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 クロネアさんは天井に張り付いたまま、値踏みするように私をじっとりと眺める。

 その視線は触れたらねばっと手に張り付きそうな彼女の肌に似ている。

 クロネアさんの顔や薄水色のふんわりとした髪は、公爵家の身なりに気を使っている優秀なメイドたち程度には見栄えする。さかさまにはなっているのだけど。

 とはいえ、いかんせん首から下が全裸でぷるぷるしているので、魔族の美醜についてはよく分からないものの、私としては彼女をどう評価するべきなのか分からない。

 魔族の女性というのは大抵こういう様相なのかしら。

 全裸が普通ということはないと思うけれど。ジルベルト様が『服を着ているんだか着ていないんだか』と言っていたのだから、きっと着衣という概念はあるのだろうし。

 クロネアさんが私を見るのは別に構わないわ。

 泡に塗れて濡れた服を身に纏った私はさながら水辺の女神のように輝いているので、じっくり見たくなってしまう気持ちも理解できる。

 けれど私は忙しいので、ただ見物したいだけならちょっと目の前からどいてほしい。

 彼女のせいで掃除婦の仕事がはかどらない。

 天井から通路の真ん中にはえている彼女は、ひたすらに邪魔だ。

 おまけにしたたり落ちる粘液が、私の泡の楽園を破壊しはじめている。


「悪い事言わないわ、さっさと人間の国に帰りなさいよ。血塗れのクライブが何を考えてるのかしらないけど、迷惑なのよ。ジルベルト様は、静かに滅びゆく魔族の現状に胸を痛めていらっしゃるの、これ以上心労を増やさないでちょうだい」


 どうやら私は責められているみたいだ。

 つまりクロネアさんはジルベルト様を奪われると危惧して、私のところにわざわざ足を運び粘液をまき散らしているという事ね。なんて迷惑なのかしら。

 クロネアさんが言うには、ジルベルト様は滅びゆく魔族の現状に胸を痛めているらしい。

 魔族の女は嫌だと駄々をこねていた男の本心だとは思えないけれど、私は寛大なのでそういうことにしておいてあげようと思う。

 深く掘り下げるのはたぶん皆のためにならない。

 世の中にはそっとしておいた方が良い事もある。そのあたりを人の上に立つ者は、きちんとわきまえなくてはいけないし、私は人の上に立つ者なのできちんと弁えている。


「悪食で、物好きで、血塗れとは、私の知るクライブとは少し違うようですわね」


 とりあえず、あたりさわりのない話題から触れることにした。

 本当は粘液について指摘したくて仕方ないのだけど、もしかしたらクロネアさんにはどうしようもない事情があるかもしれない。

 身体的欠陥を責めるのは、野蛮な者がすることである。


「悪食のクライブ、血塗れのクライブ。大戦の前の呼び名だから、今はどうだか知らないわよ。なんせあいつは人の世界に残って、あんたの産まれた公爵家の使用人の真似事みたいなことをしてるんでしょ。大罪人には良い罰だわ。さぞ、自分の状況を嘆き苦しんでいることでしょうね」


 私の知るクライブは、目を輝かせながら私のために星空ゼリーの材料を混ぜたり、お嬢様尊いの舞いを一日一回は踊るクライブなので、嘆き苦しんではいないと思う。


「私にはそういった姿をみせたことはありませんが、そうなのかもしれませんね」


 どのみち、血塗れだったのは過去の話だろう。重要なのは今のクライブなので、詳しく聞かなくても良い事と判断した。


「あんたをここに送り込んできたのだって、なにかの魂胆があるはずだわ。可哀想な人間の娘、あんたは利用されてるの。そもそも魔族は人間なんて大嫌いなのよ。ジルベルト様は人間なんかを見えるところに置いておきたくないのよ、だからこんな薄暗い地下室に入れられたんでしょ。なに呑気に掃除してるのよ、消えなさいよ、人間」


「クロネアさんは、私を心配して様子を見に来たと、そういうことですのね」


「違うわよ、そんなわけないじゃない。目障りだって言いに来たのよ!」


 クロネアさんは怒っているらしい。

 わざわざ目障りだと伝えに私のところに来るとは、愛と憎しみとは表裏一体とはよく言ったもので、それだけ私に関心があるということだろう。

 そんなことより、この状態はどことなく既視感を感じる。

 魔界に置いて異質な存在の私が、一方的に糾弾されているこの状況。

 これはあれね、かつての私とシンシアさんなのではないのかしら。

 まぁ、でも、私はシンシアさんに『目障り』だの『学園から出ていけ』だのは言っていないので、違うといえば違う。私はシンシアさんに立場を理解してほしかったし、成長を促していたのだから。

 クロネアさんは自分の感情を私に伝えに来ただけなので、違う。

 嫌いな私の前にわざわざ足を運んで、嫌いだと伝える事に一体何の意味があるのかしら。

 好きな方に好きだと伝えた方が余程有意義なのに。

 クロネアさんは私に構っている暇があったら、ジルベルト様の元へと行って愛情を伝えた方が良いと思うのだけど。

 不思議に思いながら、しぼんでしまった泡をかき混ぜた。


「ちょっと、聞いてるの? 高慢なお嬢様がびしょ濡れになりながら掃除をするのを哀れんで、誰かが手を差し伸べてくれるのを待ってるんでしょうけど、期待したって無駄なのよ」


