私たちもジルベルト様やリディス様に喜んでいただきたいのです」
「ジルベルト様は、人を嫌っていらっしゃったの?」
「嫌っていたのは、ルシス様の妄執。ユール様を苦しめ、ジルベルト様もまた苦しんでいらっしゃるのでしょう」
「そうですの。……それは、私が今ここで知るべきことでは無いように思いますわ。火精の方々、あなたたちの気持ちはわかりました。私が手伝うことは、あなたたちの気持ちを顧みないということ。料理は、任せることにしますわね」
気にならないわけではなかったが、ジルベルト様の苦悩を彼の知らないところで、勝手に聞き出すのは良いこととは思えない。
まずは、料理長としての私の在り方を考え直さないといけないようだ。
私が調理場の手伝いを辞退すると、火精の方々は嬉しそうに私の周りをくるくると舞った。
「私に、他にできることはなにか、ありませんの?」
「リディス様、もし甘えても良いのなら、森で食材を採取してきて欲しいのです」
「私たちは料理は得意ですが、採取はできないのです。それは、木精たちの仕事でした。木精たちは、森に住んでいたのですが、私たちが料理をやめてからは姿を見ていません」
「わかりましたわ。採取は、得意ですのよ。任せてくださいまし」
私は仕事を任せられたので、嬉しくて一人の火精の方の手を握って軽くふった。
火精の方の耳がぱたぱたと動く。嫌がられてはいないようだ。
「リディス様、裏庭で取れたパンの実で、パンを焼いたのです。本物のパンは、木精たちが集めた材料じゃないと、作ることができないので」
火精の方々は、そういうと竃から天板を抜き出してきた。
そこには、平べったい白くて焦げ目のついた香ばしい香りのするものが、並んでいた。
パンの実は、潰してお水を混ぜてこねて焼くと、パンに似た味のする食べ物が出来上がる木の実のことだ。
パンほどには膨らまないが、食感も良く似ている。
「素敵ですわ。ローストした薄切りのお肉と香草を挟んで、サンドイッチにしましょう。あなたたちは、ジルベルト様とアスタロト様にとどけてさしあげてくださる?」
私が言うと、火精の方々は素早く動いて、あっという間にお皿の上にサンドイッチが並んだ。
私は調理場にあった紙袋に、二袋分サンドイッチをつめる。
一つは私のお弁当、一つはクロネアさんにあげる用だ。
火精の方々はクロネアさんをよく思っていないので、私が持って行った方が良いだろう。
きっとクロネアさんも私に会いたいと寂しがっているだろうし。
「リディス様、ジルベルト様のところに行かれるのではないのですか?」
「私は、クロネアさんにお食事をとどけてから、森に採取にまいりますわ。サンドイッチはありがたく頂いていきますわね」
「クロネアに?」
「リディス様、なんてお優しい」
「クロネアさんにも事情があったのです。美味しいお食事をとれば、きっと心の乱れも落ち着くでしょう」
調理場を出ようとすると、火精の方々は口々に「気をつけてください」と言って送り出してくれた。