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料理長リディスと森の狼 1



 アスタロトに料理を振舞うと宣言した私をじっと見た後、彼は不思議そうな表情で首を傾げた。


「掃除婦をやめることと、僕に食事を作ることは何か関係している?」


「健やかな生活を営むために必要なのは、衣食住と相場が決まっておりますわ。掃除婦の仕事はクロネアさんにお譲りして、着るものには不自由しておりませんの。不足しているのは、食事ですわね」


「リディスちゃんの食事は僕が用意するよ?」


「私、気づきましたのよ。私が森林グリズリーの毒に気づかなかったのは、私の知識不足が原因なのでしょう。アスタロト様は私に、それを指摘したかったと、そういう事でしたのね。知識をつけるためには、座学と実践、料理長という仕事は双方を満たせるとても素晴らしいものでしてよ」


 私はアスタロトの行動をとても好意的に解釈してあげる事にした。

 性癖と愛情が歪んでいる方に直接それを指摘するのは賢明ではない。私は聖母のような心を持っている愛情深い少女なので、ちょっと歪な愛情表現も受け入れることが出来る。

 それでも、食事のたびに生死の境を彷徨うわけにはいかない。

 アスタロトの申し出はその心中にはまるで気づいていない愛に鈍感な女のふりをして、春の心地良いそよ風のようにそっと、そおおっと、受け流すのが賢い美少女というものです。


「……ふうん」


「森は危ないと言っていた気がしますけれど、城のすぐ傍程度なら、食材を取りに行っても?」


「そうだねぇ、城の周りだけなら何かあれば僕もすぐに気づけるし、害意のある小者は若君が怖くて城には近づけないし、まぁ、大丈夫じゃないかな」


「分かりましたわ」


「リディスちゃん、地下牢にはクロネアを入れるから、君の部屋は一階の客室にさせて貰うよ。それと、その服だけど……」


 アスタロトは手を伸ばして、私のエプロンを軽く引っ張る。

 今の私は倉庫から出してきたメイド用の服を着ているのだが、勝手に借りてしまったのはいけなかっただろうか。


「地下の倉庫には、大戦前の負の遺産が詰め込んであるんだ。所謂、人間たちが残していったもの、なんだけど。……リディスちゃん、可愛い。ちょっと、いけない気持ちになるよね、これ」


 こういった服を好むのはお兄様だけかと思っていたのだけど、アスタロトもこちらの方面が好きな方のようだ。

 ところどころに小さな鱗が艶めく、しなやかなひやりとした指先が、スカートを持ち上げて私の太腿に触れる。

 私は微笑みを絶やさずにアスタロトを見上げた。


「アスタロト様、……いけませんわ。私は、ジルベルト様のもの、でしてよ」


 私としたことが、言葉の選択を間違えたかもしれないわ。

 略奪愛もまた、燃え上がってしまうもの。案の定、彼は愛おしそうに私を見下ろした。

 まずいわね。

 この服の威力を侮っていたわ。お兄様を惑わせる最終兵器、なんて甘いものじゃなかった。

 その上、お兄様と違ってアスタロトには躊躇する理由など一つもない。

 私にとってはジルベルト様に不誠実な結果になってしまっても、アスタロトにとってはどうということもないのだろう。


「可愛い、リディスちゃん」


 アスタロトが舐めるような声音で言う。

 太腿を撫でる不埒な手が徐々に奥へと入り込んでくる。


「リディスちゃんって無力で脆いくせに高嶺の花過ぎて、触っちゃいけないような感じがするのがさ、へし折りたくなって、たまらなく良いよね」


「私は弓の弦のようにしなやかで柔軟でしてよ。折れる事などありませんわ」


「そうかなぁ。ねぇ、リディスちゃん。悪い事、しようか。どれぐらいで堕ちるのか、ためさせてよ」


「アスタロト様、お気持ちはとても嬉しいのですけれど、何事も順序というものがありますわ。ジルベルト様にこの身を捧げた後なら、あなたの事も、等しく愛してさしあげてよ」


 それはジルベルト様の許可が下りればの話だ。

 一度目の私は、ラファエル様の良き伴侶になることだけを考えていた。私の愛情は等しく皆に与えられるものだけれど、体はひとつきりなので、ラファエル様だけが特別だと思っていた。

 けれど娼館に送られる最中の馬車の中で考えた。娼婦とは、訪れる男性を聖母の様に愛する素晴らしい人格者なのではないか、と。娼婦とはなんと崇高な職業なのかと感銘を受けた。

