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明けの明星のような瞳が射抜くように私を見ている。
それは真夜中の静寂のように感情のよめない視線だった。
ジルベルト様は口を開くと感情の動きが分かりやすい愛らしい方だが、黙り込んでしまうと雰囲気が一変する。
「何を言ってるんだ馬鹿女」と言われて触れた手を跳ね除けられるのかと思っていたのに、予想を外した。
薄暗い雲間から時折差し込む光が湖に反射して、きらきらと輝く。鬱蒼とした森の風景と神秘的な湖が、不意にとても美しいもののように感じられた。
世界に二人だけ取り残されてしまったような、それでも大丈夫だと思えるような不可思議な気持ちだ。
すこし、戸惑う。
私はなんだか恥ずかしくて、それと同時に逃げたくなってしまった。
こんなのは違う。違うのに。
何でもなかったように離そうとした手を、掴まれた。引き寄せられ、顔が近づく。
私を見つめる瞳に加虐的な熱が篭るのがわかった。
「良いんだな?」
なんのことだろうと一瞬思ったが、私が許可を与える前に噛み付くように唇が触れる。
体格差もあり、抱き込まれるとすっぽりと私は腕の中におさまってしまい、身動きを取ることができない。
私には拒否する理由も抵抗する理由もないので、ちょっと驚いたけれど、受け入れるためにその背中に手を回した。
どこもかしこも硬くて、しっかりしている。背中に回した腕は抱きしめるまでには至らず、縋り付くようになってしまった。
私の唇の隙間から、大きくてぶあつい舌が口の中にぬるりと入ってくるのがわかる。
それは一生懸命口を開かないと私の中には入りきらなくて、ぐいぐいと押し込まれると喉の中にまで届きそうな圧迫感に生理的な涙が滲むのがわかる。
唇が私の口を覆う。
「ん、ぅ……っ、」
吐息と、甘えたような声とくぐもった水音が静寂の中に響いた。苦しさに身動ぐ。
一瞬離れて呼吸をつないでも、逃さないとでもいうように再び唇が合わせられた。
いつのまにか膝の上に抱え上げられている。身じろぐ事さえできないぐらい、しっかりと抱きしめられている。
「っ、んっ……、んぅぅ……」
酸欠で頭がぼんやりする。
まるで食べられているような長い口づけの後に、何度か優しく唇を吸われる。
獰猛な輝きを秘めた瞳が私をじっくりと眺めている。
呼吸が整わず、体に力も入らなかったので、私はジルベルト様に抱き抱えられたまましばらくぐったりしていた。
昨日のそれとは全く違う深い欲望のこもった激しい口づけだった。私にとって、きちんとしたはじめてのもの。
一回目の私も、経験していなかったもの。
ラファエル様は優しく、私も節度を守っていたので、手が触れ合うことはあったけれどそれ以上のことはなかった。こう言ったことは、婚姻を結んでからだと思っていた。
今の私はジルベルト様に既に全てを差し出している。それに、アスタロトの話だとジルベルト様の子を私が産んではじめて、彼は王という資格が得られるようなので、特に婚姻の儀式などはないのだろうし、どれだけ触れていただいても問題はない。
問題はないのだけど。
ジルベルト様が溜まりに溜まった欲求を私にぶつけたい気持ちはわかるけれど、いささか激しすぎるのではないかしら。
神秘的な森の中で交わす初めての口付けというのは、普通もっと初々しいものではないのかしら。
やっぱり禁欲生活が長いとそういった甘酸っぱい恋愛の段階を踏むというのは、難しいのかしら。
よくわからないわ。分かるのは、ジルベルト様はやっぱり私を愛している、ということぐらい。
私は体がふわふわして落ち着かなかったので、ジルベルト様の胸にもたれた。だらしなく開いている襟の隙間から、立派な鎖骨が見える。
「……リディス、お前は俺の事を小馬鹿にしていたが、お前も似たようなものだろ?」
「……なんのこと、ですの?」
「それとも国に好きな男でもいたのか。お前に誰が触れた?」
首を傾げると、ジルベルト様の声に苛立ちが混じった。
「私、誓って清い体でしてよ。……貴族の娘は家のために使われるものですから、そういったことも学んでおりますけれど、座学だけですわ。私のような可憐な少女を前に不安になる気持ち、お察しいたしますけれど……、私、本当に、はじめて、でしたのよ……?」
