掃除婦リディスと水精クロネア 1
小一時間ほど休めたかしら。
目覚めは良好でとてもすっきりしている。
居心地の良いベッドからさっさと起き上がった私は、一先ず荷物を整理することにした。
鞄の中の衣服は空っぽのクローゼットの中にしまい、貴金属の類はそのまま鞄に入れて、クローゼットの奥へと置くことにした。当面は必要なさそうだけれど、いつか役に立つかもしれない。
クローゼットの内扉には鏡がついている。
眠っていたせいで髪が乱れているのがなんともいえない色気を醸し出している私は、公爵令嬢あらため掃除婦リディス。
私の様に麗しい少女に掃除婦という肩書がついただけで、その可憐さに拍車がかかっている。
元々可憐だけれど、少なく見積もっても五割増といったところ。
ジルベルト様が私を掃除婦にしたい気持ちもよく分かるわね。
可憐な私が床にはいつくばって掃除をしている姿はさぞ、嗜虐心がそそられるに違いないのだわ。
とはいえ、私はジルベルト様の性的な趣味としての掃除婦に甘んじるつもりはない。
掃除婦となったからには、掃除婦としての頂点に立ってしまうのが才能に満ち溢れ、努力も惜しまない私なので。
ところで今私は白い服を着ている。
白い服で掃除をするなんて愚か者のやることよね。
カミシールの言うようにシンシアさんを参考にすると、たぶん彼女は着替えもせずに白い服のまま掃除をして「どうしよう、汚れちゃった……」などと言いながら、雨の日によく葉っぱの上にいるジメジメツムリのように泣くのだろう。
まぁ、見習わないのだけど。
私はさっさと服を脱ぐと、濃い茶色の裾の長いワンピースへと着替えた。そして下着の上にふわっとした大きめのドロワーズを履いた。新しい靴下に履き替えて、ブーツに足を通す。
本当は制服があれば良いけれど、掃除婦としてはまずまずの出来だわ。掃除婦でありながら、完璧な愛らしさだ。
軽く髪形を整えると、部屋を出る。
廊下にも窓が一つもなかった。
私の部屋の扉は赤色、他にも扉が並んでいるが全て黒色になっている。
どういう色分けなのか分からないけれど、どの扉も同じに見えるので色が違うと分かりやすくて良い。
上から落ちてきたのだから、ここはもしかしたら地下なのかもしれない。
身分の低いものは最下層の部屋を使うというのも、単純で分かりやすい。
なんとかは高いところが好き、という古来からの言い伝えがある。
ジルベルト様も高いところが好きそうなので、昔の方は賢い事を言ったものね。
私が最初に見た窓のある回廊は、薄汚れていた。
案の定、私の部屋のある廊下も清潔さに乏しい。
床の端々はジメジメツムリの粘液のようなものがどろっとこびりついているし、埃もたまっているし、なんせ暗い。
こちらの世界の光源は不思議な四面体なのだろうが、廊下にはぽつぽつとついているだけで、圧倒的に光量が足りない。
どういうつもりなのかしら。
身分の低い者たちの精神を病ませる作りにわざとしているのかしらね。
魔族の身分制度なんてよく知らないけど、労働階級のものたちの扱いを悪くすると、生産効率が下がることなどわかりきっているのに。
住居を不衛生にするなんてちょっと理解不能だわ。
「全体的に、小汚いお城、ということは、ちゃんと頭に入れておきましょう」
私は腕を組むと、一度頷いた。
他に掃除婦がどれほどいるのか知らないが、王の住まう城がこれではどうしようもない。
私の見た回廊も、私が立っている廊下もこのありさまでは、綺麗な場所の方が少ないと認識しておいた方が良いだろう。
「それにしても……、掃除道具がなければ掃除はできませんわね。困りましたわ」
流石の私も何も道具が無ければこの薄汚れた廊下を綺麗にすることなどできない。
この廊下が掃除婦たちの支度部屋になっているのなら、どこかに道具をしまっている倉庫があるだろう。
私はとりあえず、片っ端から黒い扉を開ける事にした。
廊下の端から端まで、扉は側面に九つ、あわせて十八の部屋がある。鍵のかかっている部屋と、ベッドだけ置いてある誰もいない部屋が私の赤い扉側には並んでいる。
反対側の一番奥が、倉庫になっていた。そこには古めかしい掃除用具が、埃をかぶって大量に押し込まれていた。
その隣の部屋が水場になっている。部屋の奥には綺麗な水が流れ続ける四角い小さな囲いがあり、水桶などがいくつか重ねられている。
囲いの水が溢れないのは、二重になっている受け皿の下に排水溝があるからだった。汚れた水はここに流せということだろう。
私は水桶に水を汲んだ。それから多分洗剤なのだろう、白い粉が入っている袋を持つと、廊下に戻った。
「お水と、洗剤と、モップがあれば、大丈夫でしょう。でも、靴が濡れると面倒ね」
私の履いているブーツは革靴なので、水に強いわけではない。
今から私が行おうとしている事を考えると、脱いだ方が賢明だろう。足や手は汚れたら洗えば良い。廊下は小汚いだけで危険そうなものはないので、私はブーツと靴下を脱ぐと自分の部屋に放り込んだ。
準備は万端。
まずは手近なこの廊下からはじめていきましょう。
私としても、自分の住み家は美しくあった方が良い。
扉を開けて外に出たら暗くてじめっとしていて汚いなんて、そんな生活は健康的とはいえない。