 そして私もそうなるべきだろうと確信した。

 だからアスタロトの欲求がどれ程暗く重たくとも、順序さえ間違えて居なければきちんと受け止めてあげるのが、度量の深さだろう。


「ふふ、あはは……! 博愛っていうのは、本当に不誠実だよね。僕は、君が大好きだよリディスちゃん!」


 なんだかよく分からないが、アスタロトはとても嬉しそうに笑って私を抱き上げた。

 とりあえず、どこかしら淫靡な雰囲気が消え去ったので、安堵する。

 私のなにかしらが彼の琴線に触れているらしいが、掴みどころがなさ過ぎてよく分からない。

 私にも分からないことはある。


「君で遊ぶのは簡単だけど、それじゃあ若君が可哀想だから、お行儀よく待っていてあげる」


 アスタロトはそういうと、宙に浮かぶ球体の中でくるくると泳いでいるクロネアさんのを指さした。

 その途端に球体ごとクロネアさんは消えてしまった。多分地下牢に行ったのだろう。

 時々は会いに行ってあげようと思う。クロネアさんは寂しい思いをしているだろうし、あんなに毎日会いに来ていたのだからきっと私の顔を見たいだろう。


「……お行儀のよい方は、とても好感が持てますわ」


「ふふ、そうでしょう? ねぇリディスちゃん、森に入るのは構わないけれど、湖から先には行ってはいけないよ。怖い狼がいるからね」


「こちらにも、狼がいるのですね。植物や動物は、全く違うのかと思っていましたわ」


「あれ、言っていなかったっけ? 世界が二つに分かれた訳じゃないんだよ。あくまでも、世界は一つきりしかないんだ。この話は、また今度ね」


 抱き上げられたまま運ばれた私は、一階にある立派な扉が並んだ廊下に降ろされた。

 薔薇の彫刻が施された重厚感のある木製の扉が開かれる。そこは地下の部屋が五部屋ぐらい入りそうな広い空間で、深い色合いの木の床と、質の良さそうな調度品の数々、寝心地が良さそうなベッドが置かれている。

 私の暮らしていた公爵家の私室に近い。

 アスタロトの部屋のように赤すぎるということはないし、ジルベルト様の部屋の様に無機質すぎるということもない。

 きちんと窓があって、外が見えるのも有難い。陽の光にあたることは大切である。


「君の荷物は運ばせておいたから、今日からここを使ってね。大抵のものは揃っていると思うけど、足りなかったら教えて。それと、どうせ誰も使わないし、城の中のものは君が自由に使って良いよ」


 運ばせた、ということはこの城にはアスタロトとジルベルト様、クロネアさん以外にも何名か魔族の方がいるという事だろう。

 私は会っていないし、人の気配も感じられなかったのだが、城は広いので出会わなかっただけかもしれない。


「有難うございます。今日からは、料理長リディスと呼んでくださいまし」


「そうだね、料理長のリディスちゃん。それじゃあ、楽しみにしてるよ」


 またね、と言うアスタロトに、私は優雅に挨拶を返した。

 扉が閉じられたので、部屋の確認をする。

 部屋の中にはもう一つ扉があって、広い浴室が備え付けられていた。

 クローゼットの中には私の服と、それから倉庫から出してきた制服が数着。私のものではないけれど、丁度良いサイズの真新しいドレスや、靴も並べてある。

 誰からの贈り物かは分からないが、労働の報酬として有難く受け取っておこうと思う。

 鞄もかけられていて、中の貴金属もそのまま入っていた。

 引き出しには清潔そうなリネン類が並べられている。シーツをはがして体を拭こうとしていた掃除婦には破格の待遇だ。掃除婦の仕事ぶりが認められたという事だろう。

 料理長としても、私はこの城に革命を起こさなくてはいけない。それは、私の栄養状態のためでもある。

 私は鞄を引っ張り出すと、二重底の奥から鞘に入ったナイフを取り出した。

 手に馴染む小ぶりなナイフは、野営における私の必需品である。お兄様やクライブにみつかると取り上げられてしまうので、そっと隠しておいて良かった。

 収納ポケットがいくつかついたナイフ用のベルトも一緒に入れていたので、腰につけてナイフを差し込む。

 私は粉石鹸を入れていた布製の鞄を再び肩から下げると、新しく用意して貰った靴の中から一番長い編み上げのブーツを履いた。

 新しい服の中に、腰丈の赤いフリルのついたマントがあるのを見つけたので、それも羽織った。

 そうすると、どこからどうみても食材を探しに森に狩りへ行く、メイド服を着た狩人の格好になった。

 今日の私も完璧だわ。

 鏡で自分の姿を見て満足した私は、森へ向かう事にした。



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