これだけ激しく貪られて、疑われたら私としてもたまらない。
きちんと言わなければと思い、ジルベルト様を見上げる。
射るように私をみおろすジルベルト様の視線からははっきりと、欲望の色が見てとれる。
流石長い間清い体を拗らせ続けているとあって、一度箍が外れたら止まる事を知らないのだろう。
頬を上気させて、涙で瞳を潤ませた純粋無垢な森の妖精と見紛うばかりの愛らしい私を膝に乗っけているのだから、それは理性だって砂上の楼閣のように簡単に崩れ去る筈だ。
私としてもジルベルト様が欲するのならいつでも、全て差し出す準備はできている。
けれど、ジルベルト様が二百年大事に抱え続けてきた清い体を捨てる記念すべきその時は、こんな屋外ではなくて、折角ならもう少し雰囲気を大切にして差し上げたいと思う。
私は配慮のできる美少女なので、着るものや下着も拘っていきたい。
世の中には童貞にとどめを刺す服装があるらしいので、そこら辺の方とは比べ物にならないぐらい貞操を大事にし続けているジルベルト様で試してみたくもある。ちょっとした好奇心だ。
「はじめて、でしたのに……、こんなに激しく、だなんて……、次からはもう少し手加減、してくださいましね」
こういったことは相互理解が肝心だと思う。
私を前に理性が溶けてしまう気持ちも分かるが、仕事中に毎回獣のように襲われても困ってしまうし、彼の粗野な見た目通り乱暴にされるのも好まない。
物事は初めが肝要。ちゃんと最初に躾けておかなければいけないわ。
詰るように言うと、ジルベルト様はふと我にかえったように目を見開いて、頬を染めて視線を逸らした。
「……本当に、国に好きな男がいたんじゃねぇのか?」
「いませんわ。随分、気にされますのね?」
「最初は、ただ単にお前の性格の問題で、国を追われたんだと思った。だが、考えなおした。お前は無礼な馬鹿女だが、それだけじゃねぇ、ってな」
「……ジルベルト様、これだけ私を好きにしておきながら、愛の言葉一つくださいませんの?」
ラファエル様は私に会うたびに優しく微笑んで、「可愛いリディス」「私のリディス」「愛しているよ」と日頃の挨拶のように言ってくださったけれど、ジルベルト様は言葉で表現するのが苦手なのかもしれない。
ジルベルト様が一目見た瞬間から私を恋しく思っていることなど分かっているし、腕の中に抱かれている今憎まれ口などまるで説得力がない。
あと一歩、惜しいところね。
「お前が煽るからだろ!」
「ジルベルト様、酷い……!」
私は閃いた。
今こそカミ様が言っていたように、シンシアさん力を発揮する時だ。
シンシアさんのようには生きられないが、良いところは参考にするのが、賢いやり方といえるだろう。
ここぞとばかりに、ジメジメツムリのようにふるふると震えてみせる。
これでジルベルト様もムシクイの穴に落ちるマルマル虫のようにいちころに違いない。
「……やめろ、リディス。俺は、無礼で傲慢なお前と話してる。どこかの愚かな女のふりはしなくて良い」
「え……?」
「今の言葉は、お前じゃねぇだろ。腹ん中じゃ、そう言っときゃ大抵の男は折れるって思ってんのがお前だろうが」
よく分かっているわね。
所詮は付け焼き刃のシンシアさんとしての私だ。まだ練度が不足しているようだ。
それにしても、ジルベルト様は案外きちんと相手を見ている。意外だった。
「そうですわね……、これぐらいで傷ついていたら、生活に支障をきたしますもの。でも、私にも、はじめての理想ぐらいは、ありましてよ」
「理想、ねぇ」
「ええ、たとえばこのように」
私はジルベルト様の頬に手を添える。
訝しくこちらを見る彼を引き寄せると、そっと触れるだけの口づけをした。
ジルベルト様は呆気にとられたように目を見開いている。
私は切なげに微笑むと、囁くように小さな声で伝えた。
「……お慕い申し上げておりますわ。これが最後、になさらないでくださいましね」
ジルベルト様は私の肩口に額を擦り付けるようにして俯くと、よく聞き取れないが唸り声をあげる。
私に二百年間清らかな方が勝てると思ったら大間違いだ。
つまりやはり私は、シンシアさんになる必要はないということだろう。