どこもかしこも石でできている廊下に素足で降り立つと、ひやりとしたし、ちょっとぐにゃりとした。
私は廊下に粉状の洗剤をまく。
廊下は長いので、今日のところは半分までと決めた。倉庫のある部屋の前から、私の赤い扉の前までがちょうど半分といった処だ。
行き止まりになっている倉庫から反対側の廊下の端には階段がついている。
特に鉄格子とかそういった仰々しい設備はないようなので、この廊下がすんだら徐々に上の階に手を伸ばしていこうと思う。
まいた洗剤の上に水につけたモップを滑らせると、面白いぐらいにもこもこと泡が膨れ上がった。
毛足の長いモップで上下にかき混ぜると、ふわりとシャボン玉が浮かんでくる。
シャボン玉を見るのは幼い時以来だ。昔はよくクライブが膝の上に私を座らせると、シャボン玉を作って遊んでくれた。
楽しくなった私は、ひたすら廊下を泡だらけにしながら擦り続けた。
モップで撫でる度に、汚らしかった廊下が本来の美しい大理石の色を取り戻すのが愛おしい。
本当は綺麗な筈だったのに、きちんと管理されていなかったから小汚いとしか評価されていなかったのよね、この大理石たちは。
私が来たからには、本来の輝きを取り戻させてあげるわね。
謎の粘液のようなものは、水をかけるととけるように消えていった。
案外あっさり汚れが落ちていくので、気をよくした私はさらに廊下の端の方まで手を広げる事にした。
鼻歌を歌いながらごしごし廊下を擦っていると、どことなく妖艶な女の声が聞こえた。
「頑張るわねぇ、人間の娘」
私は忙しいのだから、話しかけないでもらいたいわね。
今とても良い処なのよ。
粉石鹸の威力はすさまじく、足元があわまみれになっている。裸足の足がつるつるすべるのが面白い。最後には全部流して拭き取らないといけないけれど、今はさらなる泡を作り上げて廊下中を泡の楽園にしなければいけない。
私の泡の楽園は、薄汚れた廊下を美しく磨き上げ、大理石も私に感謝し涙を流すことだろう。
「ちょっとあんた、そこのあんたよ、聞こえてるでしょ!」
「私は掃除婦リディス。またの名を、泡の魔術師リディスと申します」
「泡の魔術師って何よ……、確かにあんたは泡だらけだけど、一体何をしてるのよ」
「薄汚れた地下室で泡の帝国を築きあげておりますわ」
「ジルベルト様のお城の地下室に勝手にいかがわしい帝国を作るんじゃないわよ!」
なんだか知らないが女は怒っているようだ。
無暗に怒りたくなる時期なのかもしれない。そいう時期は誰にでもあるらしい。
ものの本によれば、それは妙齢の女性に必ず訪れる精神的な不調の一種なのだという。つまりは病だ。休んだ方が良い。
私が廊下をモップで擦ることに熱中していると、唐突に眼前ににょっきりと女の体がはえた。
文字通り、はえてきた。さながら雨上がりに倒木から顔を出すドクテングタケのようだ。
「あんた、人間の世界からきてジルベルト様に気に入られようと必死みたいだけど、あんたみたいなちびっちゃい小娘にジルベルト様の関心が向くわけがないじゃない」
彼女はどうしても私と話したいようなので、仕方なく私は手を止めた。
こすらないと私の泡の楽園はちょっとずつしぼんでいってしまうので、早く用事を済ませて欲しいと思う。
女は天井からはえているようだった。
ちょっとだけ視線をあげてみると、さかさまにはえている女の体の胸のあたりから下は、水色に変色していて、ぬるっとしてぷるっとしている。
臍のあたりから下が、海辺で見かけるミズイロウミウシのようになっているようだ。ただし人の体がくっついているので、その大きさはミズイロウミウシの比ではない。
足のかわりにあるその胴体の下には、たぶん小さな吸盤のようなものが沢山ついているのだろう。
それで天井に張り付いているらしく、そのはりついた胴体の部分から、どろっとした粘液がしたたり落ちている。
「……ちょっと、あなた」
私は廊下にこびりついている粘液の犯人をみつけた。
「な、なによぅ」
「私は名乗りましたわ。たとえ私が掃除婦といえども、挨拶を返すのは、最低限の礼儀でしてよ」
名前も知らない女を責めたてるわけにはいかない。
どうして廊下中を粘液塗れにして平気でいられるのか、まずは話を聞かなければいけないわね。
「私は水精クロネア。ジルベルト様の恋人……、候補よ!」
彼女は胸をそらせて言った。
その胸もまた、水色でぷるぷるしていて、クライブが時々作ってくれる丸い星空ゼリーに似ている。
私は星空ゼリーが大好きだった。そして美味しいと言って喜んで食べている私の様子を眺めては、無表情で涙を零しながらどこかに祈りを捧げるクライブの奇行も面白くて好きだった。
確かクロネアとは、ジルベルト様が「服を着てるんだか着ていないんだか分からない」と評価していた女性だ。確かに、どこまでが皮膚でどこまでが服なのか分からない。
まぁたぶん、きっと、裸体なのだろう。
「はじめまして、裸族の方」
「裸族じゃないわよ、水精って言ったでしょ。由緒正しき水の精よ」
「どうりで、ぷるぷる、ぬめぬめ、していると思いましたわ」
「触るととても気持ちが良いのよ、ジルベルト様もよく褒めてくださるわ」
クロネアは自慢げに言う。
ジルベルト様が彼女を痴女あつかいしていることは、私は優しいので黙っておいてあげることにした。