「……クロネアさん」


「何よ」


「ひとつ、とても聞きにくい事を、聞いてもよろしくて?」


「な、なんだっていうのよ」


 クロネアさんの主張はだいたい理解できたので、もう邪魔をしないで欲しいと思う。

 それに、身体的特徴について指摘するのを私は躊躇していたけれど、彼女が動き回るたびに城中を汚されては、掃除婦としてはたまらない。

 これは掃除をするにあたってのとても重要で、根本的な問題だ。


「クロネアさんのそれは、……水精の、癖のようなものですの?」


「癖って、なんのことよ。私は何にもしてないわよ」


「とても言い難いのですけれど、先程からぼたぼたと、あなたの足からミズイロウミウシの体液のようなものが落ちてきて、私、とても困っていますのよ」


 身体的特徴ならば仕方ないけれど、やはり対話は必要だろう。

 このままではクロネアさんは、掃除に害のある水精ということになってしまう。

 私としてもクロネアさんを掃除婦の敵と認識したくはないので、きちんとお話しなくてはいけないわ。


「……ミズイロウミウシの、体液?」


「えぇ、ほら、透明に近い緑色の、このねばっとしたものが、城のあちこちに付着しておりますの。私はなんて薄汚れた城だと驚いていたのですが、それがクロネアさんの種族的癖とおっしゃるのなら、致し方ありませんわね……」


 今のところ掃除婦の敵であるクロネアさんだけれど、城から追い出すわけにはいかないので、譲歩というものも必要かもしれない。

 クロネアさんが汚す場所を決めるとか、本日の行動範囲を私に報告するとか。

 それならば私としてもクロネアさんを追いかけながら、その足跡である粘液の道を綺麗にすることが出来る。


「あ。……あぁ、……私、私……!」


 クロネアさんは混乱した。

 混乱して、天井からべちゃっと泡塗れの廊下に落ちてきた。


「クロネアさん、もしかして気づいていませんでしたの?」


「水精は、湖に住んでいるから……っ、あんまり陸は得意じゃないのよぅ、だから、動き回るのだって、ちょっと大変で、ジルベルト様に会いたくて、毎日お城の中を探していたの、私。私たち、水が無いと本当に駄目だから、体中を水の粘膜で保護しているんだけど、あぁ、なんてこと……!」


 クロネアさんは混乱しながら捲し立てた。

 天井から落ちてきたクロネアさんの足の代わりにあるミズイロウミウシの胴体のようなもの、の裏側には、思った通り小さな吸盤のような、繊毛のようなものがびっしりはえている。私は裏側が見られてちょっと満足した。


「つまり、あなたはかれこれ二百年ぐらい、ジルベルト様を追いかけて城中を歩き回っていた、ということですのね。その度に流れ落ちた、その……、保護膜のようなものが、廊下にこびりついたぐちゃっとしたものの正体でしたのね」


「でも、でも……、魔力の塊みたいなものだから、二、三日で消滅するわよ。特に問題はないはずよ!」


 クロネアさんは開き直った。

 つまり、彼女は掃除婦の敵だ。


「古来からの言葉に、こういったものがありましてよ。部屋の汚れは、心の汚れ。清潔を保てない者は、心も汚染されてしまう、という意味ですわ。クロネアさん、あなたはこれからもこの城を歩き回って、その保護膜のようなものを垂れ流しつづけると、そういうことですのね」


「何が言いたいのよ、私の心が汚いっていうの? 水精には、必要なのよ。保護膜があるから、滑るようにお城の中を歩けるの。ジルベルト様の行く先に先回りするためには、大事な事なの」


 私はモップでクロネアさんをごしごし擦ってみたい欲求にかられた。

 私の欲求に気づいたのか、クロネアさんは泡の中で少しだけ後退りした。


「いえ。私は掃除婦ですので、クロネアさんが汚して回った道を、洗い流して美しくするでしょう。私としては、クロネアさんがジルベルト様を追い回すという日課の邪魔をするつもりはありませんわ。私は掃除婦、自分の仕事をいたします」


「そうよね、あんたはただの掃除婦だものね。せいぜい頑張ってちょうだい」


 私の言葉に、得意気にクロネアさんは髪をかき上げる。


「お城はとっても大きいの。寿命の短い人間のあんたが、一生かけても掃除しきれないぐらいにね。人間の国に帰るつもりがないんなら、掃除婦として一生を終えなさいな」


 クロネアさんはとても得意気だ。今の会話で彼女が喜べる要素があるのか、とても疑問だが、嬉しそうなのでそっとしておこう。


「私は掃除婦リディス。掃除にかけての妥協は一切いたしません。対話を行い丁度良い落としどころをみつけられればと思っていたのですが、どうにも不可能なようですわね。クロネアさん、私はあなたを掃除婦の敵、害水精ミズイロウミウシの方と認識しましたわ」


「な、なんだかよく分からない言葉を作らないで! そもそもミズイロウミウシってなんなのよ、ちょっと嫌な感じがするわよ!」


「害水精ミズイロウミウシの方、私は今日からあなたのあとを追い回し、あなたが滴らせている粘液で汚れた床を美しく磨き上げますわ。あなたの垂れ流した粘液で薄汚れた城を私の心のように美しくするのが、掃除婦リディスの役割だとよくわかりました」


「なんて、腹の立つ人間なの……! 勝手にするといいわ、薄汚れた小間使いの娘!」


 クロネアさんはそう言うと、ずるずると廊下をはっていった。クロネアさんが満足したようなので、私は廊下の掃除に戻った。

 今日中には、私の地下帝国は美しく生まれ変わることができるだろう。




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